『神のみぞ知るセカイ』は最終回が最も素晴らしいマンガの一つである

神のみぞ知るセカイ

私は幼少期よりジャンプよりサンデーが好きだった。サンデーの方が、ジャンプよりも良くも悪くも「ゆるさ」があったのだと思う。

そんなサンデーの中で私にとって思い出深いマンガの一つがが、若木民喜先生の『神のみぞ知るセカイ』という漫画である。

 

私は、このマンガはラブコメディのあらゆる要素を含んだ素晴らしい作品であると同時に、作者が描いたテーマも非常に優れている作品だと思う。

この作品はあらゆるラブコメディの要素を含んだ作品であるということに異論の余地はないだろうが、一方でインターネット上では、この作品のエンディングについては賛否が分かれた書き込みをみることができる。しかし、この作品のエンディングは『神のみぞ知るセカイ』という作品のテーマ上、必然なのである。

今回は、『神のみぞ知るセカイ』という作品と、そのエンディングについて、(根幹部分ではできる限りネタバレはしないようにしつつ)素晴らしさを書いていきたいと思う。

神のみぞ知るセカイ(1) (少年サンデーコミックス)

『神のみぞ知るセカイ』のエンディングに至るまで

ここでは『神のみぞ知るセカイ』のエンディングについて解説するまでの全段階として、このマンガの魅力を紹介するために、その設定とあらすじを軽く説明したい。

「神のみぞ知るセカイ」の設定

「神のみぞ知るセカイ」の主人公は、「ギャルゲーム」の世界に「神」のごとく君臨する「桂木桂馬」という男子高校生である。彼にとって、二次元の女子を攻略するなら朝飯前なのである(ただ三次元の女性からは「オタメガ」として嫌われている)。

そんな中、桂馬のもとに、とある女性を攻略してほしいという挑発的なメールが届く。二つ返事で返事をした桂馬だったが、これが運の尽き(というか物語の始まり)だった。

桂馬は「悪魔」と契約をさせられてしまったのである

このせいで、ポンコツ悪魔・エルシィと強制的にバディにさせられた桂馬は、ココロのスキマに「駆け魂」という悪霊のようなものが入り込んでしまった女性たちを助けるため、彼女たちの「ココロのスキマ」を「恋愛」で埋めることを求められる。

やむなく桂馬は「ギャルゲーム」の手法を用い、次々と現実世界の女性たちを恋に落としていくのである。

▼(左)桂木桂馬、(右)エルシィ

神のみぞ知るセカイ(26) (少年サンデーコミックス)

私が先ほどこのマンガはラブコメディのあらゆる要素を含んだ作品であると書いたのは、このマンガはギャルゲームを下敷きにしたマンガであり、ギャルゲーム(≒ラブコメディ)をメタ的に見た作品だからである。

『神のみぞ知るセカイ』の三部構成

そしてこのマンガは、三部構成に分けられているという特徴がある。

第一部 攻略編

第一部が、先ほど設定の紹介で書いたように、「駆け魂」に憑かれている女性を「恋愛」によって「攻略」する「攻略編」である。

この辺りは、一話完結ものの短編でありながら、だんだん話が進んでいくという展開であり、非常にテンポがよく読みやすい

第二部 女神編

あまりネタバレにならないように漠然と描くが、第二部は、第一部で攻略した女子のうち、「ある秘密を抱えている女子」を探し当てるため、彼女たちを「再攻略」する章である。そして桂馬たちは、エルシィたち「新悪魔」の中に巣くう“悪い”悪魔たちと相対しながら再攻略を進めていくことになる。

第二部の終盤の疾走感は圧巻であり、これまで私が読んできたラブコメディ史上最高の瞬間の一つである(第二部は推理要素や戦闘シーンなども加わりラブコメディの枠におさまらないマンガだが)。

第三部 過去編

第三部は「世界観の説明」のための章である。桂馬以外のこれまでの主要登場人物があまり出てこないため、少し第一部・第二部とは雰囲気が異なり、正直なところ一番人気がある章とはいえないと思う。しかし、この章があるからこそ、前章まで読んでいるだけではやや飛躍があると思えた設定にも説得力が増し、未回収の伏線が回収されるのである。この章も、エンディングが必然であるのと同様に作品上不可欠な存在である。

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『神のみぞ知るセカイ』のエンディング

『神のみぞ知るセカイ』最終話

前置きが長くなったが、『神のみぞ知るセカイ』のエンディングの素晴らしさについて書いていきたい。

「第二部」で「再攻略」した女の子たちが、事実上、桂馬の正ヒロインの座を争うことになる。最終的に桂馬は誰を選んだのか。ここまで書いてしまったらあまり隠すような必要もない気もするが、ここでは〇〇としておこう。

 

以下の引用は、最終話でのある人物(これも物語の根幹にかかわるのでXと伏字にする)と桂馬の会話である

桂馬 〇〇のやつは、何にもわかってないな。

ボクが一人でいることはむしろ逆効果だ。いつまでも関係が変わらない。

そこでボクが誰か一人とくっつく!! これで関係は強制終了!! ラブコメも終了!!

こーゆーシステムを理解してもらわないと…

X なんて自分勝手な論理だ

桂馬 あいつは毎回そうだ!! 全然こっちのゆーとおりにしない!!

X だから、好きになったんだろう?

「正ヒロイン争い」を終結させるための手段として、最後まで「ギャルゲー理論」を現実に応用しようとする桂馬。

一方で、これまで「ギャルゲーのヒロイン」を「理想のヒロイン」としてきたにもかかわらず、「ギャルゲーには存在しないようなヒロイン」を桂馬は好きになったのである。ここに矛盾があるが、この矛盾こそが桂馬の成長なのである。

 

これまでゲームの世界に生きてきた桂馬が現実に触れるようになるうちに、現実の他人について理解を深めていく。

その過程で桂馬は「理解のできない存在」(≒ゲームには登場しない人物)に出会い、惹かれていく。ゲームの魅力を十分に描きながらも、エンディングでは現実の素晴らしさを描くというのが『神のみぞ知るセカイ』という物語の構造である。

ゲームを肯定し、現実も肯定する

しかし、『神のみぞ知るセカイ』のエンディングはゲームを否定するわけではない。

ゲームは素晴らしい。ゲームを通して現実と触れ合うということもできる。そしてゲームも現実も、どちらも素晴らしいのである。

 

こうしたゲームと現実についての考えは、作者・若木民喜先生の実体験が投影されているのだと思う。

若木先生は京都大学を卒業したものの、職には就かずにゲームをするという時期を長く送っていた。そんな若木先生は30歳で一念発起して真剣にマンガに取り組み、33の時に『神のみぞ知るセカイ』の前作『聖結晶アルバトロス』(残念ながら途中で打ち切り)で連載デビューを果たした。

そんな若木先生が、自分の好きなものを、他の漫画化の誰にも負けないものをマンガにしようとして選んだのが、かつて自分がのめりこんだギャルゲームという存在であった。

ゲームを通じて現実社会と接点を持ち、現実の素晴らしさを知る。だからこそ、桂馬は「普通」と出会う必要があったのだ。

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おわりに

最後に、いわずもがなであるが、『神のみぞ知るセカイ』という作品の大きな魅力は各ヒロインたちの素晴らしさである。

『神のみぞ知るセカイ』という作品のエンディングに対して文句を言う読者の多くは、いわゆる「負けヒロイン」を推していた読者であり、自分の推していたキャラクターが負けヒロインになったことに対する失望の。物語の筋としてはそれは必然なのだということは頭では理解していても、それでも自分の願いが叶わなかったことを残念に思う読者も多いからだろう。

つまり、『神のみぞ知るセカイ』という作品のエンディングに対する批判意見は、多くは「負けヒロインへの思いの強さ」に由来しており、それはこの『神のみぞ知るセカイ』という作品の素晴らしさを表しているのである

ただし、この作品の最終話は、「負けヒロイン」たちにも得るものがあったり励まされたりという描写があり、かなり配慮された描き方がされていると思う

ほら! 空を見上げましょう!!

私たちには未来があるのです!!

(神のみぞ知るセカイ・完)

『神のみぞ知るセカイ』という作品は青春賛歌であり、そしてゲームを肯定する一方で現実世界を肯定する唯一無二のラブコメディなのである。

完結から10年が経った今も色あせないこの作品を、老若男女問わず一度読んでみてほしいと思う。