ヘミングウェイの『老人と海』のような、並外れて有名な作品については、このブログでその魅力を伝えたり考察を書いたりする意味をあまり感じないので、私的な読書感想文を書くことにしようと思う。
私が『老人と海』という作品と出会ったのは、中学生の頃だったと思うが、結局この作品を読み終わったのは大学生になってからだった。中学生の時分の私にとって、『老人と海』という作品は退屈であり’(なにしろ物語中盤は、老人がカジキと海に向かって独り言をつぶやくだけである)、その短さにもかかわらず最後まで読むことができなかったのだ。
大学生になって『老人と海』を読み、確かにこの作品が名作だと呼ばれる理由はわかった気がした。その時には英語力も身につき、つねに高く称賛されるヘミングウェイの簡潔な文体の魅力というものもわかった気がした。
だが、やはり大学生の私にとっても、この本を読むのはどこか宿題を果たすかのような義務感がつきまとっていたことは否めない。
名作である理由に触れることはできたが、自分の心に響く物語ではないーー『老人と海』という小説をそう自分の中で位置づけようと思っていた私だが、物語のラストの部分で、その評価は覆された。今回の記事では、その一文について紹介をしたい。
『老人と海』あらすじ
『老人と海』を読んだことがある方には不要な説明だろうが、私の中で最も印象に残った一文を紹介するにあたって、一応ここでその背景としてのあらすじを紹介しておきたい。
『老人と海』は、その名の通り、漁師である老人が海で巨大な魚(カジキ)と格闘する物語だ。
物語の舞台はキューバ。老人の名はサンチャゴという。彼を慕うマノーリンという少年もいるが、サンチャゴが40日ものあいだ一匹も魚が獲れないという不漁が続いたため、マノーリンはサンチャゴの船に乗ることを親から許されなくなってしまう。サンチャゴの不漁は結局84日間続くことになる。
85日目の朝、サンチャゴはマノーリンに見送られて小舟で漁に出る。そこで大きなカジキに遭遇し、3日3晩カジキと戦う。
老人は3日3晩の格闘の末、カジキを仕留めるが、血の匂いを嗅ぎつけたサメが次々に襲撃してくる。老人は必死にサメの襲撃を防ぐが、魚のほとんどを食べられてしまう。3日目の夜に老人は自分の小屋にたどり着く。
『老人と海』の結末
つまり『老人と海』とは、老人が格闘の末に大魚を仕留めたが、その大魚はサメに食べられてしまうというあらすじである。
そして、私が『老人と海』の中で最も印象に残ったのは、この作品のおよそ最後から2番目の段落にあたる以下の文章である。ここでは原文も紹介したい。
That afternoon there was a party of tourists at the Terrace and looking down in the water among the empty beer cans and dead barracudas a woman saw a great long white spine with a huge tail at the end that lifted and swung with the tide while the east wind blew a heavy steady sea outside the entrance to the harbour.
“What’s that?” she asked a waiter and pointed to the long backbone of the great fish that was now just garbage waiting to go out with the tide.
“Tiburon,” the waiter said, “Eshark.” He was meaning to explain what had happened.
“I didn’t know sharks had such handsome, beautifully formed tails.”
“I didn’t either,” her male companion said.
その午後、旅行者の一団が「テラス」を訪れた。海を見下ろすと、ビールの空き缶や死んだカマスが浮いている。ある女性は、巨大な尻尾のついた長大な白い背骨をその中に認めた。港の外側では東の風がずっしりとした海を吹き、背骨は波とともに浮き上がり揺れている。
「あれは何?」彼女はウェイターに、いまや潮に流されようとしている大きな魚の骨を指さした。
「ティブロン」ウェイターは言った「サメが…」ーー彼は何が起きたのかを説明しようとした。
「サメがあんなにハンサムで美しい尻尾をもっているなんて知らなかった」
「僕もだよ」彼女の連れの男も言った。
(拙訳)
「ティブロン」とは、スペイン語でサメのことである。
おそらくアメリカからと思われる旅行客が、骨だけになっていた老人の仕留めたカジキを指さして、「あれは何?」と聞く。
ウェイターは、老人が3日3晩の格闘の末にカジキを仕留めたが、サメに食べられてしまったために白い骨だけになっているのだということを説明しようとし、「ティブロン」とスペイン語で言いかけたのちに、英語で「サメが…」と説明しようとする。
しかし、その女性は、白い骨が「サメ」のものなのだと勘違いし、連れの男性も特に気に留めない。
この「理解されないこと」こそが、私が『老人と海』で最も心に残った部分である。
サンチャゴが3日3晩、ほぼ命をかけて戦った、カジキとの死闘は、まったく理解されない。
これは衝撃だった。
しかしこれは、人生の無意味さを表すということなのだろうか?
それはきっと、そうではないだろう。
私たちの多くは、歴史に名を残すわけでもなく、何か有形のものを残すわけでもなく、このままひっそりと世を去っていく。しかし、そのような人生だからといって、意味のないものでは決してない。
有形のものを残さなかったとしても、そして他人に全く理解されないどころか勘違いされたとしても、人間の尊厳が損なわれることはない。サンチャゴの場合、不撓不屈の精神こそ、彼が持つ最も美しいものなのである。
もしサンチャゴが称賛だけを受けていたとしたら、誰からも称賛を受けない人は価値がないのか、ということにもなりかねない。しかしこの小説は、称賛されない人物であっても”英雄”であるとを描く。『老人と海』はアンサングヒーローを讃えた小説であり、それゆえに普遍性を持っているのだ。
おわりに
ところで『老人と海』は、形式的には老人の「敗北」を描いていながら、実際は老人の不屈の「勝利」を描いている小説である。
この逆説は、上記の「理解されないこと」を描いたシーンでも成り立つ。観光客の無理解が描かれる一方で、ウェイターはサンチャゴの奮闘を伝えようとしている。つまりウェイターはサンチャゴの理解者なのだ。それも、わざわざスペイン語から英語に変えて放そうとするくらいに。
もしかすると、なぜ私がこの一文が印象に残ったのかというと、「理解されないこと」を描くことによって、逆説的にマノーリンやウェイターなどサンチャゴの「理解者」がひきたったからかもしれない。だが、それはまた別の読書感想文ということで、ここではこれ以上書かない。
もしまだ『老人と海』を読んだことがない方はぜひ読んでみて、どの一文が一番印象に残ったのかを考えてみてほしい。
海外文学の名作といわれる作品には、長くて読み始めるのに勇気がいる作品が多い。でも、読んでみると日本の小説と違った面白さがある。今回は、文庫本一冊で読める、はじめて海外文学を読むという方にも遠慮なくお薦めできる海外文学を紹介したい。[…]
ノーベル文学賞受賞作家と、受賞理由についてまとめてみました。 ノーベル賞120年の歴史はあまりに長いので、のんびり見たり流し読みしながら見てください。 「ノーベル文学賞受賞作家は(入手できる限り)全員読む」のをライフワークにしてみ[…]