羊をめぐる冒険

村上春樹『羊をめぐる冒険』が描いた“長いお別れ”【感想・考察】

村上春樹の『羊をめぐる冒険』は、村上春樹作品の中でも人気のある代表作である。個人的にもかなり好きな作品ではあるのだが、一方でこの作品の何が好きなのかというと、意外と言語化できない。

ただ、この作品は何度か読んではいるのだが、正直なところ『羊をめぐる冒険』という物語の筋を完璧に覚えているかというと、あまり自信がない(そのおかげで、読み返すたびに驚くことができるのだが)。そういう意味で、私はこの作品の何が好きなんだろうかと自問自答することもある。

考えてみると、私は『羊をめぐる冒険』という小説について、物語の筋よりも、作品の持つ雰囲気、登場人物たちの交わす言葉、そして全体を覆う独特のトーンに惹かれているのだと思う。『羊をめぐる冒険』は、冒険譚でもあり、そして村上春樹作品にしばしば見られるように喪失を描いた作品である。

今回は、『羊をめぐる冒険』における喪失について、この作品に影響を与えた海外文学も紹介しながら書いていきたい。

羊をめぐる冒険

『羊をめぐる冒険』概要・あらすじ

はじめに、『羊をめぐる冒険』という小説について簡単に説明したい。

『羊をめぐる冒険』概要

『羊をめぐる冒険』は、1982年に講談社から刊行された村上春樹の三作目の長編小説である。『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』に続く「青春三部作」の完結編として位置づけられ、この作品で野間文芸新人賞を受賞した。

「青春三部作」は、「初期三部作」「鼠三部作」とも呼ばれることがある。これらは後述の「鼠」と「僕」の物語であり、その完結編が本作『羊をめぐる冒険』である。一方、本作に登場する「羊男」などは『ダンス・ダンス・ダンス』に登場するなど、以降の村上春樹作品への橋渡し役としての役割も同時に担っている。(なお、「僕」の物語という意味では『ダンス・ダンス・ダンス』が実質的な完結編である、という意見も多い)

『羊をめぐる冒険』は村上春樹という作家の一つの転換点となった作品であり、よく言われるのは、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』に村上春樹が感銘を受けて、長く読み継がれる長編小説を書きたいと思うようになったということである。『羊をめぐる冒険』は、そうした意欲のもとに生まれた作品だった。それまで実験的で純文学的な作品を発表していた村上春樹が、永く読み継がれるようなストーリー性を持った本格的な長編小説を書いたという意味で、村上春樹という作家の経歴的にも重要な小説といえる。

『羊をめぐる冒険』あらすじ

ここからは『羊をめぐる冒険』という小説について紹介したい。

物語の舞台は1978年。主人公は「僕」と呼ばれる29歳の男性で、1948年生まれという設定になっている。

主人公の「僕」の仕事は、相棒と二人で広告代理店を営み、簡単な広告のコピーなどを制作することである。

そんな「僕」は、妻と別れ、新しいガールフレンドと付き合うことになる。そのガールフレンドは耳専門のパーツモデルをしているという設定で、魅惑的な耳を持っている。耳を隠しているか、耳を出しているかで全然印象が変わるという不思議な存在として描かれる。

ある日、そんな「僕」のもとに、右翼の大物の秘書が現れる。秘書は「僕」に対して、「僕」がとあるPR誌で使った写真に写っている羊について、これを探し当てろと要求してくる。その羊には、奇妙な星型の斑紋があった。

この羊が写った写真は、もともと「鼠」という「僕」の親友が送ってきた手紙の中にあったものだった。「鼠」は今は消息を絶ち放浪している人物である。

右翼の大物に命じられ、「僕」はその羊を求めて北海道へ渡ることになる。そこで「いるかホテル」というホテルを定宿にして、ガールフレンドとともに冒険が始まる。

「僕」は羊をめぐる不思議な冒険を繰り広げていくことになり、その過程で「鼠」の行方も追うことになる。

『羊をめぐる冒険』感想・考察

『羊をめぐる冒険』以上のようなあらすじである。あらすじ紹介では割愛したが、物語の中では、羊の被り物をかぶった「羊男」という奇妙な人物も登場するなど、村上春樹の独特な世界観を味わうことができる。

では、村上春樹は『羊をめぐる冒険』という小説で、何を描こうとしたのだろうか。ここからは、村上春樹に影響を与えた海外文学の紹介も交えながら、感想と考察を書いていきたい。

海外文学からの影響

村上春樹が描いた「長いお別れ」

村上春樹がアメリカの作家、あるいは海外の作家に影響を受けているということはよく言われるところだが、この『羊をめぐる冒険』という小説も例外ではない。まず、村上春樹自身が語っているところによれば、この『羊をめぐる冒険』はレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ/ロング・グッドバイ』(The Long Goodbye)を下敷きにしているという。

▶本ブログの『ロング・グッドバイ』紹介記事はこちら

村上春樹も翻訳を手がけている『ロング・グッドバイ』は、ハードボイルドな探偵小説である。この作品の主人公はフィリップ・マーロウという私立探偵で、マーロウがかつての友人テリー・レノックスを探すという物語である。物語途中、テリー・レノックスは自殺したという情報も入ってくるのだが、マーロウは彼が自殺をしたとは信じない。実際のところはどうなのか——というネタバレはここでは避けるが、最終的にはマーロウとテリーの間で「長いお別れ」が交わされることになる。

本題の『羊をめぐる冒険』に戻ると、この作品における主人公の目的は羊をめぐる冒険というタイトルのとおり、羊をどのように探すかというところにある。しかし、もともと親友だった「鼠」という登場人物と主人公との「長いお別れ」が一つのテーマになっているという意味で、『ロング・グッドバイ』を下敷きにしているといえる。

村上春樹の描いた「闇の奥」

海外文学からの影響という意味では、ジョゼフ・コンラッドという作家も『羊をめぐる冒険』の中にモチーフとして登場する。

コンラッドも探偵小説的な小説を書いているが、やはりコンラッドといえば代表作『闇の奥』(Heart of Darkness)だろう。『闇の奥』は、19世紀末のコンゴを舞台にした作品である。当時のコンゴはベルギー国王により私有地され、極めて非人道的な政策が行われていた。

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『闇の奥』は主人公(ちなみに彼の名前もマーロウである)が、そうしたコンゴの奥地でクルツという白人が病気らしいというところで、彼を迎えに行くことになる。しかし、そこで主人公が目撃したのは、クルツが独自の王国を作り上げている姿だった。ちなみに『闇の奥』は、ベトナム戦争に舞台を翻案したフランシス・フォード・コッポラによる映画『地獄の黙示録』の原作としても非常に有名である。

『羊をめぐる冒険』と『闇の奥』はともに、異界への冒険譚という要素を持っており、構造的にも似た部分がある。

また海外文学から離れると、『羊をめぐる冒険』の中では日本の作家として三島由紀夫も言及されているが、三島由紀夫も実は東京から北海道に行く冒険譚的な小説である『夏子の冒険』を出している。村上春樹に『夏子の冒険』が影響を与えたのかはわからないが、『羊をめぐる冒険』とどこか類似した雰囲気はあるかもしれない。

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前置きが長くなったが、村上春樹が描いたのは、『長いお別れ』がテーマにしたような「友情」そして「喪失」、そして『闇の奥』がテーマにしたような異界への冒険を通して知ることのできる人間の本質なのではないかと思う。

村上春樹ワールドを楽しむ

ここまで海外文学からの影響から『羊をめぐる冒険』のテーマについて考えてきたが、一方で『羊をめぐる冒険』という小説は何が面白いのかというと、最初に書いたように物語の筋というよりも、作品の持つ雰囲気、そしてセリフなのだと思う

物語の最後、主人公と「鼠」が対話をするシーンがある。あまり言い過ぎるとネタバレになるので詳細は控えるが、たとえばこの最後のシーンで交わされる言葉は非常に有名であり、印象的である。

あとには沈黙だけが残った。沈黙の他には何も残らなかった。

村上春樹『羊をめぐる冒険(下)』(講談社文庫、233p)

この台詞の余韻こそ、『羊をめぐる冒険』という小説を象徴するものといえるだろう。

おわりに

村上春樹の小説は、しばしば(アンチからは)「何も起こらない小説」と評されることがある。『羊をめぐる冒険』も、冒険譚という体裁を取りながら、劇的な出来事が次々と起こるわけではない。読後に残るのは、登場人物たちの交わした言葉の余韻であり、そういった村上春樹の世界観に没入できるところが『羊をめぐる冒険』という作品の唯一無二の魅力なのだと思う。

『羊をめぐる冒険』は、ここまで書いてきたように海外文学からの影響も指摘されるが、登場人物の「右翼の大物」にも代表されるような、終戦後の戦争の残り香も強く残る時代の雰囲気を描いた作品でもある。1970年代後半の日本を舞台に、世界的にも評価される文学を村上春樹という作家が作り出した。その意味でも、日本文学史上に残る傑作である。

『羊をめぐる冒険』をまだ読んだことがない方には、ぜひ一度手に取ってみてほしい。講談社文庫から上下巻で出ている。

『羊をめぐる冒険』の次におすすめの小説
『ロング・グッドバイ』
村上春樹自身が訳したレイモンド・チャンドラーによる『長いお別れ』。「ギムレットには早すぎる」などの名台詞も多い。
『ダンス・ダンス・ダンス』
実質的な『羊をめぐる冒険』の続編。先述の通り、主人公の「僕」は、「鼠三部作」と同じ。
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