空前のブームとなっている『鬼滅の刃』。私も読みましたが、非常によくできた作品だと思います。原作だけからではここまで流行るとは全く予測できませんでしたが、アニメの出来もいいですし、ここ数年で断トツのコンテンツというのは肯けます。
ただ、読み終わった時に「これはどう考えてもおかしい」と思った箇所が一つだけあったんですね。
それが、鬼殺隊の最終選別です。
一応ネタバレを含むので、未読の方でネタバレを気にする方は見ないようにしてください。
あと、私はこの記事で『鬼滅の刃』という作品や作者の吾峠呼世晴先生を貶めようというわけではないのでその点はご理解ください。
「最終選別」のどこがおかしいか
まず最初に、私が覚えた疑問点について書いていこうと思います。
「最終選別」とは
「最終選別」というのは、鬼狩りの組織である鬼殺隊に入隊するための最終試験です。
試験を突破するための条件は、鬼がたくさんいる山の中で7日間生き抜くこと。
事前の情報では雑魚の鬼しか山にいないという話でしたが、実際には今までに50人もの人間を食らって力をつけてきた「手鬼」と呼ばれる強力な鬼が山の中にいて、受験者の多くがこの「手鬼」の犠牲になります。
主人公の炭治郎が「最終選別」を受けた時、受験生は20人以上でしたが、試験を突破したのはわずか5人でした。
15人以上が死亡したということになります(逃亡できたのかもしれないが……あの雰囲気だと死んでると私は解釈しました)。
また、過去の最終選別では、炭治郎の兄弟子にあたる錆兎(さびと)や真菰(まこも)も、命を落としています。
あまりにも無駄な死
この「最終選別」で大量の死者を出すという構造は、あまりにも無駄だと思うんですよね。
鬼殺隊はそんなに豊富に人材がいるわけでもなく、むしろ人材難だと描かれています。
『鬼滅の刃』の世界では、「鬼」が実在することを知らない(あるいは信じていない)人もたくさんいます。
舞台は大正時代ですし、猟奇的な事件が起こっても「不思議な事件」として片付けられることもあるりそうだというのにも、一定のリアリティがあります。だから、鬼殺隊は「政府非公認」なのです。
そのような鬼殺隊に入隊する人は、もちろん例外はありますが、通常次の三つの条件を満たした人です。
第一に、世間的には少数派である「鬼」を知っている人であること。
そして第二に、「鬼」に恨みを持っている人間であること。
そして第三に、自分の手で鬼を抹殺しようと決意した人。
こんな条件を満たす人はなかなかいません。
そんな人材難の中で、前途有望な人間が多く死ぬ(しかも犬死する)という構造は、少しおかしいと思います。
「選ばれしものでないと戦力にならない」というような描写は特にないですし、やっぱり最終選別はおかしいと思うんですね。
鬼殺隊当主・産屋敷の汚点
ちなみに、炭治郎たちが最終選別を終えてから、鬼殺隊の当主である産屋敷輝哉(うぶやしきかがや)は、こう発言します。
五人も生き残ったのかい
優秀だね
……5人「も」?
ヤバいやつですよ、産屋敷輝哉。
前途有望な若者が15人以上死んでいることに対して何か言葉はないのか?
毎年何十人も死ぬ状況を改善しようとはしなかったのか?
お前は人の心がないのか?
まあこれで、当主・産屋敷が徹底して冷酷な人間であれば、別に最終選別にも納得することができるんです。
「産屋敷は冷酷な奴だ」で、片づけられるんです。
「可哀想に、鬼殺隊の人間はこんな奴に洗脳されて尽くしているなんて……」なんて疑問もわいてくるでしょうが、それは1/fの揺らぎで説明できます(流石にそれは無理があるか)。
でも、作中で産屋敷輝哉が冷酷無比な男とは描かれないんですね。
産屋敷は、主人公の炭治郎(と禰豆子)の窮地も救いますし、鬼との戦いで命を落としたすべての鬼殺隊士の名前と人となりを記憶しています(最終選別で死亡した人については……)。
さらに、死亡した鬼殺隊士たちの墓参りを、病に臥せるまで毎日行うなど、作中では基本的に聖人のように描かれます。
しかも、最期は自分と家族の命を投げうって宿敵・鬼舞辻無惨を倒そうとする。
こんな聖人が、
五人も生き残ったのかい
優秀だね
なんて台詞を残したのは、汚点としか言いようがないと思われても仕方ありません。
▼産屋敷輝哉
ストーリー上の設定として考察する
でも、だからといって『鬼滅の刃』の設定が甘いと決めつけるのは極端ですし早計です。
『鬼滅の刃』は非常に精密に設定が作り込まれているマンガで、私も最初は「最終選別」はストーリーとしてもおかしいと思っていたのですが、だんだん考えるうちにストーリーとしてはおかしくないのではないかと思うようになってきました。
(ただ、最終選別はシステムとしては無駄が多くおかしいと思います笑)
ここからは、「最終選別」もストーリーのうちだと解釈して、『鬼滅の刃』の考察をしていこうと思います。
産屋敷輝哉は常軌を逸している
先ほどから述べているような「聖人」としての産屋敷輝哉と、「冷酷」な人間としての産屋敷輝哉を同時に説明するには、こう解釈するしかないでしょう。
象徴的なのが、無惨のこのセリフです。
産屋敷という男を 人間にあてる物差しで測っていたが
あの男は完全に常軌を逸している
――この評価が、産屋敷輝哉をいちばん正確に表した評価だと思うのです。
命は軽く、想いは重い
戦国武将・多胡辰敬の有名な家訓にある「命は軽く、名は重い」ではないですが、鬼殺隊の場合「命は軽く、想いは重い」なんです。
永遠というのは人の想いだ
人の想いこそが永遠であり 不滅なんだよ
――このセリフに表れているように、産屋敷輝哉にとっていちばんだいじなのは「想い」です。
しかし、想いに比べれば、命は軽いんです。
鬼殺隊員の命も、家族の命も、そして自分の命も。
むしろ『鬼滅の刃』で「命」に一番の価値を置くのは、敵サイドである「鬼」の論理なんですよね。
(「無限列車編」を見た方はその一番象徴的なシーンをご覧になったと思いますが。)
無惨を殺すという最終目的の前には、命は軽い。
死んだ隊員の「想い」をつなぐために墓参りは欠かさないし、彼らのことを忘れることも絶対にないが、命が重いのかと言われるとそうじゃないんです。
だから、産屋敷輝哉の「五人も生き残ったのかい」というようなセリフを残してしまうような冷酷な一面と、隊士思いの一面は、矛盾することはないのだと解釈できます。
『鬼滅の刃』の人物描写
思えば、『鬼滅の刃』の人物描写を通しても、「両面性」というのはよく描かれることです。
物語1話で登場する冨岡義勇は、第1話ではめちゃくちゃしゃべります。
ものすごくしゃべるキャラだと、すべての読者が認識したはずです。第1話時点では。
▼冨岡義勇
でも義勇は、本来は寡黙なキャラクターなんですね。
義勇が無口であることを描写されるたびに「おまえ、1話でめちゃくちゃ喋ってたじゃん……」ってツッコみたくなりますが、簡単に言えばキャラクターに両面性があるわけです。
『鬼滅の刃』はそういうギャップを描くことが多い作品なので、両面性のうちの一面だけを取り出すと、もう一面が「おかしい」と思ってしまいがちなんですが、これは計算された設定なのではないかなと思います。
義勇も両面性がある。そして、お館さまこと産屋敷輝哉にも、両面性があるんです。
おわりに
というわけで、ここまで鬼殺隊の「最終選別」がおかしいという話をしてきましたが、
やっぱり、「最終選別」は常軌を逸しています。
そして、その結論としてはこうなるでしょう。
産屋敷輝哉が、本当はやばいやつなんですよ。
巷では「理想の上司」とか言われることもあるらしいですけど、絶対に私は上司にしたくないです。
最終選別の「おかしさ」は、産屋敷輝哉の「おかしさ」によって完全に説明できます。
でも、時に登場人物から狂気を感じるところが『鬼滅の刃』の魅力の一つでもあるんだろうなあ。
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