漫才過剰考察

髙比良くるま『漫才過剰考察』に見る「自己演出能力」の重要性【感想・書評】《令和ロマンM-1連覇の戦略》

令和ロマンが2025年4月28日に出した動画で、髙比良くるまの活動復帰の報告には驚かなかったが、髙比良が吉本興業を退所したという知らせには非常に驚いた。

吉本興業退所が最初にXでトレンド入りした時、私はくるま側が退所を申し出たのだろうと思った。もちろん、くるまは自身を「よしもとの最高傑作」と呼び、「よしもとが発明した」M-1に命を懸けていた、よしもと愛のある人間であることは知っていた。しかし、それ以上に吉本興業から契約を解除する必要性を感じなかったからだ。

それは私が活動復帰の報告に驚かなかったのと同様、オンラインカジノは確かに無問題とは言えないとしても被害者のいるものではなく、またくるまの場合は悪質性も低く、十分な謹慎を行ったと思うからだ。

 

しかし吉本興業は、くるまに契約解除を打診した。その理由について、令和ロマンの動画では以下のような説明がされている。

(オンラインカジノ謝罪動画を)「こっちとしてはな、やってほしくなかったんや」と言われ、

「会社との信頼関係が壊れてしまったから。くるまくんが望めば、契約解除」という打診を受けたという。

ところで令和ロマン、特に髙比良くるまは、「自己演出」に優れた芸人であると思う。思うに、自分でプロデュースができてしまう、自己で完結した人間である。

つまり、髙比良くるまは、会社から見れば自分の思い通りの「演出」ができない芸人なのだ。だから会社の論理として、“不都合な芸人”になりつつあったという点はわからなくもない。しかし今回問題になったという、髙比良くるまのオンラインカジノ謝罪動画は、現代的な感覚からすると非常に常識的なものに思えたし、吉本興業の価値を毀損するものではなかったはずだ。だがそれでも、吉本興業としては望むものではなかったのだ(吉本側としては、何もなかったふりをすればよかったのにということなのかもしれない)。

そう考えると、今回の「吉本興業vs髙比良くるま」は、旧時代のマネジメントを行おうとする企業と、新時代の自己プロデュースを行う芸人との相克であると読み取れるように思う。

両者に正解はないとしても、少なくとも令和に生きる人間として「自己演出も行える人間」になったほうがいいのは間違いない。

 

では、髙比良くるまはどのようにして「自己演出」をしているのか。その内容とヒントは、髙比良くるまの著書『漫才過剰考察』に書いてある。今回はこの本について紹介したい。

それに、今回独立することになった髙比良くるまを応援したいという方にも、『漫才過剰考察』の購入をおすすめしたい(この本の印税も吉本興業に入るのかもしれないが)。

『漫才過剰考察』には何が書いてあるのか

まず、この本には何が書いてあるのか。簡単に目次の紹介をすると、以下の通りである。

□はじめに
■M-1グランプリ
■寄席
□スペシャル対談 霜降り明星・粗品×令和ロマン・髙比良くるま

この構成からもわかる通り、

・M-1グランプリの考察

がこの本の前半部分を占めている。令和ロマンが出場していないM-1も含め、M-1のトレンドがどのように推移してきたのかをくるまが考察しているので、M-1を見てきたお笑いファンが楽しめる内容であるのは間違いない。そして令和ロマンの連覇の背景についてわかるのは、M-1において「どの持ちネタを披露するのか」という戦略を熟考していたということである。これについては後述したい。

そしてこの本の後半部分を占めているのが、

・寄席

という章である。この本における「寄席」については、著者であるくるまが以下のように定義している。

東京でいえば新宿のルミネtheよしもと、大阪でいえばNGK(なんばグランド花月)、他にも地方の大ホールとかでやっているデカお笑いライブ。ファミリーとか老カップルとか、お笑いライブ初めての人に向けて開催しているセミナー。

この章でわかるのは、いかに令和ロマンらの芸人が「どこで、何を話すか」を重視していることにある。これについては、後ほどこの記事で掘り下げていきたい。

 

またこの記事では紹介しないが、霜降り明星・粗品との対談も非常に読みごたえがある。ちなみに本題から外れるが、この対談では、粗品がくるまに対して発したとある放送禁止用語が「お笑い悪魔」という言葉に言い換えられている。答えはわからないが、元の言葉とは何だったのか、ぜひ予想してみてほしい。

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髙比良くるまの「自己演出」とは

では、この本で髙比良くるまが述べていることは何なのか。簡単に紹介しつつ、そこから得られるものについて考えていきたい。

M-1の順番問題

この本の「M-1グランプリの考察」では多くのことが考察の対象となっているが、大きなテーマの一つは「順番問題」である。

特にくるまは、令和ロマンが初優勝した2023年のM-1を非常に不完全燃焼だったと述べている。その理由として挙げられているのは、

同系統の漫才が連続すると、ネタの構造が「透けやすく」なってしまう

ということである。同じような構造のネタを披露するコンビが連続したため、笑いに変化が生まれなくなっていたと指摘する。

 

「くじ運」の悪さによって全体が盛り上がらなかったのは、ある程度は仕方ないかもしれない。だが、たとえば、自分が予定していたネタと同じような漫才を前の組が披露してしまった時、対策としては複数の手札を

M-1では最も自信のある漫才を披露するのが通常だが、令和ロマンは4~5本のネタを用意していた。

粗品 M-1の偉い人と喋ってて「令和ロマンだけネタを4~5本提出してきた」って聞いて「えぇ~?」って

自分以外の人間が何をするかによって、どう見られるかは変わる。だから自分の持ちネタの中で、最も自分を他と差別化する(または自分をよく見せる)ことができるものを披露すべきだと、くるまは説いているのである。

たとえばプレゼンなどをするにしても、ライバルが売りにしているのと同じものを徹底的にアピールし勝利するという戦略は、ライバルが1人しかいなければいいだろう。だが、ライバルが2人以上になったとき、同じ内容をアピールすると、目新しさは失われる。他のライバルたちと違うアピールをした方が有効な場合も多いだろう。だから、相手がどのようなプレゼンを読み、それに合った自己アピールをするということが重要になる。

身なりを整える

そして自己を演出する上で、身なりをTPOに合ったものにすることも重要である。

くるまがM-1でサンローランのスーツを着ていたことは有名だが、くるまは何を着るかということはかなり重視しているように思う。

件の報告動画でも、くるまは黒い服を着ているが、これについてはこう説明している。

ちゃんとすいませんでしたみたいなのするの恥ずいなって

黒い服は着たんだけど

黒い服だが、黒のスーツではないというのにも、意図が見えてくる。

この「身なりを整える」というのは、必ずしも「見た目がよければいい」ということではない。顔が整っている方がよいという単純なルッキズムには私も反対したいが、ある程度「顔によるイメージ」は存在するのは事実であり、そのイメージを逆手にとって自分への印象をコントロールすることは重要だと思う。もう少し詳しく、それはどのようなことかを説明したい。

身なりによる第一印象をコントロールする

「身なりによる第一印象をコントロールする」ということについては、くるまが本の中でかなり詳しく説明している。

たとえば、漫才コンビを見た時に、「どちらがボケでどちらがツッコミなのか」は、わかりやすい方がいい場合もある。少なくとも令和ロマンの場合はそうだった。

本の中でも指摘されているが、令和ロマンは、細身の髙比良くるまに対して、やや太めの松井ケムリという、体格に違いのあるコンビである。ステレオタイプで「太っている方がボケである」という先入観を持たれていることもあったようで、それに令和ロマンは苦慮していたようだ(詳しくは本の中で書かれている)。

観客がツッコミだと思いこんでいた人がボケ始めた場合、観客は、一瞬反応に困ってしまう。それは漫才をする上ではマイナスでしかない。

令和ロマンくんはもともとくるまくんの方が短髪コンタクトでちゃんとしたスーツを着ていたのでボケらしさがなく、ボケれば「急に変なこと言い出した……!」という空気が流れていて最悪だった。

だから、くるまは、自分の身なりを変えたのだという。彼の言葉でいうと、「長髪メガネ変則スーツで武装した」

そこまで入念にケアをすれば、「どうやら変な人が変なことを言いそうだぞ……」という空気になってはいるので、ボケ始めることができる。

こうした工夫が、前人未到のM-1連覇の裏にはあったのだ。

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自己演出の重要性

髙比良くるまがこの本の中で明かしているような「自己演出」は、非常に役に立つものだと思う。

就職活動やプレゼンにおける自己演出

ところで、これはこの記事を書いている私の話だが、私はある志望度の高かった企業の役員面接で失敗したことをきっかけに、「漫才」というものを学ぼうと思ったことがあるーーと言うと言い過ぎかもしれないが、面接における「つかみ」の重要性は漫才と通づるものがあると思うようになったのだ。

ところで、漫才についての産学連携研究(?)の成果である『最強の漫才 東大と吉本が本気で「お笑いの謎」に迫ってみた!!』という本には、次のような章があるのだが、ここでも漫才における「つかみ」の重要性が指摘されている。

◆面白い「つかみ」で漫才の「本ネタ」はどこまで影響される?
◆漫才の「つかみ」は挨拶に似ている?

「つかみ」は場を和ませ、その後の議論などの方向性を示すことができる。これは色々な場面で使用できるテクニックである。

自己演出は「ズル」なのか

ちなみに、ここまで紹介してきたような自己演出戦略を持ち込むことについては、くるま自身も葛藤があったようである。

未経験者が多い中、経験者としての余裕を見せつけるためにスーツを新調して38マイクまでゆっくり歩いた。

初めてお話題に戦略を持ち込んだ瞬間だった。
いい結果に繋がった。

でも達成感はなかった。
正しい努力ではなくズルをしている自覚があったから。
身なりなんか気にせずギリギリまでネタを磨いている奴こそ正しいと思っていた。

「過剰演出」を行うことは、確かによくないことかもしれない。しかし、自分を実力以上に見せるものではなく、自分の実力を最大限に生かすために用いるのであれば、それは正当なものではないかと私は思う。

『漫才過剰考察』と編集者

ある意味で、自己演出とは、「自分をどう見せるか」「何を見せるか」「何を見せないか」をコントロールする、編集作業と言っていいのかもしれない。かりそめの自分を生み出すのではなく、自分のある部分を見てもらえるような工夫を行うということである。

ちなみに、くるまはは否定しているが、くるまはこの本の編集者との熱愛をスクープされている(編集者のクレジットはこの本にもあるが、たしかに女性のようだ)。「自分を編集する」能力の高いくるまと、編集者には、ある種似たところはあったのかもしれない。2人の行方は分からないが、ぜひ続編も期待したい。

おわりに

最後に、この本は髙比良くるま自身がTBSラジオで以下のように述べているように、非常に読みやすい本なので、興味を持った方はぜひ読んでみてほしい。

ボク活字が苦手なんで、「活字苦手勢」ができるだけ一気読みできる文字のサイズとその分量を目指してて。あと途中途中で、僕が本のハリーポッターが好きなんで、本のハリーポッターみたいにちょいちょい太字になって、びっくりさせてくるっていう……。

また冒頭でも述べたが、髙比良くるまを応援したい人は、応援するという意味でも『漫才過剰考察』を読むといいかもしれない(もしかしたらこの本の印税も吉本興業に入るのかもしれないが……)。

◆この記事で紹介した本

 

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