
ハードボイルド小説とは何か。この問いにもっとも的確に答えてくれる一冊を選ぶとしたら、私はレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』(村上春樹訳。清水俊二による旧訳では『長いお別れ』)を挙げたい。
私は特別ハードボイルドを愛好しているわけではない。それでもこの『ロング・グッドバイ』だけは、男どうしの友情と、哀しい別れの影がいつまでもつきまとう、深く印象に残る作品である。
チャンドラー自身、本作を「自分の最高傑作」と呼んだ。村上春樹もまた、『カラマーゾフの兄弟』『グレート・ギャツビー』と並べて、人生で出会った重要な三冊の一つに数えている。今回はこのミステリの枠を超えて読み継がれてきた小説について紹介したい。
『ロング・グッドバイ』あらすじ・概要
『ロング・グッドバイ』とはどんな小説か
まず、作品の輪郭を簡単に紹介する。
『ロング・グッドバイ』は、1953年に発表されたチャンドラーの長編で、私立探偵フィリップ・マーロウが登場するシリーズの六作目にあたる。1955年にはアメリカ探偵作家クラブが選ぶエドガー賞の最優秀長編賞を受賞している。日本では1958年に刊行された清水俊二訳『長いお別れ』として親しまれ、2007年に村上春樹の新訳『ロング・グッドバイ』が出た。本稿は基本的に村上訳に基づく。
物語はこう始まる。マーロウは、〈ダンサーズ〉という店の前で、酔いつぶれた一人の男と出会う。テリー・レノックスというその男に、マーロウはどこか惹かれるものを感じ、やがて二人はバーで杯を重ねる友人どうしになる。ところがあるとき、レノックスは妻殺しの容疑をかけられ、メキシコへ逃れた末に自殺したと伝えられる。
彼を庇って沈黙を貫いたマーロウは、警察から手荒い扱いを受けながら、一人で事件の奥にある真相へと近づいていく。
筋立てだけを取り出せば、これは一篇のミステリである。しかしこの小説の本当のテーマはミステリーではなく、タイトル通り二人の「長いお別れ」なのである。
「ハードボイルド」とは何か
ここで少し余談になるが、そもそも、この作品が分類される「ハードボイルド」とは何か説明したい。
「ハードボイルド」とは、もともとは卵などが固くゆで上がった状態を指す言葉である。それが転じて、感傷や恐怖に流されず、冷酷非情で、精神的にも肉体的にも強靭、容易には妥協しない、そういう人間の在りようを指すようになった。文学的には、暴力的だったり反道徳的だったりする題材を、善悪の判断を差し挟まずにそぎ落とされた簡潔な筆致で描く手法や文体を意味する。
権力に流されず、暴力に屈さず、かといって必要とあらば暴力も辞さない。007のジェームズ・ボンドあたりを思い浮かべると、この「型」はわかりやすいかもしれない(ボンドはハードボイルドの影響を多分に受けている)。ただし誤解されがちだが、本作のマーロウ自身はボンドと違って禁欲的で、女性関係においても節度を保つ男である。
そして正直に言えば、私にはマーロウの行動原理がうまく飲み込めない場面も少なくない。それでも、ハードボイルドな性格ゆえに口をついて出る彼の台詞は、見ていて面白い。そういう意味では、私はハードボイルド小説が好きだ。
個人的に好きなのは、このやりとりである。
「マーロウか」
「だとしたら?」
「そこで待ってろ」
知り合いに出会い「○○じゃん」などと言われたとき、ときどき「だとしたら?」と返してみたくなる。
『ロング・グッドバイ』のテーマとは
『ロング・グッドバイ』の名台詞の数々
そしてこの作品には、ハードボイルド小説としての魅力ももちろんあるのだが、やはり一番印象的なのは「長いお別れ」という主題そのものだろう。
この物語は簡潔に言えば、マーロウが友人テリー・レノックスにいかに別れを告げるか、いかにして心の中で決別するか、という物語である。
そして本作には、もはやこの小説の代名詞といってよい一文がある。
さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ(清水俊二訳『長いお別れ』)
さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ(村上春樹訳『ロング・グッドバイ』)
二人の友情の象徴として印象的なのが、彼らが酌み交わすギムレットだ。「ギムレットには早すぎる」という台詞も有名である。
結末は、次のように描かれる(勘のいい方にはネタバレになりかねないので注意してほしい)。
模造大理石の廊下を歩いていく彼の足音が聞こえた。足音は時間をかけて遠ざかり、やがて沈黙の中に吸い込まれた。それでもまだ私は耳を澄ませていた。
何のために? 彼がふと歩を止めて振り返り、引き返してきて、私が抱えているこの胸のつかえを取り払ってくれるひとことを口にすることを求めていたのか?
いや、そんなことは起こらなかった。それが、私にとって(中略)最後の姿になった。
そのあと、事件に関係した人間に誰にも会っていない。警官は別だ。警官にさよならを言う方法はまだ見つかっていない。
本当に見事なラストだと思う。この作品の主題と魅力が、ここに残らず凝縮されているといっても過言ではない。
チャンドラーの自伝的小説としての魅力
そして『ロング・グッドバイ』をいっそう特別なものにしているのは、これがチャンドラーの全作品中、もっとも自伝的な小説だという事実である。
チャンドラーは、長く病床にあった妻シシーの闘病と並行してこの小説を書いた。彼女の死は作家を深い鬱へと突き落とし、一時は自ら死を選ぼうとするほどに追い詰めたと伝えられる。喪失の影は、そのまま作品全体に落ちている。
そして興味深いのは、この小説の中に作者の分身が二人いることだ。一人は言うまでもなくテリー・レノックス。酒に溺れ、戦争で心に傷を負った男である(レノックスの傷は第二次大戦、チャンドラー自身は第一次大戦に従軍している)。
またレノックスはカナダ国籍ながらイギリスで長く過ごし、英国紳士流の教えを受けている。これは、イギリスで古典的な教育を受け、アメリカ出身ながら古き良きイギリスを愛したチャンドラー自身に重なっている。
もう一人の分身は、物語の途中から登場する流行作家ロジャー・ウェイドだ。売れっ子でありながら、自分の書くものが本物の文学とは見なされないことに引け目を感じ、酒に逃げる。大衆向けの探偵小説を書きながら、もっと真剣な作家として認められたいと願ったチャンドラーが自身を仮託した存在である。
つまり『ロング・グッドバイ』は、一人の作家が、自分の弱さと痛みを二つの人物に託して描いた小説なのだ。マーロウとレノックスの友情の哀しさは、作者の喪失の体験と重なるからこそ、ここまで印象的なのかもしれない。
おわりに
マーロウとテリー・レノックスを結んでいた、あの奇妙な友情の正体とは何だったのか。『ロング・グッドバイ』は、それを少しずつ解き明かしていく物語でもある。
ミステリとして、ハードボイルドとして、そして一人の作家の自伝的な小説として。この小説はいくつもの魅力を持っている。この記事では「長いお別れ」が実際には一体何なのかは、あまり触れてこなかった。興味を持った方は、ぜひ実際に読んで「長いお別れ」の余韻を楽しんでほしい。そして、きっとこう言いたくなるだろう。「ギムレットには早すぎる」と。
村上春樹訳『ロング・グッドバイ』はもちろん、清水俊二訳『長いお別れ』も、いまでも手に入る。読み比べてみるのも、ぜひお薦めしたい。

