小説の主人公というものは、並外れた知性や洞察力の持ち主であることが多い。でも、カズオ・イシグロの『日の名残り』(土屋政雄訳)は、この原則にまったく反する。
「普通の人」が人生の夕暮れに差しかかったときに、ふと自分の人生とは何だったのかを考える。『日の名残り』は、その哀しさを軽妙に描きつつ、また残りの人生の楽しさとは何なのだろうかを考えさせてくれる名作である。
『日の名残り』あらすじ
※ネタバレ注意です
『日の名残り』の主人公はは、イギリスの古風な執事スティーブンスがである。
スティーブンスは本当に生真面目で、笑ってしまうほど融通の利かない人間である。 それでいて、特に頭が切れるわけでもない。
先ほども書いたように、小説の主人公とは思えないほど平凡な人間なのである。
――だが、その過剰なまでの生真面目さが、この作品のユーモアにもなっている。ユーモアがないところがユーモアなのである。
あらすじの本題に戻ろう。
時は第二次世界大戦終結後。
彼は、新しく屋敷の主人となったアメリカ人ファラディ氏から、休暇を与えられて旅に出る。
旅の目的の一つは、以前の主人ダーリントン卿にともに仕えたミス・ケントン(今は結婚してミセス・ベンになっている)に会いに行くことであった。今の屋敷では人手が足りないので、旧友ミス・ケントンをスティーブンスは再び屋敷に引き入れたいのである。
そして、旅をしながらかつてダーリントン卿に使えた日々と、ミス・ケントンとの思い出に浸り、スティーブンスは自分の人生の意味を考えていく。
そして、スティーブンスは次第に、かつての自分の行いが正しかったのかを、疑い始める。
かつてスティーブンスは、主人の言われるがままに行動することこそ美徳だと考え、それができる自分に満足していた。
ミス・ケントンの次のセリフは、かつての彼の性格を象徴している。
「いま、ふと思ったのですけれど、あなたはご自分に満足しきっておられるのでしょうね、ミスタースティーブンス。」
だけど、それで良かったのだろうか。ーーそれを疑いだすのである。
スティーブンスは、かつての主人ダーリントン卿が、第二次大戦でドイツのスパイに騙されていたことに気づく。だが、当時のスティーブンスは、そんなダーリントン卿の命令を絶対に果たすことを美徳としていた。
――しかし、果たしてそれは正しかったのか? ダーリントン卿と同じように、自分もスパイにしてやられただけだったのではないのか?
また、スティーブンスは、今自分がミス・ケントンを呼び戻したい理由は、屋敷の人手不足だけではないことに気づく。——自分が持っていた彼女への淡い感情に気づくのだ。
かつてのスティーブンスは、使用人同士の恋愛なんてご法度だと思っていた。彼の「執事観」からすれば、そのようなことは絶対にあるべきでなかったのだ。
――しかし、それは本当に正しかったのか? あのとき別の行動をしていれば、自分とミス・ケントンはまったく違う生活を送っていたのではないか?
旅の最後に、スティーブンスは目的であるミス・ケントンと会い、話をする。
過去は変えることができないし、もうスティーヴンスがミス・ケントンと一緒に働くことはない。
しかし、いまできる方法で、残された人生を精一杯楽しむことはできる。そしてスティーヴンスは、次の一歩を歩みだすのである。
格調高い中にあるユーモア
『日の名残り』は、非常に格調高い雰囲気の作品でありながら、ユーモアに富んだ作品である。
「生真面目すぎる」主人公スティーブンス
まず、どこが面白いのか? というと、スティーブンスの性格である。
スティーブンスは、真面目すぎるのである。そして融通が利かない。
彼の目下の悩みは、「新しい主人を満足させるジョークを言うにはどうすればよいのか」である。今までは冗談とは真逆の人生を歩んできたのだから。
回想の中でも、スティーブンスは、主人の友人の息子(新婚前)に「女体の神秘」を教えなくてはいけなくなったりして四苦八苦する様子が描かれる。
それにスティーブンスは、生真面目すぎるためでもあるのだが、あまり頭が切れないので自分に都合がいいように物事を解釈する節がある。読者はそんなスティーブンスの主観とバイアスが入り込んだ解釈に、「おいおいそうじゃないだろ」と突っ込みたくなるところが面白い。
スティーブンスはいわゆる「信頼できない語り手」なのであるが、それもこの小説を読む上での面白さである。だんだんとスティーブンスが自分の本心に気づき始めていくのは、その最たる例で、非常に文学的にも面白いのである。
スティーブンスに降りかかる「悲劇」は、少し切ないこともあるけど笑えるのである。
「格調高いはずなのに、笑えてしまう」ーーそんな面白さを持った名作である。
『日の名残り』のテーマ
『日の名残り』のテーマとしては、「自分は正しい」と思っていたのが打ち砕かれるという、価値観の変化が重要なものとして挙げられる。
ミス・ケントンとのロマンス(ロマンスというほどでもないし、もしかしたら最後までスティーブンスの勘違いかもしれない、という点にこのロマンスの面白さがあると思う)と似たような経験は、誰しもが持っているのではないだろうか。
ーーどういう人生がありえたのだろうか。あの時もっていた価値観は、正しかったのだろうかーーーと。
スティーブンスは、同じ屋敷に使える者同士の恋愛など言語道断だと思っていた。
しかし、その価値観は正しかったのだろうか…… なんていうのを、人生の落日にさしかかってスティーブンスは思うのである。
職場内恋愛を憎んだ男の末路
卑近な例を挙げてみるとしたら、大学生のサークル内恋愛なんかは、スティーブンスの例に近い。(スティーヴンスの場合、まさに「職場内恋愛」なのだが)
サークル運営のためには、カップルなんてできない方がいいことの方が多い。
生真面目な人間(陰キャともいう)は、たいていそういうのを言い訳にしてサークル内で交際相手を作らない(作れない)。
こういう風に読むと、なんだかめちゃくちゃ『日の名残り』が自分にささってくる気がするのは私だけだろうか?
それでも前を向いて生きていく
でも、『日の名残り』は悲劇ではない。
人生が思い通りにならなかったからと言って、後ろばかり向き、自分を責めてみても、それは詮なきことです。
あのときああすれば人生の方向が変わっていたかもしれないーーそう思うことはありましょう。しかし、それをいつまで思い悩んでいても意味のないことです。
こうして、スティーブンスは老年に至って初めて「生真面目すぎる執事」から脱却することを目指すのである。
老若男女、だれが読んでも、しんみりすると同時に前向きになれる一冊だと思う。
おわりに
ノーベル文学賞作家として一躍日本でも名をはせたカズオ・イシグロ。
日本でのブームは去ったかもしれないが、彼の作品の持つ価値は永遠に変わらないと思う。
私たちは、彼のような作家と同時代に生きていることを喜ぶべきである。
文学的だけど面白く味がある。イギリスを舞台にしていながら、どこか日本のルーツも感じる。海外文学の入り口としても本当にお薦めの作家である。
▼カズオ・イシグロの英語は結構読みやすいので、英語に自信がある方は原書もおすすめ。