ウェイクフィールド

ホーソーンが書いた最高の短編小説『ウェイクフィールド』【あらすじ・感想】

短編小説の名手として知られるノーベル文学賞作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが「およそ文学における最高傑作のひとつと言っても過言ではない」と評価した短編小説が、19世紀アメリカの作家ナサニエル・ホーソーンの「ウェイクフィールド」という短編である。

(正確には「ホーソーンの短編のうちの最高傑作であり、およそ文学における最高傑作のひとつと言っても過言ではない」という言葉だというが、それでもボルヘスが激賞したのは間違いない)

私がナサニエル・ホーソーンの短編「ウェイクフィールド」を読んだのは、2024年に亡くなったポール・オースターの『幽霊たち』という小説に、この「ウェイクフィールド」という短編が登場したからだった。オースターが自身の作品で紹介する小説や映画などの作品は、どれも読んだり観たくなったりしてしまう。

それで「ウェイクフィールド」という作品を読んでみたのだが、たしかにこの小説は傑作であり、いろいろな話を想起するものであった。今回はこの短編小説について書いていきたい。

ウェイクフィールド

ホーソーン「ウェイクフィールド」あらすじ

「ウェイクフィールド」という小説は、次のような書き出しから始まる。

何かの古い雑誌か新聞で、ある男の物語が実話として語られていたのを筆者は記憶している。
それは妻の前から長いあいだ姿を消していた男ーーかりにウェイクフィールドと呼んでおこうーーの話であった。
かように抽象的に言ってしまうと、さほど異様な話には思えまいし、また、事情をきちんと具体的に述べぬかぎり、人の道にもとるとか笑止千万とかいった非難も当たるまい。しかしながらこれは、夫婦間で為されるあらゆる良からぬ仕打ちのなかでも、記録上最も罪が重い例というには程遠くとも、おそらく最も奇妙な例と言ってよいであろう。
さらに言えば、人間の奇行を列挙した一覧表に目を通しても、これほど非凡な行為はそうざらにあるまい。
この夫婦はロンドンに住んでいた。夫は旅行に出ると偽って、自宅の隣の通りに間借りし、妻にも友人にも知られることなく、またかような自己追放の理由などこれっぽちもなしに、二十年以上の年月をそこで過ごしたのである。その間、男は毎日己の家を目にし、よるべないウェイクフィールド夫人の姿を頻繁に見かけるした。
そして、結婚生活の至福にかくも長き空白をはさんだ挙げ旬にーー彼の死が確定したものと見なされ、財産も整理されて、その名は記憶の彼方に追いやられ、妻ももうずっと前に人生の秋の寡婦暮らしを受け容れていたところへある夕暮れどき、あたかも一日出かけていただけという風情で、男は静かに自宅の敷居をまたぎ、終生愛情深い夫となった。
筆者の記憶しているのはこうした概要のみである。

「ウェイクフィールド」の筆者(=ホーソーン)は、ある雑誌か新聞で見た奇妙な事件について記し、そしてこの夫に思いを馳せて小説を書き始める。

いったい、なぜウェイクフィールドは唐突に家を去ったのか。筆者は、ウェイクフィールドはほんの悪戯のつもりで家を空けたのだろうと想像する。そして、家を去ったウェイクフィールドの心境を想像し、物語は進んでいく。

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ホーソーン「ウェイクフィールド」感想

以上が簡単な「ウェイクフィールド」のあらすじである。

私は、この物語を読みながら、個人的な思い出も含めて3つの話を想起した。

ウェイクフィールドはなぜ戻れなかったのか

何かをやりかけて、途中でひっこみがつかなくなったことは、誰にでもあるものだろう。

私が「ウェイクフィールド」を読んで最初に思い出したのが、2013年4月5日に放送された『探偵!ナイトスクープ』の「23年間妻に返事をしない夫」のエピソードである。ささいな夫婦喧嘩のあとに、夫が意地を張って妻に返事をしなくなり、気づけば23年もの月日がたっていたという話である。

これは“現代のウェイクフィールド”ともいえるエピソードではないだろうか。20年もの間死んだと思われていたのに、実は隣の通りに住んでいた、というエピソードは狂気のようには思えるが、しかし本当は誰しもウェイクフィールドのようになる可能性があるのではないだろうか。

ウェイクフィールドは、その気になれば、いつでも家に帰れることを自覚している。だができないのだ。

「すぐ隣の通りではないか!」と彼は時おり口にする。愚か者! いまやあそこは別世界なのだ。

これまで彼は、帰宅を一日、また一日と伸ばしてきたが、この語はもう、いつ帰るかを明確に定めはしない。

「ウェイクフィールド」という小説は、そんな普遍性も描いているから名作なのである。

孤独と疎外

もう一つは、「ウェイクフィールド」という短編は、孤独や疎外感を描いているということである。

これは私自身の話だが、大学時代に、知人が亡くなったことがあった。私にとって、同世代の知人が亡くなるという経験をしたのは、それが初めてのことだった。私はその知人とは、親しい友人関係にあったというわけではなく、互いに顔を知っているという程度だった。葬儀に呼ばれたわけでもなく、共通の友人も数人くらいしかいなかった。

しかしそれゆえに、私は大きなショックを受けることになったのかもしれない。なぜショックを受けたのかというと、その知人が亡くなっても、私の人生がまったく変わらずに続いていることに絶望したのだ。もし私が死んだとしても、家族やごく近しい友人は悲しんでくれるだろうが、しかし世界は変わらずに回っていくのだ。そのことに気づいたときの孤独感や疎外感といった感情を、「ウェイクフィールド」という短編は思い出させた。

「ウェイクフィールド」を引用した、ポール・オースターの『幽霊たち』という小説は「ニューヨーク三部作」と呼ばれる3つの作品のうちの一つであり、ニューヨークという大都市の孤独と疎外を描いたとされる。ウェイクフィールドがロンドンという都会に住んでいたのも、決して偶然ではないだろう。「ウェイクフィールド」という小説は、”都市”の孤独と疎外感と隣り合わせにある現代人にも通じるところがある。

死者への思い

死者への思いという点で共通するが、もう一つ私が「ウェイクフィールド」を読んで思い出したのは、2025年に公開された映画『片思い世界』(監督・土井裕泰、脚本・坂元裕二)である。

※以下『片思い世界』のネタバレを含みます。

 

映画『片思い世界』において、広瀬すず・杉咲花・清原果耶が演じる三人は、実はこの世の人物ではない。つまり「幽霊たち」なのだ。

この映画はプロットや設定にいろいろな欠点もあるが、一つ言えるのは、この映画は近しい人を亡くした人への救いを描いているということである。亡くなった人たちも、もしかしたら自分たちのすぐ近くで(幽霊となっても)元気に過ごしているかもしれないーーそういう救いである。

「ウェイクフィールド」の場合、死んだわけではないが、ある意味でこの『片思い世界』の設定と似ている。自分たちの前から姿を消してしまっても、もしかしたらどこかで元気にしているのかもしれない、そしていつかふらっと帰っているのかもしれない。

そういったことも、「ウェイクフィールド」という作品を読んで想起した。

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おわりに

「ウェイクフィールド」は、わずか数十ページの短編小説だが、ここまで書いたように色々なことを想起する小説である。

入手はやや難しい小説だが、興味のある方はぜひ読んでみていただきたいと思う。

▼「ウェイクフィールド」(柴田元幸訳)に加え、ウェイクフィールドの妻に思いを馳せた小説であるエドゥアルド・ベルティ著『ウェイクフィールドの妻』が収録された『ウェイクフィールド/ウェイクフィールドの妻』という本で読んだ。現在絶版中で入手しにくいので、興味のある方は図書館などで借りることも検討いただければと思う。

▼Kindleであれば英語版の方が入手が簡単かもしれない

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