2021年に生誕200年を迎えたドストエフスキーの作品は「現代の予言書」と言われる。誰が言い始めたのか厳密にはわからないが、たとえば新潮文庫版『カラマーゾフの兄弟』に寄せられた原卓也の解説には「この作品は今日でもなお、人類の未来に対する予言的なひびきを失わわぬばかりか、いっそう強めてさえいるのである。」と書かれている。また新潮文庫のドストエフスキーの著者紹介には「「現代の予言書」とまで呼ばれた文学を創造した」とある。
そのようなわけで、『カラマーゾフの兄弟』と並ぶドストエフスキーの代表作である『罪と罰』も、「現代の予言書」と呼ばれることがあるようだ。
たとえば新型コロナウイルスの世界的大流行が起こった時、一躍『罪と罰』のこのようなシーンが脚光を浴びた。
彼は病気の間にこんな夢を見たのである。
全世界が、アジアの奥地からヨーロッパに向かっていく恐ろしい、見たことも聞いたこともないような疫病の犠牲になる運命になった。ごく少数のある選ばれた人々を除いては、全部死ななければならなかった。
それは人体にとりつく微生物で、新しい旋毛虫のようなものだった。しかもこれらの微生物は知恵と意志を与えられた魔性だった。
これにとりつかれた人々は、たちまち凶暴な狂人になった。しかも感染すると、かつて人々が一度も決して抱いたことのないほどの強烈な自信をもって、自分は聡明で、自分の信念は正しいと思いこむようになるのである。
(中略)
すべての人々が不安におののき、互いに相手が理解できず、一人一人が自分だけが真理を知っていると考えて、他の人々を見ては苦しみ、自分の胸を殴りつけ、手をもみしだきながら泣いた。
「アジアの奥地」から「全世界」に向かって広まった疫病という点が偶然にも新型コロナウイルスに一致するのはもちろんであるが、しかもその後の「自分の信念は正しいと思いこむようになる」というのは、陰謀論であってもそうでなくても「自分の考え」こそが正しいと思い込んでいる人々を量産し、分断を生んでいる今の世界を示唆しているように思われる。
もっとも、ドストエフスキーは疫病の結果として自分の考えを正しいと思い込む人間が増えることを予期したのではなく、これは主人公ラスコーリニコフが罪を自覚していく過程のメタファーである。しかし、私たちが『罪と罰』の細部の描写にはっとさせられるのも事実なのであり、それゆえ今でもドストエフスキーの作品は「現代の予言書」と呼ばれるのだろう。
だが、物語全体を通観した時に『罪と罰』が「現代の予言書」である理由は、おそらく『罪と罰』という作品が社会の変革をテーマにしているからではないだろうか。
この記事では、『罪と罰』の内容を現代に照らし合わせつつ感想を書いていきたい。
『罪と罰』概要・あらすじ
はじめに、『罪と罰』の概要とあらすじを軽く説明しておく必要があるだろう。
『罪と罰』の主人公は、ロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフという人物である。
この名前について、あらすじ紹介に入る前に説明したい。
ロシア語の名前について
まず「ロジオン」が「名前」である。親しい間柄の人たちからは、そこから派生したロージャという愛称でも呼ばれる。
次に、「ロマーヌイチ」が「父姓」であり、これは「ロマンの息子」を意味する。『罪と罰』の時代では、「名前+父姓」という呼びかけが礼儀正しく親しみを込められたものとされていたらしく、しばしば主人公はロジオン・ロマーヌイチというように呼び掛けられる。
最後に、「ラスコーリニコフ」が「姓」である。『罪と罰』の地の文章では、主人公はラスコーリニコフと呼ばれる。
また、ロシア語の名前は家族でも男性と女性で異なる。
たとえばラスコーリニコフの妹の名前は、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコワである。
「アヴドーチヤ」が名前で、ドーニャ、ドーネチカという愛称がある。「~チカ」という愛称はかなりくだけた感じで、非常に親しい人からしか使われない。男性には「~チカ」という愛称はほとんど使わないようである(使うと侮蔑の意味になってしまう)。
「ロマーノヴナ」が父姓だが、男性の場合と語尾が異なる。
「ラスコーリニコワ」も姓だが、男性の場合と語尾が異なっている。
登場人物の名前のわかりにくさゆえに海外文学をとっつきにくいと思っている方は多いだろうが、一度覚えてしまえば決して難しくないので、ぜひ挑戦してみてほしい。
しかし、私は脇道にそれてしまった……。
『罪と罰』概要・あらすじ
では、『罪と罰』がどのような話なのかを、ごく軽く紹介したい(ほんとうに一部分しか紹介しないので、ご了承いただきたい)。
自信を持って言えるのは、『罪と罰』は面白い小説だということである。
そう言えるのは、一つには『罪と罰』は推理小説的な側面を持っているからである。『古畑任三郎』に影響を与えた『刑事コロンボ』は、他ならぬ『罪と罰』の影響を受けている。
つまり、最初に読者(視聴者)に犯人による犯罪のシーンを見せ、ラストで犯人が自供する……という流れである。推理の課程で物的証拠よりも精神的な証拠を重視するのも、『罪と罰』の登場人物ポルフィーリィのスタイルである。
『罪と罰』の犯人となるのは、主人公ラスコーリニコフだ。
主人公ラスコーリニコフは貧乏な学生であり、現在は大学を除籍されて、貧乏故に鬱々とした生活を送っている。
そんな折に、ラスコーリニコフは妹ドーニャが結婚するとの知らせを受ける。ラスコーリニコフは、ドーニャが金銭のためにこの男(ルージン)と結婚しようとしていること見抜き、この知らせに憤る。
ラスコーリニコフは、崇高な理想のためには悪徳に染まった質屋を殺害してもいいのではないかという考えを抱くようになり、悪名高い質屋の老婆アリョーナ・イワーノヴナを殺害してしまう。しかし、思いがけずこの犯行をアリョーナの妹リザヴェータに見られたことから、リザヴェータも殺害してしまう。
ラスコーリニコフの犯行は首尾の悪いものであったが、運に味方されラスコーリニコフは逃げおおせる。
しかし犯行の翌日からラスコーリニコフは熱病に襲われる。ラスコーリニコフの精神は犯行に耐えられず、時には犯行をほのめかしたりしてしまう。
また、ラスコーリニコフが犯行の数か月前に発表した論文が、読み方によっては殺人を肯定する内容であったことから、予審判事ポルフィーリィはラスコーリニコフが犯人ではないかと疑うようになる。
ポルフィーリィとの数度の対決や、教養がありながら娼婦に身をやつした女性ソーニャとの出会いもあり、ラスコーリニコフは次第に自供へと追い詰められていくのである。
『罪と罰』には、さまざまな登場人物のさまざまな話が進行するが、一番の軸となる話はこのラスコーリニコフの殺人である(もう一つの軸はドーニャの結婚であるが、ここでは割愛してしまった)。
このように書くと『罪と罰』は犯人が追いつめられるだけの推理小説に思われるかもしれないが、私が思うに『罪と罰』はそれだけの推理小説ではない。
『罪と罰』はラスコーリニコフという人間が明らかになっていく過程の推理小説であり、だからこの作品は今でも世界文学上の名作とされているのだと思う。
では、ラスコーリニコフとはどのような人物なのだろうか?
『罪と罰』感想・考察
『罪と罰』の前半を読むと、読者は、ラスコーリニコフが罪の意識に懊悩しているのではないかと思うだろう。少なくとも私は、ラスコーリニコフは罪の意識にさいなまれているのではないかと思った。
しかし、物語を読み進めていくと、ラスコーリニコフは別に老婆を殺害したことには罪悪感を感じていないことがわかるのだ。
この、主人公の心理が明らかになっていく過程は、主人公が犯人だと追い詰められていく過程よりもある意味スリルがある。
いったい、ラスコーリニコフは何に悩んでいるのか?
ラスコーリニコフの「罪」への意識
ラスコーリニコフは、金貸しの老婆を殺したことには、罪悪感を最後の最後まで抱かない。
しかしラスコーリニコフは、自らが殺人犯になってしまったことの重圧に耐えきれず、物語前半では、時折自らが犯人であると仄めかすような行動をしてしまう。読者は、ラスコーリニコフが「罪悪感」に耐えられなくなったのだと思う。しかし、これは少し違う(ちなみに新潮文庫版上巻のあらすじには、妹リザヴェータを予期せず殺してしまった罪悪感がラスコーリニコフを苦しめると書かれているが、これも少し違う気がする。ラスコーリニコフは、リザヴェータを哀れに思うが、仕様のない犠牲だったと考えているように思われる)。
確かにラスコーリニコフは、自分が殺人をしたことに耐えられない。これは源泉としては罪悪感があるのだろうが、ラスコーリニコフは自分が殺人に耐えられないことに耐えられないのだ。
ラスコーリニコフは、あくまで老婆の殺人を正当化している。前途有望な若者が、たった現在のお金が足りないという理由だけで、将来への途がまったく絶たれることは、正しいことだろうか? だとしたら、悪徳な質屋の老婆を殺して立身出世に役立ててもいいのではないだろうか? むしろ悪評ばかり立っている老婆を殺すことに、なんの罪があるのか?
さらにラスコーリニコフは、ナポレオンなどの立法者は、法律を犯すことのできる特権を持っていると考える。選ばれた人間であれば、法を犯すことができるのだ。
しかし、ラスコーリニコフはいざ殺人を犯して初めて自分がそのような「選ばれた人間」ではなかったことに気づかされる。ラスコーリニコフはそれが耐えられないのだ。
「新たな宗教」は生まれるのか?
誤解を恐れずに書けば、ラスコーリニコフの理論は魅惑的だ。
最初に書いたように、『罪と罰』は社会の変革をテーマにしている。
ラスコーリニコフは、新しい社会を創造しようとしていた。そしてそのためなら、犠牲者が出ても構わないと考えていたのだ。それは不可避なものであるから。
思うに「社会の変革と犠牲」の問題は、いつの時代にも存在している。
新型コロナウイルス禍でも、どれほどの犠牲を許容するかは問題となった。
コロナ禍では、ある意味、老人や基礎疾患を持つ人々の命と、飲食店などの経済がトレードオフになっている面がある。感染を防げば経済が回らず、経済を回せば感染は防げない。
これは、まったく犠牲をなくすことはできないから、難しい問題である。
どうしても一定の犠牲は許容せざるを得ないものの、しかし、一方に犠牲を強いるのはおかしい。結局私たちは、良心に従って行動するほかないのである。
だがラスコーリニコフは、自分の理想のために他者に犠牲を強いたのである。この考えは、所詮は独りよがりのものである。
記事の冒頭で紹介した「疫病の夢」は、再掲すると以下のようなものであった。
これにとりつかれた人々は、たちまち凶暴な狂人になった。しかも感染すると、かつて人々が一度も決して抱いたことのないほどの強烈な自信をもって、自分は聡明で、自分の信念は正しいと思いこむようになるのである。
この悪夢に登場する「自分は聡明で、自分の信念は正しいと思いこむようになる」人々というのは、ラスコーリニコフ自身なのである。
ラスコーリニコフも、最終的にはキリスト教の教えへと回帰していく。キリスト教というと日本人にはなじみが薄いように思われるかもしれないが、なんのことはない。一般的な「人倫」へと回帰するのである。
ラスコーリニコフは、自分の「倫理」を構築しようとした。しかし結局、これまでの社会で受け入れられてきたような「倫理」を犯すことはできないのだ。
おわりに
ところでドストエフスキーは、社会主義の結社の一員であったときに官憲に逮捕され(ペトラシェフスキー事件)、死刑判決を受けたものの死刑執行直前に恩赦され、シベリアでの流刑を経験した作家である。
(ドストエフスキーの監獄での経験は『死の家の記録』に詳しい。)
おそらくドストエフスキーは、かつて社会主義の結社の一員であったときは、社会の変革を重視する立場にあったのではないだろうか。つまり、一定の犠牲は許容する立場である。
しかし後年、ドストエフスキーは社会を変革するために犠牲を強いることに疑問を感じたのではないだろうか。つまりラスコーリニコフの思想とその改心には、ドストエフスキー自身の思想の遍歴も投影されているのではないだろうか。
だから『罪と罰』は、現代の私たちが読んでも、どこか私たちの社会が見透かされているような気がするのだろう。
『罪と罰』未読の方はぜひ読んでみてほしい。
▼本記事は新潮文庫版に依拠した。新潮文庫版は上下巻。
▼訳が新しいのは光文社古典新訳文庫版。光文社古典新訳文庫版は全三巻で、少し値段は高いが、第一巻のみであればKindle Unlimitedでも読めるのでおすすめ。