岩明均の『寄生獣』というマンガがある。
無駄のない構成を持つ面白いマンガであり、さらに人間に寄生して体を乗っ取り人間を食べるという「寄生生物」の恐怖をテーマに据え、人間とは何かという問題、あるいは環境問題に踏み込んだ、多くのテーマを孕み哲学的な示唆に富んだマンガとして今でも読み継がれている。
今回は、この『寄生獣』という作品のラストの場面を中心に、この作品の考察を行いたい。
なお、考察という性格の都合上、ネタバレを多く含むということはあらかじめ述べておく。
本稿の考察の対象
簡単に 『寄生獣』のあらすじを紹介しておく。
ある日、地球上に謎の「寄生生物」が飛来する。
この生物は、人間の頭部に寄生し、脳を食らって人間の体を乗っ取る。——そして、彼ら「寄生生物」は、人間のふりをしながら人間を捕食して生活を送っていく。
――「寄生生物」は、人間を本能として食べる動物なのである。
主人公の泉新一も「寄生生物」に寄生されそうになるが、頭部に寄生されるのを回避し、代わりに右手に「寄生生物」を宿すことになる。
世の中で寄生生物による殺人(食人)が繰り広げられる中、新一は右手に宿した寄生生物「ミギー」と不思議な共生関係を送っていくことになる。
――このような話である。
私が『寄生獣』で興味深いと思うのは、主人公とミギーの考え方の変化である。
ラストの場面の考察を行う前に、物語序盤から終盤にかけてのミギーの考えの変化について考えていきたい。
ミギーの行動原理
ミギーは、当初は「自分の命さえ助かれば構わない」という考えを行動原理としていた。
尊いのは自分の命だけだ……
わたしはわたしの命以外を大事に考えたことはない
ミギーは「寄生生物」である。
もしミギーが新一の頭部への寄生に成功していたら、ミギーはきっと人を食らったことだろう。
だが、頭部への寄生に失敗して右手に寄生する羽目になったミギーは、新一の身体から養分をもらわないと生きていけない。
それゆえ、仕方なくミギーと新一は協力関係を組むのである。
「殺し」への意識
そして、ミギーは「殺し」を厭わない。
殺しといっても人間は殺さないが、同種の寄生生物を厭うことなく殺すのである。
もちろん、自分に危害が加えられる可能性があるから殺すのであるが、新一は「同種」を殺すことに抵抗を一切感じないミギーに恐怖する。
ミギーおまえ せっかく出会った仲間なのに……
だが、ミギーはこう返す
育った環境のせいもあるだろうが不勉強なやつだ
だからわたしが勝った
ミギーの人間観
新一はミギーが寄生生物を殺したことによって助かったのだが、それでもミギーの論理が理解できない。
自分の命を守るためなら手段を選ばないミギーに対して「悪魔……!」と新一が言うと、ミギーはこう返す。
シンイチ……
「悪魔」というのを本で調べたが……
いちばんそれに近い生物は やはり人間だと思うぞ……
人間はあらゆる種類の生物を殺し食っているが
わたしの「仲間」たちが食うのは ほんの1~2種類だ……
質素なものさ
――ミギーの論理も、頷けるものである。
このような環境問題などへの提起は『寄生獣』を名作たらしめている所以であるが、ここではこうしたテーマは置いておこう。
ここで考えたいのは、このようなミギーの思想が、ラストの場面では明らかに変わるということである。
ラストシーン「後藤」との戦闘の考察
いきなり、実質のラストシーンと言ってもよい「後藤」との戦闘シーンに場面を移したい。
物語のクライマックスで新一とミギーは、頭部も胴体も四肢も寄生生物という「純粋な寄生生物」の「後藤」との決戦を行う。
▼後藤
力で劣る新一とミギーは、ミギーを分離させての奇襲策に出るが、「後藤」にはかなわずミギーは「後藤」の一部として吸収されてしまう。
それでも再起した新一は命を賭して、後藤をただ一人で倒そうとする。
行動原理の変化
新一が「後藤」に立ち向かったとき、「ただの肉片」であったはずのミギーは本体の「後藤」に逆らい、新一の右手へと帰還する。
「後藤」は、武装した自衛隊が何人がかりで対峙しても倒せなかった怪物であった。
そのような「後藤」の支配からミギーは脱し、新一の右手に戻ることを選ぶ。
ミギーが「後藤」の支配から脱したのは、新一が「後藤」に毒を打ち込み、「後藤」の統制が乱れたからできたことではあった。
しかし、物語初期のミギーならこのような行動は取らなかったはずである。
「後藤」は無敵生物であり、自分の命を優先するなら、無敵生物の一部として生きる方が理に適っているはずである。
だが、ミギーはそうしなかったのだ。
「殺し」への意識
そして、ミギーの行動は他の部分でも、物語当初とは違うものになる。
ミギーは、「後藤」にとどめを刺すのを躊躇する。
そして、「後藤」へのとどめを新一に任せる。
わたしにとってみればこいつは同種で……
しかも一時は同じ肉体を共有した「仲間」だ
わたしがこいつを殺すということは人間で言うなら「殺人」にあたる
――物語序盤とは、全く違うことを言っているのが分かるだろう。
では、なぜミギーの思想は変化したのだろうか?
田村玲子の自死
ミギーのが新一のもとに復帰し、「後藤」を殺すのを躊躇したのは、なぜだろうか
理由としては、ミギー自身が
一時は同じ肉体を共有した「仲間」だ
と言っているように、ミギーが「後藤」に対して仲間意識を抱いていており、さらに新一に対してより強い友情を持っていたから、と説明できるだろう。
だが、なぜミギーはこのように「仲間」という感情――「愛」に近い感情――を獲得したのだろうか?
その答えは、物語のキーパーソンである寄生生物「田村玲子」(田宮良子)の選んだ行動にあると、私は考える。
田村玲子という人物
田村玲子は「寄生生物」である。
田宮良子という人間の頭部に寄生したため、通常の寄生生物同様、人間を捕食する。
しかし、その知性の高さは作中で比肩するものがいないほどであり、彼女は常に「自分はどうして生まれたのか」を考えている。
そして、自分の哲学を実行に移す。
その行動の最たる例が「子作り」である。
彼女は、「寄生生物」の男性とセックスをし、子どもを産む。
――生まれた子供は「寄生生物」の子どもとはいえ、両親の下半身は人間のまま――すなわち人間の精子と卵子から生まれているので、普通の人間の赤子が生まれる。
▼田村玲子
しかし、作中で彼女は死ぬ。
新一の目の前で警官に撃たれ、死ぬのである。
ミギーは、自ら死を選んだような田村玲子の行動に困惑する。
なぜだ……
戦おうと思えば戦えたはずだ!
そして逃げることも……
田村玲子はなぜ死を選んだか
なぜ、田村玲子は死を選んだのか?
一つには、諦念のような理由だろう。
ずうっと……考えていた……
……わたしは何のためにこの世に生まれてきたのかと……
1つの疑問が解けるとまた次の……疑問がわいてくる……
(中略)
どこまで行っても同じかもしれない……
歩くのをやめてみるならそれもいい……
なぜ生まれてきたのかわからないなら、死んでみてもいいかもしれない――彼女は、そう思ったのである。
しかし、理由は少なくとももう一つあるだろう。
新一は、警官に撃たれながら赤子を抱く田村玲子に、母親の面影を見る。
(新一の母は、物語の途中で寄生生物の犠牲となっている)
田村玲子は、死の間際に赤子を新一に託す。
人間たちの手で……
普通にそだててやってくれ……
新一が「わかった……心配するな」と返すと、田村玲子は答える。
ありがとう……
――ミギーは、田村玲子の発した「ありがとう」という言葉に困惑する。寄生生物らしからぬ発言だからである。
田村玲子は母性を獲得したのである。——そして、赤子のためには、自分は死んでもいいのかもしれないと思ったのだろう。
そして、新一は田村玲子に母の面影を見たことにより、母の死以来流したことのなかった涙を流す。
新一はミギーと同化して以降、人間的な感情を失いつつあった。
しかし、この場面で新一は人間的な感情を取り戻すのである。
新一のガールフレンド村野里美は、新一がもとの新一に戻ったことに気づく。
でも……泉くんは帰ってきた!
帰ってきたんだよ!
そして、新一の体に影響が出たということは、身体を共有するミギーにも影響が出ているということである。
ミギーは、田村玲子の自死を通じて「自己犠牲」を含んだ「人間の絆」を学ぶのである。
――そして、田村玲子の自殺は、ミギーが物語の最後で選んだ選択にも影響を与えていることに疑いの余地はない。
人間としての覚悟
しかし、『寄生獣』が「愛」などをテーマにした無条件の人間賛歌かといわれると、そうではないと私は思う。
人間は、人間として背負っていかなくてはいけないものもあるのである。
その最たる例が、「後藤」へのとどめだろう。
前述のように、「後藤」にとどめを刺すのをミギーは拒否する。だから、新一が「後藤」にとどめを刺さなければいけない。
作者岩明均が「初め「後藤」は死ぬ予定ではなかった」と述懐するように、「後藤」にとどめを刺すかどうかというのは、作家なら絶対に悩んだであろう部分である。
田村玲子は、「寄生生物」について次のように語る。
我々はか弱い
それのみでは生きていけないただの細胞体だ
ミギーの重大な裏切りと反撃により体が崩壊した「後藤」は、まさにか弱い細胞体であった。
しかし、彼が復活すれば多くの人間を殺戮することになる。新一は、多くの人間のために「後藤」を殺さなくてはいけなかった。
新一は、自らの手を汚さなくてはいけなかったのである。
物語序盤で、ミギーは人間のことを「悪魔」だという。
――人間の「悪魔」としての側面は、決して失われたわけではない。
私たちは地球に迷惑をかけているかもしれない。他の生物や地球環境に犠牲を強いているかもしれない。私たちは「愛」や「友情」のためにはそうしていかなければいけないこともあるのである。
私たちは、このことには自覚的でなくてはならない。
しかし、愛や友情のためになら、私たちは自分を犠牲にすることもできる。
自分のためにならないようなことだって、人間にはできるのである。そしてそのようなものを大切にしている。
――人間の持つそのような「非合理的」な部分こそ、美しく、守るべきものなのである。
それが、『寄生獣』の描いた人間として生きる覚悟なのである。
「寄生生物」の思考は、カミュの『異邦人』の主人公ムルソーにも通じるところがある。それゆえ、「不条理文学」と呼ばれる。
そういえば『寄生獣』の実写映画は染谷将太主演だった(『異邦人』の記事でもたまたま染谷将太に言及している)。