安部公房は、日本で最もノーベル文学賞に近かった作家の一人であると言われる。
それは安部公房が海外で高く評価されていたからであるが、現代の私が読んでみても、安部公房の作品は「海外文学的」である。もちろん安部公房の作品が生まれた土壌には渺茫とした満洲での経験や敗戦後の日本での体験があるはずだが、安部公房はそれを描くための手法として、日本人にはなじみの薄い手法を用いたのだ。
たとえば安部公房が若手時代に芥川賞(芥川賞は若手作家による純文学に贈られる賞である)を受賞した「壁-S・カルマ氏の犯罪」(中短編集『壁』(新潮文庫)所収)は最たるもので、シュルレアリスムの手法で書かれている。正直なところわたしにもこの物語はよくわからないのだが、しかし、考えさせられる作品であることは間違いない。
『壁-S・カルマ氏の犯罪』あらすじ
『壁-S・カルマ氏の犯罪』のあらすじを軽く紹介したい。
この小説は、次のような書き出しから始まる。
目 を覚ましました。
朝、目を覚ますということは、いつもあることで、別に変わったことではありません。しかし、何が変なのでしょう? 何かしら変なのです。
カフカの『変身』を思い出させる書き出しである。
そして、主人公は胸に空虚さを感じる。
ためしに(と言っても、どうしてそんなことをためしてみる気になったのか、それもよく分からないのですが、)大きなあくびをしてみました。するとその変な感じが忽ち胸のあたりに集中して、ぼくは胸がからっぽになったように感じました。
主人公は食堂で朝食を食べても、胸の空虚さは治らない。
主人公は食堂でつけの帳簿にさいんをしようとする。
ふと、ぼくはペンを握ったまま、サインができずに困っていることに気づきました。ぼくは自分の名前がどうしても想出せないでいるのでした。
主人公は、名前を思い出せない。主人公は職場に行き、そこで自分の名前が
S・カルマ
であることを知る。
だが職場では自分の「名刺」が自分のかわりに働いていた。右目で見ると自分の写し絵のような人間が働いているが、左目で見るとこの「自分」はただの名刺の紙片にしか見えないのだ。
主人公は病院に行くが、そこで病院の待合室にあった雑誌に載っていた「荒野の風景」を、胸に吸い込んでしまう。主人公な空虚な胸は、何かを吸い込む能力を持つようになっていたのだ。
主人公は私設警察官に逮捕され、裁判にかけられる。主人公は理不尽な裁判にかけられる。
法はたしかに被告を裁くことができぬが、同時に被告は法に対して自己の権利を主張することもできぬ。法と権利は名前に対してのみ関係するものである。よって現状維持のほかなく、裁判は続行される。被告が名前を見つけだし、判決可能となるまで、永遠にでも裁判はつづけられなければならない。
……。
主人公はY子とともに裁判を抜け出すが、Y子はマネキンの姿に変わってしまう。
そして主人公の胸は「壁」を吸い込み、主人公の中の「壁」はどんどん成長していく。
そして主人公は「壁」となっていってしまう。
見渡すかぎりの曠野です。
その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです。
『壁-S・カルマ氏の犯罪』感想
あらすじを書いてみたが、よくわからないという人が多いだろう。私も書いてみたものの、よくわからない。
私の読みの問題も大いにありそうだが、『壁-S・カルマ氏の犯罪』は小説としての完成度が高いかというと、必ずしもそうであるとは思わない。しかし、その斬新さは、発表から70年が経った今でも色褪せていないと思う。
『S・カルマ氏の犯罪』には色々なモチーフ・テーマがあるが、個人的に一番印象深いのは「名前を失う」ということによって開ける「別の世界」を、この作品が描いたかという点である。
『S・カルマ氏の犯罪』に着想を与えたのは、カフカもそうであると思われるが、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』が挙げられると著者自身が述べているという。
『不思議の国のアリス』は、主人公が「別の世界」に迷い込むおとぎばなしであるが、『S・カルマ氏の犯罪』も、主人公が「別の世界」に迷い込む話であると言える。
主人公は、名前を失ったり、胸に何かを吸収する能力を得たりしてしまったことによって、奇想天外な出来事にまき込まれていく(そもそもきっかけが奇想天外だが)。無機物は有機物になったり……色々なことが起きる。
ひとたび「名前」を失うと、私たちは社会から疎外された非常に不安定なものになる。
私たち人間とマネキン人形は同じものではないが、もし、私のことをほかの誰もがマネキン人形であると認めたら、私はマネキン人形になってしまうのではないか……。
私たちはそうした世界と、じつは隣り合わせに生きているのかもしれない。
『S・カルマ氏の犯罪』で主人公は「壁」になってしまうわけであるが、そもそも「壁」とはいったい何なのだろう。
私たちは「壁」を障害物として認識する。見ようとしたり、進んだりしようとする先を遮るものは「壁」だ。「壁」はただ存在するもので、そこに意味があることは稀である。しかし、たしかに「壁」は存在するのだ。
名前を失ったS・カルマ氏は、「ただ存在するもの」になってしまったのである。それは悲劇なのかもしれないし、あるいは実存への賛歌なのかもしれない。
おわりに
初めに書いたように『壁-S・カルマ氏の犯罪』は、安部公房の中短編集の『壁』に所収されていて、ここでは「第一部」が『S・カルマ氏の犯罪』となっている。
第二部・バベルの塔の狸、第三部・赤い繭(いくつかの短編からなる)は、話としては『S・カルマ氏の犯罪』と連続しないが、雰囲気は共通している。
興味のある方は、(よくわからなさを覚悟したうえで)読んでみてほしい。
単純に物語の面白さや完成度としては『壁』よりも『砂の女』の方がおすすめ。