2025年に最も話題になった漫画のひとつとして挙げられるのは、『みいちゃんと山田さん』だろう。SNS上でも数多くのコマが引用され、非常に話題になっている。
一番有名なシーンは、みいちゃんが幼馴染のムウちゃんに「立ちんぼに行こーよ!」と誘う場面だと思われる。立ちんぼとは売春の隠語であり、みいちゃんは幼馴染に対して、かつて一度自身が誘ったように「一緒にやろうよ!」と誘うのだ。

ムウちゃんは知的障害を持っていることが作中で描かれている。一方、不特定多数との性行為を「気持ち悪い」と感じ、もう売春はしたくないと語る自身の生理的な感覚に純粋な人物である。みいちゃんは障害者手帳を持っているわけではないが、きちんとした教育は受けておらず、おそらく彼女もムウちゃんが指摘するように軽度の知的障害を持っている。ただ、ムウちゃんに比べると承認欲求が高く、生理的な快不快よりも社会的な承認を重視し、自身を障害者とは認めない。本も読めないのに小説家になるというような人物である。
このページは非常にインパクトがあり、みいちゃんの表情など、ギャグとしても面白いコマである。だが、このコマに象徴されるように、『みいちゃんと山田さん』という漫画は、みいちゃんという軽度の知的障害のあると思われる人物を笑いものにする漫画ではないかという批判があるのは事実である(さらに、物語の第一話で、みいちゃんは12カ月後に命を落とすことが明示されており、いかにみいちゃんが悲惨な目に遭うのかを読者が見る見せ物のような漫画なのではないかという批判もある)。こういった批判は、確かに正しさを持っていると思う。しかし、『みいちゃんと山田さん』は障害者を笑いものにする悪い漫画だ、という単純な捉え方をすることは、果たしてよいのだろうか。今回は、そのことについても書いていきたい。
(※本記事には4巻までの内容を含みます)
『みいちゃんと山田さん』における露悪と偽善
『みいちゃんと山田さん』という作品を読んで思い浮かぶ言葉としては「露悪」、そして次に思い浮かぶ言葉は「偽善」である。
露悪と偽善という言葉は、それぞれ「悪をさらす」「善を偽る」という意味で、日本語として純粋な対義語というわけではないが対比される言葉である。
夏目漱石も『三四郎』という小説の中で、この2つの言葉を対比させている。
『三四郎』の主人公・三四郎の高校の先生である広田先生によると、昔は偽善家ばかりだったが、今は露悪家ばかりの状態にあるというのだ。
「我々が露悪家なのは、いいですが、先生時代の人が偽善家なのは、どういう意味ですか」
「君、人から親切にされて愉快ですか」
「ええ、まあ愉快です」
「きっと? ぼくはそうでない、たいへん親切にされて不愉快な事がある」
「どんな場合ですか」
「形式だけは親切に適っている。しかし親切自身が目的でない場合」
「そんな場合があるでしょうか」
「君、元日におめでとうと言われて、じっさいおめでたい気がしますか」
……夏目漱石『三四郎』第71回7の3
昔というのは明治時代から見て江戸時代が終わったころを指しており、詳しく説明すると本題から外れるので、興味の湧いた方は『三四郎』を読んでほしい。
ここで個人的に漱石の議論を噛み砕いて解釈すると、偽善というのは一種の利他主義である。ただ、親切にするために親切にするというわけではなく、何か別の目的があって他人に対して親切にしている。しかし、そういった態度は正直ではないので、いっそのこと自己中心的になるほうがいいのではないかと偽善というものを嫌って露悪に行き着く。ただ、露悪的な人間があまりに社会に増えすぎると生きにくくなるので、今度は偽善家が増える……と社会が回っていくということを述べているのである。
山田さんという偽善者
今回は、この『みいちゃんと山田さん』という作品について、偽善と露悪という2つのテーマで考えていきたい。
山田さんというのは偽善者であると言える。
『みいちゃんと山田さん』の主人公は山田さんなのだが、この作品の設定で非常に怖いところは、「山田さん」というのが本名ではないという点だである。山田さんはみいちゃんのことを気にかけている。この二人の物語がこの作品の中心となるのだが、山田さんはみいちゃんに対して本名を明かしていない。まさに「偽り」の関係である。

そして作品を見てもわかるが、みいちゃんと一緒にいることによって自分にもメリットがあるから、山田さんはみいちゃんに親切にするのだ。
つまり、漱石が言うような「形式だけは親切に適っている。しかし親切自身が目的でない」という評価に当てはまる。しかし、もちろん偽善は「偽り」であっても、悪ではない。
モモさんという露悪家
一方、作品で露悪的な人物としてはモモさんが挙げられる。
たとえば、モモさんはみいちゃんにキャバクラを早々に辞めるよう促す。明らかに自分の中の「悪」の部分をさらして生きている人物がモモさんであり、山田さんが“偽善”の象徴であれば、モモさんこそ“露悪”の象徴的な人物と言えるだろう。

だが、(モモさんには露骨にみいちゃんをいじめるシーンもあるのでなんとも言えないが)モモさんも、みいちゃんのためを思って突き放していた部分もあるかもしれない。ちなみにモモさんは、キャバクラの店長が風俗への斡旋を行なっていることも知っており、キャバクラに入店したみいちゃんがこのまま店に在籍を続けていれば、近い将来風俗に斡旋されることを知っていたと思われる。
一方、山田さんはみいちゃんに対し、キャバクラで一緒に頑張ろうと言っていたわけであるが、それは結果的にはみいちゃんが風俗で働くことになるという結果を招いている。みいちゃんがデリヘルで働くことになった時に、山田さんは怒る。この作品においてみいちゃんがデリヘルに行くと言うことは、良くない結果だった(給料などの計算ができず、あらゆることを拒む能力がないみいちゃんは、ひたすら搾取されてしまうため)。当時の山田さんはキャバクラの店長が風俗への斡旋を行なっていることを知らなかったため、山田さんに予見はできなかったのだが、結果的にモモさんのように突き放していた方がみいちゃんのためによかったという可能性もありうる。
夜の街から早く足を洗えと促したモモさんと、結局みいちゃんが夜の街に残り続ける理由を作ることになった山田さん。両者のどちらがみいちゃんにとって良い行動をしたのかと考えると、単純な比較はできない。モモさんのような「露悪」は「偽善」の対になる存在であっても、正反対の存在ではないのである。
『みいちゃんと山田さん』と言う作品は、対照的な「偽善者」と「露悪家」を突きつけ、読者が自分だったらどちらの行動をとるのかという問いを迫ってくる。
作品の露悪性と読者の偽善性
そして偽善と露悪というテーマについては、この漫画作品そのものについても言える。
基本的にこの漫画作品は(山田さんという「偽善者」が主人公ではあるが)露悪的な作品だと思う。
みいちゃんという、きちんとした教育を受けておらず社会常識もなく、精神も安定していない、知的障害があると思われる人物を、ギャグのように描写する。正直に言えば、私もみいちゃんの描写に対して笑ってしまうところはあるのだが、そういったものをネタにしているというところはポリティカリーコレクトネスの観点としてはよくないギャグであると批評できる。その意味で、露悪的だ。
だから、この漫画のギャグ描写を読んで笑ってしまった時に、「本当にこれは笑ってよかったのだろうか」という後味の悪さがある。しかし、この後味の悪さというのは、自分は差別をしない人間だと思いたいがゆえに後味の悪さを感じるのではないかとも思う。要するに、この漫画を批判する自分は偽善者なのではないかと考えるのである。なぜなら、この漫画を批判できるような正当な理由を、普段の生活では持ち合わせていないからである。
(なお、この漫画の作者が、以前は夜職についてのウェブ漫画を投稿するユニットで活動しており、中には夜職を推奨するような話を描いていたということでその経歴を批判する意見もあるが、それはあまり正当な批判ではないと思う)
結局、そういったところを突き詰めていくと、この漫画は露悪を突きつけることによって読者の偽善性というものを暴いている漫画なのではないかと思う。
おわりに
重ねて書くように、この漫画自体を露悪的な良くない漫画だと批判することはできる。ただ、この作品が何を伝えたいのかということを考えると、この漫画を読者がどう捉えるかということ自体がテーマなのではないかと思うのだ。
『三四郎』という作品の中で夏目漱石は「偽善」と「露悪」の時代は回ると述べた(作中人物の意見であって夏目漱石本人が話しているわけではないが、おそらく夏目漱石もそう思っていたのではないかと思う)。もちろん例外もあるだろうが、この漫画を批判する人間は偽善者で、この漫画を葛藤なしに楽しむものは露悪家である。
いまのところ、どちらが多いのかと考えると、「露悪家」が多いのではないかと思う。2025年という時代は、漱石に言わせてみれば露悪家の時代なのかもしれない。『みいちゃんと山田さん』は、「露悪」と「偽善」の試金石となるような作品である。そういった意味でも、この作品は2025年を代表する漫画だと言えると思う(物語の舞台は2012年だが)。




