ハードボイルド小説とは何か? この問いに最も的確に答えてくれる作品は、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』(村上春樹訳。清水俊二氏による旧訳では『長いお別れ』)なのではないかと思う。
私は特にハードボイルド小説を愛好しているというわけではないが、この『ロング・グッドバイ』は、男の友情と哀しい別れの影が付きまとう、好きな作品である。
「ハードボイルド小説」とは何か
まずは、この作品が分類されるハードボイルド小説というものは何なのか。
Wikipediaの当該記事から引くと、次のようにある。
ハードボイルド(英語:hardboiled)は、文芸用語としては、暴力的・反道徳的な内容を、批判を加えず、客観的で簡潔な描写で記述する手法・文体をいう。
「ハードボイルド」は元来、ゆで卵などが固くゆでられた状態を指す。転じて感傷や恐怖などの感情に流されない、冷酷非情、精神的・肉体的に強靭、妥協しないなどの人間の性格を表す。
「ハードボイルドな人間」というのは、権力に流されず、暴力に屈さず、かといって暴力を厭わず、また一面ではまた女性とすぐ仲良くなってセックスするーーそんな性格である。007のジェームズ・ボンドはハードボイルドの影響を多分に受けているだろうから、彼をイメージするとわかりやすい。
この『ロング・グッドバイ』の場合は、主人公のフィリップ・マーロウが「ハードボイルド」な性格・行動原理を持っているがために、「ハードボイルド小説」に分類されているわけである。
正直に言うと個人的にはこのようなマーロウの行動原理は理解しがたいのだが、「ハードボイルドな性格」ゆえの台詞は見ていて面白い。
そういう意味ではハードボイルド小説は好きである。
個人的に好きなのは、このセリフ。
「マーロウか」
「だとしたら?」
「そこで待ってろ」
私も知り合いに「○○か?/○○じゃん」などと言われたら、時たま「だとしたら?」と返すが、未だに元ネタを指摘した友人はいない。
「長いお別れ」というテーマの秀逸さ
もちろん「ハードボイルド小説」としてもこの作品は魅力なのだが、やはり秀逸なのは「長いお別れ」というテーマだろう。
この物語は、主人公フィリップ・マーロウが、友人であったテリー・レノックスに対して、いかに「お別れ」をするか。いかにして心の中で決別をするかという物語である。
結末は、次のように描かれる(勘の言い方にはネタバレになってしまうので注意)。
模造大理石の廊下を歩いていく彼の足音が聞こえた。足音は時間をかけて遠ざかり、やがて沈黙の中に吸い込まれた。それでもまだ私は耳を澄ませていた。
何のために? 彼がふと歩を止めて振り返り、引き返してきて、私が抱えているこの胸のつかえを取り払ってくれるひとことを口にすることを求めていたのか?
いや、そんなことは起こらなかった。それが、私にとって(中略)最後の姿になった。
そのあと、事件に関係した人間に誰にも会っていない。警官は別だ。警官にさよならを言う方法はまだ見つかっていない。
本当に優れたラストだと思う。
ここに、この作品のテーマと魅力が集約されているといっても過言ではない。
『グレート・ギャツビー』との類似性
村上春樹があとがきでこう述べている。
僕はある時期から、この『ロング・グッドバイ』という作品は、ひょっとしてスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を下敷きにしているのではあるまいかという考えを抱き始めた。
本論から逸れるが、両作品の類似性について見ていきたい。
両作品は、普通に見れば似ている作品ではないだろう。そもそもグレート・ギャツビーの主人公のニック・キャラウェイは探偵ではない。
だが、一面では似ているのは事実だろう。
『グレート・ギャツビー』は、一面的には第一次世界大戦によって引き裂かれた二人が再会するも結ばれない物語であるが、 『ロング・グッドバイ』は、一面的には第二次世界大戦によって引き裂かれた二人が再会するも結ばれない物語である。
そして、従軍から帰還した人間がどのように変容してしまったのかーーというのが、テーマの一つなのではないかと思う。そこに戦争批判を感じるわけではないが、運命に翻弄された二人というのは重要なテーマである。
そこに、物語の哀しさがあるのである。
おわりに
フィリップ・マーロウとテリー・レノックスの不思議な友情の正体とは何だったのかーーこの作品はそれを解き明かす過程でもある。
『ロング・グッドバイ』は、ハードボイルドな男の友情を描いた名作である。私はそう思う。