ほんとうの無政府主義者とは?ーチェスタトン『木曜の男』あらすじ・感想

木曜日の男

政府なんて無いほうがいいのではないかと思わずにいられない出来事が世界で起きている。無政府主義こそが理想なのかもしれない。

しかし、現実には「無政府主義」が想像した通りの理想的なものにはならないだろう、ということは理解している。

無政府主義は理想だとしても、実現はしない。

それと同様に、「ほんとうの無政府主義者」なるものも存在しえない、のかもしれない。G.K.チェスタトンによる推理小説の古典、『木曜の男』が描くように。

『木曜の男』は、無政府主義批判の立場の著者による小説だが、「無政府主義」あるいは「政府・権力」について考えさせる小説である。

もっとも、この小説は基本的には推理小説の手法によって書かれた小説であり(ただし、この小説が「いわゆる推理小説」あるかについては大いに疑問符が付く)、無政府主義をテーマに据えた小説というわけではないのであしからず。この記事ではとりあえずこの作品の概要を紹介しつつ、この作品の一つのテーマである「無政府主義」について考察してみたい。

木曜の男 (創元推理文庫 101-6)

『木曜の男』あらすじ

はじめに『木曜の男』のあらすじを軽く紹介したい。

物語は、無政府主義者を名乗る詩人ルシアン・グレゴリーと、無政府主義者ではないが同じく詩人のガブリエル・サイムが出会うところから始まる。

二人の詩人は互いに議論を交わすが、サイムはグレゴリーが本当のところは無政府主義者ではないだろうと言う。

するとグレゴリーは、ひどく侮辱されたと感じ、サイムに自分が「本当の無政府主義者」であることを証明しようとする。

「そして君の侮辱的な行為も、それに対する僕の気持も、君が謝ったとことでどうにもなるものではない」

とグレゴリーは非常に静かな声で言った。

「決闘してもだめだ。君を一撃のもとに殺したところで、このことは後に残る。君が僕に加えた侮辱を消し去る方法はただ一つしかなくて、その方法を取ることにぼくは決めた。僕はこれから僕の生命と名誉を冒して君がいったことがまちがっていることを証明しようと思うんだ」

こうしてグレゴリーは、サイムに「警察の人間には話さない」という誓いを立てさせてサイムを無政府主義の秘密の集会へと連れていく……。

しかし、一方のサイムにも秘密があった。

「僕は君の秘密を警察に知らせないと神にかけて誓った。君も人道主義か何だか、君が信じているおかしなものにかけて、僕の秘密をこの人たちに打ち明けないという約束をしてくれないだろうか」

グレゴリーは、サイムの秘密を守ると誓う。そしてサイムは、秘密の告白をする。

「そうなんだ」とサイムは平気で答えた。「僕は刑事なんだよ。」

……

無政府主義者の集会は、幹部の一人「木曜」に欠員が出たことから、この欠員を埋めるために開かれたものであった。

グレゴリーは「木曜」に立候補するが、サイムが警察の者であると知ってしまったせいで、あたりさわりのない演説しかできない。

そこでサイムがグレゴリーを無政府主義者の立場から批判すると、会場は大喝采となり、サイムが「木曜」になってしまう

そしてサイムは幹部として働くことになるのだが、無政府主義者のボスである「日曜」に翻弄されることになる……。

『木曜の男』感想

『木曜の男』はだいたいこんな感じのストーリーで、途中で月曜から土曜までの幹部の中に警察のスパイがいることが発覚したり、木曜となったサイムが他の幹部から尾行されたりして、物語が進行する。

小説の面白さという点では、この小説は「日常から非日常への転換」が非常に巧みである。この「未知の世界への没入」は、日本の現代作家で言うと、森見登美彦的である。

だがここでは、『木曜の男』における「ほんとうの無政府主義」について考えてみることとしたい。

無政府主義者の矛盾

まず不思議なのは、無政府主義者は「会議」を開催している時点で無政府主義者ではないのではないかという疑問である。

一般的に政府とは、合議による権力であるともいえよう。

「会議」は、まさに合議による権力である。

合議によってサイムは「木曜」に選出された。

これは「政府」の縮小版ではないのか? 無政府主義者を名乗っておきながら、会議をしていることにまず一つの矛盾がある。

無政府主義の実現には現在の政府を打倒する必要があるから、たしかにその過程では志を同じくする者たちが協働しなくてはならないだろう。しかし、滑稽にも無政府主義者たちは、政府を倒すために新しい政府を打ち立てているのだ。

まさしく矛盾であると言えよう。

「日曜」の両面性

ところで『木曜の男』の作中で不気味な存在感を放ち続ける「日曜」だが、彼こそ権力の化身である。

「日曜」は作中で「もう一つの正体」が明かされるのであるが、その「もう一つの正体」に読者は案の定だと思いつつも困惑することになる。

おそらく『木曜の男』において、「無政府主義」は「これまでの政府・秩序」と対比されている。

そして、この二つは、鏡合わせのもので、対極にあるように見えて、本当は似通ったものであると描かれているのかもしれない。

(ただし、おそらく作者チェスタトンは「無政府主義」に反対する立場である。今でこそ無政府主義者に危険なイメージは薄いかもしれないが、『木曜の男』が書かれたのは1908年で、これは日本で無政府主義者の幸徳秋水らがでっちあげで処刑された大逆事件(1910年)よりも前だということを踏まえれば、当時の保守派の人々が無政府主義者に抱いていた感情がイメージしやすいかもしれない。)

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おわりに

とりとめのない記述になってしまったが、結語としては、このようになるだろうか。

私たちは、いまの秩序を壊そうとしても、結局そうして打ち立てられた新しい秩序というのは、同じようなものなのかもしれない。

しかし、その闘争の過程こそ、私たちの生きる世界なのだ。

▼『木曜の男』は創元推理文庫と光文社古典新訳文庫版から出ている。

個人的には吉田茂の息子としても知られる故・吉田健一が訳している創元推理文庫版をおすすめしたいところだが、改版されていないので字が小さい。

そのため、新しい訳・見やすい活字を求める方には光文社古典新訳文庫版『木曜日だった男 一つの悪夢』がおすすめ。

なお、光文社古典新訳文庫のKindle版は初月無料のKindle Unlimitedという定額読み放題サービスで読めるので、こちらも合わせてお薦めしておきたい(記事投稿日時点)。