世界文学上に今なお燦然とその輝きを放ち続ける巨匠レフ・トルストイの作品『アンナ・カレーニナ』は、現代でも名前はおそらく多くの方が聞いたことがあると思う。
そしてこの物語が、主人公アンナ・カレーニナが、熱狂的な恋愛の末、鉄道自殺を遂げる……という話であることも、知っている人が多いだろう。
しかし、『アンナ・カレーニナ』という物語が、細部ではどのような話であるのかという点については知らない人が多いのではないだろうか。この小説は新潮文庫と岩波文庫では上中下巻、光文社古典新訳文庫では全4巻と非常に長い小説であるということもあり、私もなかなか読み始める気になれないでいたが、このたび読了した。
概して言える感想としては、『アンナ・カレーニナ』という小説は、やはり名作だということである。全体としては複線的な物語が淀みなく構成されており、また細部の描写も極めて精緻である(トルストイの描写の細やかさは、なんと時には犬の感情まで描写されるほどである!)。長い物語に耐えられる人であれば、ぜひ一読を薦めたい。
この記事では、はじめに全体的な『アンナ・カレーニナ』という作品についての紹介をした後で、個別的な感想および考察を書くこととしたい。
『アンナ・カレーニナ』登場人物・あらすじ
まずは、『アンナ・カレーニナ』の登場人物とあらすじを、おおまかに紹介したい。
『アンナ・カレーニナ』という物語には、主人公が2人いることをはじめに断っておく必要がある。
主人公の一人は、アンナ・カレーニナ。名前が作品のタイトルになっている女性である。
そしてもう一人の主人公は、コンスタンチン・リョーヴィンという男性。作者レフ・トルストイの分身とも言われる男性である。
アンナは不倫をする一方でリョ―ヴィンは不倫をしない、アンナは都会で暮らしリョ―ヴィンは田舎で暮らす……などと両者は対比関係にあり、二人の物語が二重らせん的に絡み合いながら『アンナ・カレーニナ』という物語は進んでいくのである。
『アンナ・カレーニナ』登場人物
ここでもう少し細かく『アンナ・カレーニナ』の登場人物について紹介したいが、登場人物を整理する上ではシチェルバツキー家という一家を媒介とするとわかりやすい。
主人公アンナはシチェルバツキー家の長女の義理の妹であり、もう一人の主人公リョ―ヴィンはシチェルバツキー家の末娘の夫となる人物である。以下に主要な登場人物の相関を示した。
シチェルバツキー公爵……ドリイ、キチイの父。
↓娘
ドリイ……シチェルバツキー家の長女。オブロンスキーの妻。7人の子どもを持つ。
⇕夫婦
オブロンスキー(ステファン・オブロンスキー。愛称スチーヴァ)……ドリイの夫でアンナの兄。物語冒頭で不倫する。
⇕兄妹
アンナ・カレーニナ……本作の主人公。夫カレーニンとの夫婦生活を捨てて、美男子ヴロンスキー(アレクセイ・ヴロンスキー。愛称アリョーシャ)と不倫する。
⇕夫婦
カレーニン(アレクセイ・カレーニン)……アンナの夫。夫婦の間にはセルゲイ(愛称セリョージャ)という息子がいる。
ベッチイ……アンナの友人で、ヴロンスキーの従姉。アンナが世間から白眼視されるようになってもアンナの味方であり続ける。
リディア夫人……妻に不倫されたカレーニンに近づく。
↓シチェルバツキー公爵の娘
キチイ……シチェルバツキー家の末娘。ヴロンスキーに恋をするが敗れ、のちのリョ―ヴィンと結ばれる。
⇕夫婦
リョ―ヴィン(コンスタンチン・リョ―ヴィン。愛称コスチャ)……本作のもう一人の主人公。オブロンスキーの幼馴染。
⇕兄弟
コズヌイシェフ……リョ―ヴィンの異母兄で学者。
ニコライ……リョ―ヴィンの同母兄で放蕩生活をしていた。物語中、衰弱してリョ―ヴィンのもとに現れる。
『アンナ・カレーニナ』あらすじ
このように『アンナ・カレーニナ』の物語には主人公が二人いる。
実際に作品を読んでみると、むしろ主人公はアンナよりもリョ―ヴィンであると言っても良いほどで、『アンナ・カレーニナ』を恋愛小説と期待して読むと肩透かしを食らうかもしれない(しかし、後述するように『アンナ・カレーニナ』はもちろん恋愛小説としても面白い)。
リョ―ヴィンを主人公と見た場合、リョ―ヴィンも恋愛をするのであるが、リョ―ヴィンの恋愛はそこまでドラマチックなものではない。あくまでリョ―ヴィンという人間が成熟していく一つの過程に恋愛があるというようなものである。だから『アンナ・カレーニナ』は、アンナを主人公とすれば恋愛小説だが、リョ―ヴィンを主人公とすれば主人公が成長する教養小説ともいえるだろう。
前置きが長くなったが、ここで簡単ながら、『アンナ・カレーニナ』のあらすじを紹介したい。
『アンナ・カレーニナ』は、
幸福な家庭はすべて互いに似かよったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっているものである。
という有名な書き出しから始まる。
物語冒頭で、オブロンスキーが不倫する。オブロンスキーは、家庭教師の娘に手を出し、それが妻ドリイに知られることとなる。
ここで兄オブロンスキーと兄の妻ドリイの間を取り持つべく、オブロンスキーの妹であるアンナ・カレーニナが、サンクトペテルブルクからモスクワにやってくる。
アンナは、ある老婦人と列車で同席するが、その老婦人こそ美青年ヴロンスキーの母親であった。
オブロンスキーとドリイの夫婦の危機はアンナの仲裁によって窮地を脱するが、しかしこれをきっかけにアンナはヴロンスキーと互いに惹かれあってしまう。アンナは、カレーニナという姓の通り、既婚者であるのにもかかわらず(ロシアでは夫婦で姓の末尾が異なる。アンナの夫はカレーニンで、アンナの姓はカレーニナとなる)。
一方で、もう一人の主人公リョ―ヴィンも、田舎からモスクワにやってくる。
リョ―ヴィンはオブロンスキーの幼馴染で、オブロンスキーの義理の妹であるシチェルバツキー家の末娘キチイに求婚しようと、モスクワにやってきたのだ。
キチイは18歳で、この年が社交界へのデビューであった。キチイは初めての社交界で、美男子であるヴロンスキーに惹かれる。
そしてリョ―ヴィンの求婚を断るが、ヴロンスキーはアンナを慕っており、キチイの恋も報われない。
恋に破れたリョ―ヴィンは田舎に戻って農場経営に精を出し、傷心のキチイは外国で心を癒す。
アンナはヴロンスキーの求愛を一度は断るが、アンナ自身も官僚的でつまらない夫カレーニンには愛想をつかしており、ヴロンスキーの求愛に屈する(しかしアンナは、息子セリョージャへの愛情は強く持っている)。
アンナは夫であるカレーニンに不倫の告白をする。カレーニンもアンナをもはや愛していないにもかかわらず、カレーニンは世間体などの理由から決して離婚を認めない。アンナは、ヴロンスキーの子どもを妊娠していた。アンナはヴロンスキーとの娘アニーを出産するが、出産の途中で死に瀕する。
死に瀕したアンナを前にカレーニンはすべてを許すというが、アンナがカレーニンとの元さやに収まってしまうことに絶望したヴロンスキーはピストル自殺を図る。
ヴロンスキーは一命をとりとめ、さらに命まで賭けた行動がアンナの心を動かす。
アンナとヴロンスキーは、外国へ駆け落ちする。
一方で、リョ―ヴィンはキチイに再度求婚し、報われる。結婚生活のはじめはさまざまな困難があったが、衰弱したリョ―ヴィンの兄ニコライを看取るなどの出来事を経て、夫婦の絆は強固なものになる。
一方、外国でアンナとヴロンスキーの間には次第に不和が生じる。以前よりも大きくなっていくアンナの愛の一方、ヴロンスキーはアンナを愛しているのは確かだが以前よりも大きくなることはなく、すれ違いが生じる。
アンナとヴロンスキーのすれ違いは大きくなっていき、またカレーニンはリディア夫人らにそそのかされて信仰に目覚めてしまい、またしても離婚を認めなくなる。
そしてどうすることもできなくなったアンナは、鉄道へと身を投げてしまう……。
物語のエピローグで、リョ―ヴィンとキチイの夫妻には子どもが生まれていた。数年の間に失恋や結婚、肉親の死、子どもの誕生といったさまざまな出来事を経験したリョ―ヴィンは、人生の意味について考えるのであった。そしてリョ―ヴィンは、幼少期に持っていたような信仰へと回帰するのであった。
『アンナ・カレーニナ』感想・考察
『アンナ・カレーニナ』は以上のような小説であるが、実際に読んでいただければ、この物語が色々なテーマを含んだ作品であるということがわかっていただけるだろう。
たとえばあらすじ紹介から省いてしまった部分としては、『アンナ・カレーニナ』にはしばしば農場経営の話が出てくる。これは多くの日本の読者は流し読みしてしまう箇所かもしれないが、当時のロシアの時代性を映し出している部分であり、当時トルストイが農村や農場経営とはどうあるべきかについて考えた箇所が反映されていて、意識して読むと面白い部分もある。
だが『アンナ・カレーニナ』の細部について書くと長くなりすぎるので、ここではタイトルの通り「なぜアンナは自殺しなくてはならなかったか」という点を軸に書いていきたい。
恋愛小説としての『アンナ・カレーニナ』
ところで『アンナ・カレーニナ』に影響を受けた小説は数多くあるが、個人的にまっさきに想起したのは、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』である。
『存在の耐えられない軽さ』は主人公トマーシュと、妻テレザと愛人サビナの三人を中心とした小説であるが、テレザにかかわりが深い小説が『アンナ・カレーニナ』なのである。また物語終盤でトマーシュとテレザは飼い犬に「カレーニン」という名前を付ける(ただし雌犬)。
私は、『存在の耐えられない軽さ』で『アンナ・カレーニナ』がモチーフにされている理由が、これまでわからなかった。
しかし『アンナ・カレーニナ』を読んで、なんとなくその理由がわかったかもしれない。
おそらく『存在の耐えられない軽さ』は、アンナ・カレーニナが自殺しなかった『アンナ・カレーニナ』なのだ。
もちろん両者は全然違う小説なのだが、私が共通点だと思ったのは、アンナもテレザも「相手の愛を試す」行動をするということである。
『存在の耐えられない軽さ』のテレザは、トマーシュの覚悟を試すことに成功する。しかしそのせいで、トマーシュはすべてを失うのだ。
一方、アンナは、ヴロンスキーを試す(ただしアンナの場合、自分の中でヴロンスキーを試しているのであり、ヴロンスキーは自分が試されていることはあまり伝わっていない)が、その試みは失敗に終わる。
そしてアンナは、もはや自殺しかないと思い込んでしまうのである。
アンナは自殺の直前、アヘン(モルヒネ)を服用しなくては睡眠できないほど精神を乱しており、あまり正常な判断ができていないという事情はある(このあたりの混乱したアンナの心理描写は圧巻である)。また、ここに至る過程には、さまざまな事象がある。だが簡単に言ってしまえば「自分の中で相手を試し、それが失敗した時に絶望する」という『アンナ・カレーニナ』の流れはかなり恋愛小説としてもよくできていると思う。
神の裁きと性の不均衡
もっとも、アンナの死は物語が始まる前に既定されていたと言える。
『アンナ・カレーニナ』のエピグラフ(物語冒頭の挿句)は、
復讐はわれにまかせよ、われは仇をかえさん
である。
この「われ」というのは神のことであり、つまりアンナという女性の罪は、人間が裁くことはできないが、神は裁くことができるということである。物語冒頭の時点で、アンナが裁かれること(=自殺に追いやられること)は決定しているのだ。
端的に言えば、アンナは不倫の罪によって自殺しなくてはならなかった。
しかし、アンナの運命を語るうえでは、絶対に触れなくてはいけないのは性の不均衡であろう。
物語冒頭でオブロンスキーは不倫するが、罰は受けない。当時のロシア社会は男性の不倫にはお咎めなしでも、女性の不倫には厳しい(もっとも、当時のロシア社会でも隠れた不倫行為は女性であっても見逃されていたことが作中では示唆される。アンナは正直すぎたのだ)。
『アンナ・カレーニナ』を読んで、アンナの息子セリョージャと娘アニーに感情移入してしまうと、「母」として問題しかないアンナには嫌悪感を抱くこともあるかもしれない。愛する母に去られ、さらに母に自殺されるセリョージャは不憫でならない。
しかしアンナの不道徳性を糾弾するうえでは、性の不均衡も意識する必要がある。
おわりに
以上、長くなったが私が『アンナ・カレーニナ』を読んだ感想である。
『アンナ・カレーニナ』は100年以上読み継がれてきた名作であり、色々な読み方がある。だから、この感想は非常に限られた一部分のごく一面的な感想にすぎない。興味を持った方は、ぜひ原書にあたってみてほしいと思う。
本記事が依拠した新潮文庫版は上中下の3巻。60年以上前の訳だが、そこまで古さは感じなかった。
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