自己犠牲の是非ージッド『狭き門』あらすじ・感想

狭き門 古典的名作

かつて進路について考えていたころ、ある人から「一番難しい目標を目指せ」と言われたことがある。

「難しい目標」はそのタイミングを逃したら叶えることができないが、そこまで難しくない目標であれば、難しい目標に夢破れた後でも叶えることができるかもしれない。人生その時その時で、一番難しい目標に挑戦することが大事なのだ。

私はこれを聞いて「なるほど」と思い、できる限り実践しようと心がけている。

ところで、その人はクリスチャンではなかったが、聖書にも同じような一節がある。

力を尽くして狭き門より入れ

(ルカ伝第13章24節)

また、

狭き門より入れ。
滅びにいたる門は大きく、その路は広く、これより入る者は多し。
生命にいたる門は狭く、その路は細く、これを見出すものは少なし。

(マタイ伝第7章13節)

という一節もある。

聖書のこれらの句は「神の救い」を得るためには「難しい道を目指すべきだ」というものであると思われるが(私もクリスチャンではないので正確性は保証できない)、基本的には「価値のあるものを手に入れたいのであれば、難しい道を目指すべきだ」という、私がある人からされたアドバイスと同じようなものだろう。

しかし実際のところ、あまりに極端に「難しい道」を目指すのも、考えものであるのは確かである。

「力を尽くして狭き門より入れ」をエピグラフとする小説として、フランスのノーベル文学賞作家アンドレ・ジッドの『狭き門』という小説があるが、この小説は「狭き門より入る」ことの美しさを描く一方で、極端に「狭き門」を目指すことへの懐疑も提起した作品であると思う。

前置きがかなり長くなったが、この小説について紹介したい。

狭き門(新潮文庫)

『狭き門』あらすじ

『狭き門』の主人公ジェロームは、早くに父を亡くし、夏季休暇は叔父のもとで過ごしていた。

そこでジェロームは、二つ年上の従姉妹であるアリサと、ひそかに愛の交換をする。

しかしアリサの家庭には問題があった。アリサの母は、不倫をしていたのだ。母の不倫にアリサは傷つく。

その後、教会でアリサとジェロームは、《力を尽くして狭き門より入れ》というキリストの言葉をヴォ―ティエ牧師から聞く。

パリに戻ったジェロームは、《狭き門より入れ》の説教をきっかけに勉学に励む。また、ヴォ―ティエ牧師の息子アベルと友人関係となる。

翌年、ジェロームはアリサに求婚するが、まだ早いとして断られる。

その後、アリサから手紙を受け取ったジェロームは、アベルの助言を受け、再びアリサのもとにアベルとともに向かう。

そこでアベルは、アリサの妹のジュリエットに恋をする。

ジェロームはアリサと結婚し、アベルはジュリエットと結婚するーージェロームとアベルは輝かしい未来を夢想するが、しかしうまくいかない。

ジュリエットは、ジェロームのことが好きだったのだ。

アリサはジュリエットのために身を引こうとしていたのだ、とジェロームは気づく。しかしジェロームはジュリエットの愛は受け入れず、ジュリエットはテシエールという男と結婚する。

しかし、なおもアリサはジェロームと結婚しようとしない。アリサはジェロームを愛しているのに、かたくなに結婚は拒み続けるのだ。

そしてアリサは、信仰に人生をささげるようになる……。

のちにアリサは衰弱死し、ジェロームは死後残されたアリサの日記を読むことになる。


 

『狭き門』感想・考察

『狭き門』は以上のようなストーリーである。(あらすじ紹介では時間の経過をまったく紹介しなかったが、実際には物語最初からラストまででかなり長い時間が経っている)

つまるところ『狭き門』は、愛する者の愛を受け入れることを拒み、信仰に生きたアリサという人間の物語である。

アリサの自己犠牲は極めて美しく描かれる一方で、私のような信仰に対して無知で無理解な人間が読むと、「アリサはここまでする必要があったのだろうか」と思ってしまう。

『狭き門』を読んで、「自分はやはりアリサのように信仰に生きよう」と思うことを否定するわけではないが、しかし「アリサのような生き方はしなくていい」と思うのも、この本の読み方の一つだろう。

アリサはなぜ自己犠牲を貫いたか

ではアリサが、どうして自己犠牲を貫いたのか。

間違いなく大きな影響があるのは、アリサの母の不倫である。

アリサは、不倫をする女性の娘に生まれたことに苦悩する。

アリサは「自分は幸せになってはいけない」と思い込むが、その理由は自分が「不倫をした女性の娘」だからである。アリサは容姿も母親と似ており、それが苦悩の一因にもなっていると思われる。

アリサは、自分は幸せになってはいけないと思い込んでいるのである

そして「狭き門」を目指そうとする。

もちろん、信仰に人生をささげることが幸せであれば信仰に人生をささげるべきであろう。しかし、アリサは必ずしもそうではないのに、信仰に人生をささげたのである。

こうしたアリサの生き方には、私は疑義を呈したい。

たとえどのような親のもとに生まれたとしても、誰にでも幸せになる権利はあるのだ。

これは現代でも、重ねて強調すべきことだろう。

狭き門か、身近な幸せか

一方で、冒頭にも書いたように、一般的にキリスト教に限らず、「狭き門」を目指すことで得られるものは多い。

「狭き門」を目指すことで得られる幸福も多い。安易に快楽を追求しても(たとえば恋愛でもいえるだろう)、結局幸福をつかめないという場合は多いと思う。

しかし、あまりにも極端な「狭き門」を目指すことで、身近にある幸せを失うべきではないのではないだろうか。


 
 

おわりに

ジッドの『狭き門』は、一見すると信仰に生きることの美しさを描いた小説だが、実のところそうではないと思うのだ。ジッドはローマ教皇に批判的な小説『法王庁の抜け穴』などを書いたせいか、ジッドの死後、彼の著書はバチカンにより禁書にされた。

『狭き門』がバチカンの怒りに触れたかはわからないが、ジッド自身もアリサの自己犠牲を批判的に描いているのではないかと思われる描写も多い。

たとえば、

あなただって、たとい自分でどう思っていても、いったん熱烈な信仰を吹き込まれたら、そうするよりほかに仕方がなくなってくると思うわ。もしそうでなかったら、わたし、あなたを好きになれないでしょう。

というような台詞は、アリサが信仰により盲目になっていることを示しているように思う。

もちろん、アリサのような生き方も否定すべきものではないが、しかしそれはいくつもの選択肢の中から選ばれた結果であるべきであって、アリサのように「こう生きなければいけない」という強迫観念を持った結果ではないほうが良いのではないか、と個人的には思う。

『狭き門』には上で紹介した新潮文庫版のほか、岩波文庫と光文社古典新訳文庫からも出ている。一番値段が安いのは新潮文庫で、一番訳が新しいのは光文社古典新訳文庫である。光文社古典新訳文庫は訳が新しいかわりに値段は高いが、Kindle Unlimitedという定額読み放題サービスで読める(初月無料、記事投稿日時点)ので、電子で読むという人にはにはお薦めしておきたい。

KindleはスマホやPCのアプリでも読むことができるので、体験したことがない方は一度試してみてはいかがだろうか。

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ジッドの最初の小説『背徳者』の主人公ミシェルは、『狭き門』のアリサとは対照的に、「不道徳」へと堕落していく。『狭き門』と『背徳者』は対になっている作品と言われるので、興味のある方はどちらも読んでみてほしい。