ブライトン・ロック

グレアム・グリーンの出世作『ブライトン・ロック』善悪とは何か?【あらすじ・感想】

グレアム・グリーンの『ブライトン・ロック』という小説について紹介したい。

グリーンといえば映画化もされている『ヒューマン・ファクター』(1978)や『情事の終り』(1951)、『権力と栄光』(1940)といった代表作で知られる、20世紀イギリスを代表する作家だが、これらの傑作に先立って1938年に発表されたのが『ブライトン・ロック』である。

グリーンという作家の特徴としては、MI6の諜報員だったという特異な経歴が挙げられる。しばしば『007』シリーズを書いたイアン・フレミングとも比較されるが、グリーン自身も『ヒューマン・ファクター』などのスパイ小説、探偵小説も手掛けている。

一方、グリーンはカトリック作家としても知られる。イギリス国教会が主流のイギリスにあって、カトリック信仰を主題とした小説を書き続けた点も彼の特徴である。20世紀イギリスのカトリック作家としては、このブログでも紹介している『回想のブライズヘッド』などを代表作に持つイーヴリン・ウォーとしばしば比較される。この元スパイという経歴からくるエンタメ性と、カトリック信仰に基づく純文学性という両輪が、グレアム・グリーンという小説家の特徴といえるだろう。

『ブライトン・ロック』という小説は、探偵小説的なつくりの小説ではあるが、その中にカトリック的な主題が含まれているという点で、まさにグレアム・グリーンという作家を象徴する作品の一つである。今回は、この作品について紹介し、そのテーマについても考えていきたい。

ブライトン・ロック

『ブライトン・ロック』あらすじ

はじめに、簡単に『ブライトン・ロック』という小説のあらすじを紹介したい。

小説の舞台となるブライトンは、イギリス南部の港町である。現在では三笘薫選手が所属するプレミアリーグのブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンの本拠地として日本人にも馴染み深い街となったが、海辺のリゾート地としても知られている。

物語は、ジャーナリストのフレッド・ヘイルがブライトンの町を歩いているところから始まる。ヘイルは新聞社のプロモーション活動の一環として、「懸賞金がかけられた名刺を街のどこかに隠す」ためにブライトンを訪れるが、そこで地元のギャング団に狙われていることを察知した。

ヘイルが狙われる理由は、彼が以前に書いた記事がきっかけでギャング団のリーダー、キトが死んだことにあった。キトの後を継いで、わずか17歳でギャング団のボスになったのが、ピンキー・ブラウンである。ピンキーは童顔で小柄だが、その残酷さと冷徹さで組織のトップに上り詰めたのだ。

ヘイルは身の危険を察知し、偶然出会った陽気な中年女性、アイダ・アーノルドと行動を共にするが、一人になった隙にブライトンの名物菓子である「ブライトン・ロック」を喉に詰め込まれた状態で死亡しているところを発見される。警察は心臓発作と決めつけてヘイルの死は事件化しなかったが、アイダは彼の死を不審に思い、独自に調査を始めることになる

一方のピンキーは、ヘイルの殺害を隠蔽するため、ヘイルが行うはずだった懸賞金つき名刺を隠すという仕事を代わりに行う。しかしその様子を、カフェのウェイトレスであるローズという同年代の女性に目撃されてしまう。

ローズが警察に証言をすれば逮捕されると考えたピンキーは、証拠隠滅のため、ピンキーはローズに近づき、交際を始める。結婚すればローズを証人として立たせずに済むと考えたのだ。当初は打算的な目的で始まった関係だったが、ローズは本気でピンキーを愛してしまい、ピンキーにも次第に情が芽生えていく。

しかし、そんな中でもピンキーは罪を重ね続け、アイダの追跡が彼に迫っていくーー

 

ところで個人的な話になるが、私がこの小説を読もうと思ったきっかけは、ザ・スミスというバンドののボーカリストとしても知られるモリッシーのソロアルバム『Vauxhall and I』に収録された楽曲「Now My Heart Is Full」だった。

この曲の歌詞に、「Dallow, Spicer, Pinkie, Cubitt」という4人の名前が登場する。リーダーのピンキーのほか、ダロースパイサーキュービット(丸谷才一訳ではカビットだが、実際の読みはキュービットだろう)もギャングのメンバーなわけであるが、ピンキーは極限状態に陥る中で、仲間であるはずのダローやスパイサー、キュービットのことも追い詰めていくことになる。

『ブライトン・ロック』感想・考察

『ブライトン・ロック』は以上のようなあらすじの小説であり、ピンキーとローズの奇妙な恋愛、アイダによるピンキーたちの追跡、という2つが物語の基本的な軸である。アイダによるピンキーの追跡は、まさに探偵小説といえるものであるが、しかし、そのアイダとピンキーの対立には、グリーンのカトリック的な価値観が色濃く出ている

「正と不正」と「善と悪」

物語中、ピンキーはあらゆる悪事に手を染めていく。一方、アイダは、(ヘイルに好感を持ったからというたいして説得力のない理由からではあるが)犯人を捜そうとする人物である。

その行為を見れば、アイダが善、ピンキーが悪である。

だが、グリーンはこの小説を、アイダが善で、ピンキーが悪という単純な図式では書いていない。アイダには、信仰がないのだ

彼女に信仰はなかった。天国も地獄も信じていず、幽霊や占板、こつこつと音を立てるテーブル、それから花のことを哀れっぽく物語る阿呆らしい声を信じていた。カトリックの連中はうわついた態度で死を論ずるがいい、生よりも死の方が大切なんだろうから。しかし、私にとっては、死とはすべての終わりなのだ。

(グレアム・グリーン『ブライトン・ロック』丸谷才一訳、ハヤカワepi文庫 67p)

では、信仰を持たないアイダは何に従って行動するのかというと、「正と不正」(right and wrong)である。

「正と不正」と彼女は言った。「あたし、それを信じているの」。

(グレアム・グリーン『ブライトン・ロック』丸谷才一訳、ハヤカワepi文庫 84p)

アイダは快楽主義者である。彼女は「善と悪」という道徳的・倫理的な規範を持っているわけではなく、直感的な「正誤」に従って行動している

ピンキーは悪なのか?

ここでピンキーをアイダと比較すると、彼は快楽主義者ではなく、ある種の高潔さを持った人物として造形されている

たとえばアイダが快楽を重視する一方、ピンキーは両親のセックスを目撃させられるような非常に劣悪な環境の中で育ったこともあり、彼は性というものに対して嫌悪感を抱いている。そのため、ローズとの関係においても、彼なりの清い交際を望んでいる側面がある。またピンキーは、かつては牧師を目指したこともあり、カトリック信仰を持つ人物として描かれている。

もちろん、ピンキーはあらゆる悪事に手を染めていくので、行為だけ見れば紛れもない悪なのだが、ピンキーという人物の魂は悪なのだろうか? ピンキーは罪を自覚していないわけではないのだ。

物語ラストの直接的なネタバレは避けるが、物語のラストで司祭が、ある人物(ピンキーではない)のエピソードを話すシーンがある。

この男は、地獄に落ちて苦しもうとしている者がある以上、じぶんも地獄に落ちようと決心しました。(中略)しかしこの男がーーそう、聖者だったと考えている者もあるのです。

(グレアム・グリーン『ブライトン・ロック』丸谷才一訳、ハヤカワepi文庫 480p)

私はカトリック信徒ではないので、カトリックの考えを理解できていない面は多いが、グレアム・グリーンがこの小説を通じてピンキーとアイダ、そしてこの記事では言及しなかったがローズの3人を対比させ、「善悪」とは何かを読者に問うているのである。

おわりに

ここまで『ブライトン・ロック』について書いてきたものの、ただ正直に言えば、この小説がグリーンが書こうとしたテーマを完全に書ききれているかというと、疑問は残る。『ヒューマン・ファクター』や『情事の終り』といった全盛期の作品と比較すれば、完成度において劣る面があることは否めない。

しかし、探偵小説とカトリック小説という二つの要素が融合したこの小説は、グレアム・グリーンという小説家の思想を知る上でも、また彼の思想に近づくという意味でも重要な小説だろう。なお余談だが、この小説は丸谷才一訳で刊行されており、丸谷の翻訳家としてのデビュー作でもあるという点でも、日本の翻訳史上においても重要な位置を占めている。

ハヤカワepi文庫から出ているので、興味を持った方はぜひ読んでいただきたい。

『ブライトン・ロック』の次におすすめの小説
『情事の終り』
カトリックも主題にしたグレアム・グリーンの不倫小説。この作品も探偵小説の要素を持つ。完成度は『ブライトン・ロック』よりも明らかに高い。
『回想のブライズヘッド』
グレアム・グリーンと並ぶ20世紀イギリスを代表するカトリック小説家であるイーヴリン・ウォーの代表作。第二次世界大戦後の貴族の没落を描くとともに、この作品にもカトリック不倫小説としての一面がある。
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