人々が本を読まなくなった時代に『華氏451度』を読む【あらすじ・感想】

華氏451度

東京都・清瀬市で3月28日、市立図書館6館のうち4館を廃止することなどを盛り込んだ条例改定案が可決されたというニュースを見た。

私は清瀬市民ではないし、人口減少社会で図書館の数も減っていくことには一定の理解はするが、しかし図書館が減るということは悲しいことだと思う。

大袈裟な飛躍かもしれないが、図書館の廃止のニュースを見ると、人類の歴史の中で権力者によって本が弾圧されてきたことを連想する。秦の始皇帝は焚書坑儒として本を焼いて思想家を生き埋めにし、ナチス・ドイツも本を焼いてきた。本を焼くという行為は、自国の支配を都合よくしようとして行う場合もあるが、他国の歴史を奪おうとして行う場合もある。最近の戦争でも、多くの図書館や大学図書館が焼いている。

「焚書」を描いたディストピア小説として世界でもっとも有名な作品は、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』(Fahrenheit 451)だろう。

『華氏451度』は、本の名前は知っているという人が多いと思うが、読んだことはないという方も多いのではないだろうかと思うが、この本は、「自国を都合よく支配するため」に自国の本を焚書する世界での物語である。

今回はこの本について書いていきたい。

Amazon.co.jp: 華氏451度〔新訳版〕 (ハヤカワ文庫 SF フ 16-7) : レイ・ブラッドベリ, 伊藤典夫: 本

『華氏451度』あらすじ

『華氏451度』というタイトルはどのような意味なのか。もちろん華氏というのは、℉(ファーレンハイト)のことであり、アメリカで使われる温度の単位のことである。

華氏451度とは、すなわち摂氏233度(233℃)のことである。これは紙が自然発火する温度である。

 

主人公のガイ・モンターグは、この「華氏451度」(=紙が燃える温度)をシンボルとする「ファイアマン=昇火士」という職業についている。

『華氏451度』は、次のような書き出しから始まる

 火を燃やすのは愉しかった。

ものが火に食われ、黒ずんで、別のなにかに変わってゆくのを見るのは格別の快感だった。

彼は、「本を燃やす」のが仕事なのである。「誰かの家に本がある」という通報を受けるとファイアマンたちはその家に行き、その家にケロシンをかけて燃やすのだ。

モンターグは、ファイアマンの家系に生まれ、本を燃やすこの仕事についた。そして、当初はファイアマンという仕事に誇りを持っていた。

ところで「ファイアマン」は普通であれば英語で消防士のことだが、この「昇火士」という訳は「消火士」と音が一緒であり、上手い訳だと思う。

 

物語の時系列的には前後するのだが、なぜ本がこの世界で危険視されているのかというと、このように書かれている。

学校がスポーツ選手、資本家、農家、製造業、販売業、サービス業、修理屋を世の中に送り出すことに熱心で、審査する人間や、批評する人間、発想豊かな創造者、賢者の育成をおこたるうち、“知識人”という言葉は当然のようにののしり語になった。人はいつでも風変わりなものを恐れるな。 …… みんな似たもの同士じゃないといけない …… だからこそさ! となりの家に本が一冊あれば、それは弾をこめた鉄砲があるのとおなじことなんだ。そんなものは焼き払え。

この世界で人々は、人々はひたすら受動的であることを求められ、「何かを考える」ということはタブーの社会が形成されている

このようにして本は禁止されており、モンターグの妻をはじめとする一般の人々は、現代で言うところのVRのような壁一面を覆うテレビから一方的に情報を受け取りコンテンツを楽しんでいる。

(もちろん読書も受動的な体験ではあるのだが、どちらかというと読書という行為は、テレビを見るよりも思索を伴いやすいだろう)

 

この小説では本が燃やすべき対象であると扱われていると同時に、歴史も捏造されている

モンターグ自身は、「ファイアマン」という仕事は遠い昔、アメリカの建国時からあるものと信じていた。

しかしある時、不思議な少女・クラリスと出会う。

「遠い昔ファイアマンっていうと、火をつけるんじゃなくて火を消すのが仕事だったんですって。そんなこと聞いたけど、ほんとうなの?」

「ばかな。家と言うのは、元から焼けないようにできているんだ。嘘じゃないよ」

「変ね。むかしは建物がまちがって燃えだすことがよくあって、その火を消すためにファイアマンがいたっていうわ」

モンターグは彼女と出会い、こうした会話を重ねる中で、心境に変化が起きていく。

そしてある時、ファイアマンの仕事として現場で、自身の本を焼かれるくらいならといって本とともに焼かれ死んでいった老婆を見て、本に対して興味を持つようになる。

 

こうしてモンターグは「本を持って帰る」というファイアマンとしての最大の禁忌を犯すのであった……。

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『華氏451度』感想

『華氏451度』の物語のあらすじとしては以上のようなものである。物語にはモンターグと妻との関係なども一つの軸として存在しているのだが、その辺はここでは割愛してしまったので、実際に読んでみてほしい。

レイ・ブラッドベリという作家について

ここで感想の本題に入る前に、この本を書いたレイ・ブラッドベリという作家について触れていきたい。

ブラッドベリは日本では「叙情派」「叙情的SF」「SF界の抒情詩人」などという異名もとっていたようだが、実際に読んでみると作風は非常に抒情的である

だから『華氏451度』という小説も、物語の表現も詩的で登場人物の心境が非常に巧みに描写されている一方で、「いわゆるSF」のような設定や劇的な展開があるのかというと、そうではない。

『華氏451度』という作品は、近未来を舞台にしているためSFと分類されることも多いのだが、ドラマチックなSF好きにはあまり面白くない作品かもしれない。

 

ちなみに『華氏451度』が書かれたのは1953年であるが、この時期のアメリカと言えば苛烈な赤狩りが行われていた時である。この小説にはブラッドベリ自身の、彼自身が目の当たりにしていた思想統制への怒りというものも込められているのである。

『華氏451度』が鳴らす現代への警鐘

私が『華氏451度』を読んで印象的だった箇所は多々あるのだが、一番はクラリスの次のような台詞かもしれない。

「先生はどうしてわたしが外出して、森を歩きまわって、鳥をながめたり蝶々を集めたりするのか、その気持ちを知りたがっているわ……」

「みんな、わたしがどういうふうに時間をつぶしているか知りたがっている。だから教えてやるのーーときどきはただすわって物を考えているって。……」

ここまで書いてきた内容と少し矛盾するように思えるかもしれないが、これは「読書の大切さ」を説いた台詞ではない。

『華氏451度』が説いているのは、思うに「読書の大切さ」に限ったことではない。

問題は、人々が低品質なコンテンツに侵され、何も考えなくなること。そして何も自発的に知ろうとしなくなることなのではないかと思う。

ブラッドベリの想像した事態とは少し異なるかもしれないが、現代の社会でもこのような事態はすでに起きている。

現代の社会は、SNSなどで自分の見たい情報のみを見てそれを信じようとする人間が多い。自分の見たい情報だけを見るのだから、自分で何かを考えるということもしない。

あるいは別の例だが、何かゲームに没頭する人もあてはまるかもしれない。ゲームという受動的な世界に行きることに満足し、現実の世界について考えることをしない。

それだったら、クラリスのように、自然の中で鳥や草花と遊び、考え事にふけるほうが健全なのではないかと私は思うのである。

 

私はSNSやゲームなどのコンテンツが悪で、本が特別であると言いたいわけではない。

だが、「考えること」の重要性を理解する人間が少数派になった時に、この小説のような検閲社会が完成する余地が生まれるのだろう。

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おわりに

『華氏451度』は、以上のような小説である。

 

ところでこのブログにたどり着き、ここまでこの記事を読んでいただいた方は、おそらく読書が好きな方だと思う。

最初の図書館の減少の話に戻ると、私は最近は本を買う一方、あまり図書館で本を借りていなかった(私はよく布団で本を読んでいるのだが、布団にはあまり図書館の本を持ち込みたくないという気持ちがある)。しかし、図書館を維持したいのであれば、地元の図書館で本を借りることが大事である。利用者が減ったら、

だから読書家の皆さんも、地元の図書館を大切にしてほしいと思う。

もし『華氏471度』を読んでみたいと思った方は、もちろん本を買うのでもいいが、時には地元の図書館で借りてみてはいかがだろうか。

 

そして、本書の内容ともに「本を焼く者は、やがて人間も焼くようになる」というハイネの言葉も心の中にとどめておきたい。

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