今月25日で三島由紀夫の没後50年である。
三島由紀夫といえば「同性愛」のイメージがつきまとうが、その中でも『禁色』(きんじき)という作品は、同性愛をテーマにしながらエンターテイメント的にも非常に面白い作品である。
同性愛をテーマにした小説で、この作品ほどスリリングで、また考えさせられる作品を、私はまだ知らない。
『禁色』あらすじ
最初に軽く、『禁色』のあらすじの紹介をしておこう。
還暦を越えた老作家・檜俊輔は、確固たる地位を文壇で築いているが、私生活では女性に裏切られてばかりだった。
もちろん、女性に対する彼の人一倍強い欲望と、それを手に入れられない煩悶が、彼を有名作家にしたわけではあるが……
檜俊輔は、老境に達した今も、熱海で美少女・康子を追い回していた。
そんな俊輔の前に、絶世の美男子・南悠一が現れる。
若い時から、醜く女性から相手にされなかった俊輔は、悠一のあまりの美しさに憎悪を覚える。
――さらに、悠一は、俊輔が追い回している美少女・康子の許婚者であった。
康子の紹介で、俊輔と悠一は知り合う。
そこで悠一は、俊輔に重大な秘密を打ち明ける。
悠一は、康子と結婚することに負い目を感じていた。
悠一は、男しか愛せない同性愛者だったのだ。
これを聞いた俊輔は、あることを思いつく。
「絶対に女を愛さない美青年」である悠一を使って、いままで俊輔を弄んできた女に復讐を計ろうとするのである。そして俊輔は、悠一に康子と結婚することを薦める(かわいそうなことに、康子も俊輔の復讐の相手なのである)。
「……私の青春をもう一度裏返しに生きてもらいたい。
平たく言えば、私の息子になって私の仇を討ってもらいたい。……」
そして悠一は、俊輔の甘言に弄されて、自らの美しさを自覚する。
今まで悠一は自分の美を意識することに嫌悪を感じ、愛する少年たちの絶えず拒んでいるかのような悲願の美に絶望を感じていた。
(中略)
しかし今目前の老人の熱情的な讃辞が彼の耳に注がれるにつれ、この芸術的な毒、この言葉の有効な毒は、永きに亘ったその禁を解いたのである。
彼は今や自分を美しいと感じることを自分に許した。
――こうして悠一は、俊輔の手駒となって多くの女性を誘惑し、俊輔の復讐を果たすようになる。
そして一方では、自らもゲイバー「ルドン」に入り浸り、快楽を味わうようになる。
物語は目まぐるしく展開する。
悠一の堕落、破綻した結婚生活、同性愛の露呈の危機……
悠一の愛を勝ち取ろうとする鏑木夫人や、穂高恭子(彼女たちは、俊輔の復讐相手である――恭子への復讐方法は度が過ぎているが)。
悠一は旧華族の世界へと入っていき、彼女たちのことを俊輔の指示を受けて弄ぶ。
そして悠一自身は、鏑木伯爵(――彼は鏑木夫人の夫だが、実は同性愛者だった――)や、俊輔の旧友で自動車会社社長の河田弥一郎の愛人となり、また自分も年下の男の子を誘惑し快楽に耽る。
康子は、自分を愛さない夫・悠一に当初は苦悩するが、次第に感情を失っていく……
悠一は、俊輔の操り人形から脱却しようとする。
一方で俊輔は、自分が悠一に恋愛感情に近い感情を持っていることに気づく。
そして、悠一は俊輔と縁を切ろうとするが……
『禁色』感想・考察
『禁色』は、以上のような話である。
あらすじ紹介で十分に伝えられたかはわからないが、この作品は非常に展開が面白く、ひきこまれる小説である。
単純なエンターテイメント小説としても、楽しめる作品である。
(ただ、同性愛を描いた作品であり生々しい描写もあること、そして「女性を憎む」檜俊輔と、ゲイの南悠一が中心的な登場人物である都合上、女性蔑視的な台詞が多く含まれていることはお断りしておく)
しかし、『禁色』は、ただの「アブノーマルななエンターテイメント小説」で終わってはいない。
三島由紀夫の作品というだけあって、この作品は、いくつもの示唆に富んでいる。
ここでは、少しだけ、『禁色』への考察を書いていきたい(ネタバレも含みます)。
堕落と性の解放
『禁色』で物語序盤に、悠一が自分の美しさを「悪事」に利用できることに気づいてしまい、堕落するところなどはオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』に似ている。
「老い」と「若さ」、あるいは「美しさ」がテーマになっていたりと、二つの小説に共通するテーマは多く、確実に『禁色』は『ドリアン・グレイの肖像』の影響を受けている。
『ドリアン・グレイの肖像』で、ドリアン・グレイは完全に悪事に手を染める。
『禁色』で、南悠一も 悪事に手を染める。他人を利用することを思いついたりするようになるのである。
――しかし、悠一の場合は、単純な「堕落」ではないと思うのである。
そこに両作品の違いがある。
悠一は、檜俊輔の言葉によって、従来抑圧してきた「同性愛」という一面を開放するようになった。
この意味だけを見れば、現代的な価値観では、肯定されて然るべきなのかもしれない。
もっとも、悠一による「同性愛の解放」によって、犠牲になった女性たち(この意味では、主に康子)は可哀想である。
だが、「いったい南悠一という人物は、どのように生きることができたら幸せだったのだろうか?」という問いは、この本を読む上でぜひ多くの人に考えてほしい問いである。
檜俊輔と出会ったことによって南悠一の人生は大きく変わった。南悠一は、それによって堕落してしまったのは事実である。
だが、檜俊輔との出会いが無かったら、南悠一は生涯同性愛を隠して生きていくことになっただろう。――それは、果たして南悠一にとって幸せだったのだろうか?
『禁色』ラストの考察
そして『禁色』は、三島作品に共通することとして結末が非常に面白い。
『禁色』のラストは、——明確なネタバレ表現は避けておくが――檜俊輔の「ある行動」である。
物語の構造として、『禁色』のラストはものすごくきれいである。
檜俊輔は、女に愛されず、その復讐に人生をかけた。
だが俊輔は、復讐のために自身がつくりあげた「南悠一」という作品に、次第に不思議な感情を抱いていく。——愛に近い感情を。
しかし、その「愛」が受け入れられることはない。
同性愛者としての恋愛対象として見られないのは、もちろんである(最後まで、檜俊輔のこの感情が同性愛的な感情なのかは、断定できないだろう)。
そして、檜俊輔が南悠一にほんとうに受け入れてほしかったのではないかと思われる「父性愛」も、受け入れられることはない。
悠一は、「母性愛」を別の女性に求め、俊輔を裏切った。——そう俊輔は思った。
だから俊輔は、物語のラストで壮絶な悠一への復讐を果たす。
愛を拒まれ裏切られる。そして、それに対する復讐に次ぐ復讐こそが、檜俊輔という人間の生き様だったのである。
おわりに
『禁色』は比較的長い小説であるがゆえに、読むたびに印象に残る箇所も変わる。
だから、私がここに書いた感想のようなものは、今回たまたま私の心理状況がそうさせたに過ぎない。
しかし、何回読んでも変わらないのは、ストーリーの面白さである。
そして、三島由紀夫という同性愛者が書いた同性愛小説として、描かれる同性愛者の苦悩や心理にはリアルさがある。これを描くことができる小説家は、三島の死後50年が経とうとしている今でも、いまだに現れていないのではないかと思う。
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