昨年亡くなったアメリカの作家ポール・オースター(1947-2024)。もっと早く追悼記事を書こうと思っていたが、1年半以上も経過してしまった。今回はオースターの代表作である『幽霊たち』について紹介したい。
ポール・オースターという小説家について
はじめに、オースターおよび『幽霊たち』という作品は、日本では村上春樹が大きな影響を受けたことでもよく知られている。
アメリカ文学史上屈指の“軽妙洒脱”な作家
オースターについて一言で言うと、軽妙洒脱。この四字熟語がこれほど似合う小説家はいない。
オースターはアメリカ文学のなかでも異色の作家であり、柴田元幸はオースターの『幽霊たち』のあとがきで、オースターを評して以下のように書いている。
「エレガントな前衛」という言葉は、アメリカ小説においてはほとんど言語的矛盾である。(中略)たとえばイタリアのカルヴィーノのように、前衛であると同時に軽妙・洒脱・洗練といった要素を併せもっている作家には、残念ながらアメリカはあまり恵まれてこなかったように思う。(中略)ポール・オースターはおそらくアメリカではじめて「エレガントな前衛」という形容句を冠しうる作家である
ところでオースターの同年代の作家といえば『ガープの世界』、『ホテル・ニューハンプシャー』などの代表作があるジョン・アーヴィングが思い浮かぶが、アーヴィングがひたすら重厚な物語を作り出したのに対して、オースターの作品は柴田元幸がこう評価するように、まさに軽妙洒脱である。
ニューヨーク三部作
そして『幽霊たち』という小説について紹介すると、まず特徴的なのは、何といってもその書き出しだろう。
まずはじめにブルーがいる。次にホワイトがいて、それからブラックがいて、そもそものはじまりの前にはブラウンがいる。ブラウンがブルーに仕事を教え、コツを伝授し、ブラウンが年老いたときにブルーが後を継いだのだ。
物語はそのようにして始まる。舞台はニューヨーク、時代は現代。この2点は最後まで変わらない。
(柴田元幸訳、新潮文庫)
この書き出しだけで、先ほどの「軽妙洒脱」の意味は伝わったと思う。
主人公はブルーという名前で、そのほかホワイト、ブラック、ブラウンと、登場人物は色の名前である。この非常に抽象的な登場人物たちの一方で、舞台はニューヨークと具体的に指定されている。
村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、「色」の漢字を名前に持つ登場人物が出てくるが、オースターの影響はあるだろう。
ちなみにポール・オースターの『幽霊たち』は、いわゆる「ニューヨーク三部作」と呼ばれる作品のうちの一つである。この三部作は、『ガラスの街』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』という、1985年から86年にかけて出版された3つの小説からなる。三部作といっても続編というわけではなく、それぞれの小説は独立しているが、ニューヨークを舞台に共通した雰囲気を持っている。
前置きが長くなったが、次からは『幽霊たち』という作品について解説していきたい。
『幽霊たち』あらすじ
物語のあらすじを説明すると、ブルーは探偵である。師匠のブラウンがいて、いまは独立して一人で探偵をやっている。
そのブルーという探偵のもとに、ホワイトという依頼人がやってくる。ホワイトの依頼は、ブラックという名前の男を見張り、必要がなくなるまで続けてくれというものである。
こうしてブルーはブラックを監視するのだが(時代設定は1947年2月3日から)、ブラックは何もしない。
ブラックは、何かを書き、読んでいるだけなのだ。――こうしてブルーは、ブルーとブラックだけの世界にのめりこんでいってしまう。こうして読者も、小説の世界に閉じ込められてしまうのだ。
ちなみにブルーには物語開始当初、彼女がいたこ。この彼女は「未来のミセス・ブルー」という、おしゃれな言い回しをされている。しかし、ブルーはブラックの監視にのめり込んでいってしまい、紆余曲折の末にその彼女と別れてしまう。こうしてブルーは孤立していく。
最終的にブルーはブラックと決着をつけることになるわけだが、この記事ではその結末部分のネタバレは(ほぼ)しない。興味を持った方は、ぜひこの結末は読んでいただければと思う。
『幽霊たち』感想
ここからは、『幽霊たち』という小説の感想について書いていきたい。
オースターの紹介の技術
この小説は物語の本筋も非常におもしろいのだが、別の点で非常に印象に残るのは、本の中で別の小説や映画が紹介されることが多々あるのだが、その紹介が非常に興味をそそられるものなのである。
たとえば、ブルーは探偵ということで探偵映画をよく見るが、『過去を逃れて』(Out of the Past、1947年)という映画が登場する。
主演はロバート・ミッチャムという俳優で、この彼が演じる元探偵は昔の生活から足を洗って、いまは名前も変えた小さな田舎町のガソリンスタンドで、アンというガールフレンドとともに新しい人生を築こうとしている。
そのガソリンスタンドは、ジミーという耳が聞こえず話せない(聾唖の)少年に手伝ってもらっている。だがその平和な暮らしも長くは続かず、探偵時代の過去がどんどん迫り、事件に巻き込まれていってしまう。
最終的には、主人公は町を離れるが、逃避した先で死んでしまう。
そして物語のラスト、ガールフレンドのアンは、ジミーに、「あの人は女と一緒に逃げる気だったのかしら」と聞く。元探偵は、彼が背負う過去のせいで町を離れざるを得なくなって死んでしまったのだが、アンのことは愛していた。ただジミーは、それを伝えてしまったら、アンは次の人生に進めなくなってしまうのではないかと考えて、「そうではない」かのように頷く。しかし、ミッチャムの名誉は、ジミーの心の中で生き続ける。
(うっかり長々と紹介してしまったが、私は『幽霊たち』を読んで、『過去を逃れて』にも興味が湧いて見てしまった)
そして、ナサニエル・ホーソーンの短編小説『ウェイクフィールド』という小説(下記記事参照)や、ブルックリン橋を設計した親子がたどったエピソードなど、物語の中に効果的に紹介された作品やエピソードの面白さは群を抜いており、『幽霊たち』という小説は、オースターの小説の上手さをひたすら感じる作品である。
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監視する者と監視される者
また話が逸れてしまったが、話を戻し、簡単にこの小説のテーマについて感じたところ書きたいと思う。
ブルーが監視しているブラックは、何もせずにひたすら本を読んで書き続けている。(そういった点は、オースターの作家としての投影も入っているのだろう)
物語の結末はぜひ読んでいただきたいが、ブラックは結局何を描いているのかというと、実はブルーの話を描いているのではないかという読み方はもできる。監視している側だと思っていたら、実は監視されていたのではないか、ということである。
『幽霊たち』という小説の物語のメッセージとして何を考えたのかというと、ある監視対象を追い続けるということは、逆にその監視対象に自分の行動を制約させられているという、そういう皮肉のようなものである。
しばしばこの小説についてよく言われるのは、ニューヨークという大都市における疎外感が描かれているということだ。ブルーは「未来のミセス・ブルー」と別れ、ブラックとの2人だけの世界に入ってしまう。『幽霊たち』は、一種のスリラーというかサスペンス的な要素もあり、読み終わるとどこか狐につままれたような気もするが、小説の技巧の上手さをこれでもかと堪能できる。そんな小説である。
おわりに
『幽霊たち』は狭義のエンタメ小説ではないが、読書の面白さを伝えてくれる小説として、これ以上のものはないと思えるほど面白い小説である。興味を持った方は、ぜひ読んでみてほしい。
→『ガラスの街』
『幽霊たち』が気に入った方は、『幽霊たち』が一番短く読みやすいが、王道に「ニューヨーク三部作」の読破がおすすめ。もう一冊の『鍵のかかった部屋』はじつは新潮文庫から出ていないのでやや手に取りにくい(筆者も未読)。
→『ホテル・ニューハンプシャー』
同世代の作家ジョン・アーヴィングによる、『幽霊たち』とは全く違う小説。一転してひたすら「物語の強さ」を味わえるので、興味のある方は比較として読んでみるのをおすすめ。
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