カズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞してから初の長編小説である『クララとお日さま』が、ついに刊行された。
「AIと少女の交流を描く感動の物語」という触れ込みの本作品だったが、実際に読んでみると、かなり不気味な作品である。「美しい小説」を求めている人より、ミステリーやSFを求めている人にお薦めしたい小説である。
今回は『クララとお日さま』の読後に感じたことを、書いていきたい。
なお、この記事は作品を考察するという記事の関係上、読者によってはネタバレとなる内容を含むため、その点はご了承いただきたい。
『クララとお日さま』あらすじ・設定
本記事の目的は考察であるが、一応簡単にあらすじ(というよりは舞台の設定)を記しておこう。
・主人公クララ(語り手)はAFと呼ばれるロボット。
・AFは、子どもの一番の友人となり、子どもの健全な発達に寄与することが求められている。
・クララは「ジョジ―」という女の子に買われ、そこでジョジーの世話をすることになる。
・ジョジーは病弱。その理由は……
・ジョジ―は、幼馴染のリックと相思相愛だが……
・ジョジーの姉はすでに他界しており、ジョジ―の母親クリシーはそれがトラウマになっている。
設定の紹介はこれくらいにしておこう。
『クララとお日さま』で描かれるテーマ
それでは、『クララとお日さま』はどのようなテーマを描いているのかについて考察していきたい。
AFの認知能力について
この作品がひとつのテーマにしているのは、「人工知能の認知能力」についてである。
語り手のクララは、AF(人工知能が搭載されたロボット)であり、人間の感覚とは少し違った知覚を持っている。
わかりやすいのは、クララには嗅覚がないことである。
プルーストの『失われた時を求めて』のように、嗅覚が重要な役割を果たす文学作品は多い。しかし、「におい」が描写されないからと言って、小説に違和感を抱く人はいないだろう。
だから読者は普通に『クララとお日さま』を読み進めていくのだが、本書の途中でクララに嗅覚が存在しないことが明かされる。
そして、実は作中で一回もにおいが描写されていなかったことに気付くのだ。この伏線回収(?)には感心した。
しかし、そういったわかりやすい違い以上にこの作品がテーマの一つとしているのは、AFがどのように事象を認知するのかについてである。
クララは、視覚的に物体を見るとき、対象を分割して認知する。
それゆえ、本作では、普通の風景も不気味な描写になっていることが、稀にある。
このような「AF特有の認知」というのは重要なテーマであるが、残念ながら、人工知能の「認知能力」というテーマ自体は本書で十分描かれているとは言えないと思う。
しかし、「AF特有の思考回路」というのは、おそらく本作品最大の謎にもつながっている要素である。それについては後述しよう。
格差社会・コミュニティ社会
また、この作品がもう一つのテーマにしているのは、格差社会とコミュニティ社会(この表現が正しいのかはわからないが)である。
この世界では遺伝子操作である(と思われる)「向上処置」が行われており、それを受けた子供と受けていない子どもではその後の人生に決定的な違いがある。
もちろん、向上処置を受けられるかどうかは、金銭がモノを言う。完全な格差社会である。
(ちなみにこの世界では、向上処置とは別に「置き換え」という概念も存在するらしいが、説明はあまり十分にはなされていない)
しかし、向上処置にもリスクがないわけではない。
ジョジ―が病弱なのは、向上処置の副作用である。
そして、ジョジ―の幼馴染であるリックは、向上処置を受けていない。リックは非常に優秀な子どもであるが、「向上処置を受けていない子ども」に門戸を開いている教育機関は非常に少なく、それがリックとリックの母親の問題となっている。
また、この作品の世界では、おそらく向上処置を受けている人は受けている人同士でコミュニティを形成しており、逆も然りと、非常に排他的なコミュニティを人々が形成している。
実のところ、このような格差社会というテーマ自体は、作品の本筋とはあまり関係がないように思う。これは私の読み込みが浅いからかもしれないが、もし社会に屹立する断絶というテーマを読みたいのであれば『わたしを離さないで』の方がお薦めかもしれない。
しかし、『クララとお日さま』が美しい作品であるのは、この作品はクララやジョジ―の物語として見た場合だけでなく、リックを主人公として見た時にも美しい作品であるからだろう。
リックを作品の主人公と読んだ場合、もっとも重要なのはこのテーマである。
その意味では、このテーマも非常に重要である。
「お日さま」とは何なのか?
最後に本題に入りたい。
この作品の最大の謎は、「お日さま」である。
クララたちAFは、太陽光で動く。
それゆえ、クララは「お日さま」を神聖視している。クララの「お日さま」の捉え方は、明らかにこの世界を生きている私たちとは異なっている。
クララはことあるごとに、「お日さま」を気にする。「お日さま」が機嫌を損ねていないか、「お日さま」は恵みを与えてくれるのか……などなど。
そして、あたかも「お日さま」に 超自然的な力があるかのようにーーそしてそれが当たり前かのように、クララは叙述を続けるのだ。
このようにクララが神聖視する「お日さま」は、私たちが普段見ている「太陽」と同じものなのだろうか?
恐らくこの作品を読んだ読者は、この疑問が常に浮かんでいたはずだ。
「お日さま」 というのは、太陽ではなく、実は何かの装置なのではないか? と。
この作品の舞台(ジョジ―の家があるところ)は、「イギリスではない」ことが明記されている。
それでは、この作品の舞台はどこなのか?
もしかするとこの作品の舞台は地球ではない他の星で、実は「お日さま」というのは太陽ではなく、人工的な何かなのではないか?ーー私はこの作品を読んでいる時、そのように考えた。
(余談だが、あたりまえだと思っていた世界が本当は「つくられたもの」かもしれない、という恐れを抱かせる作品であるという点で、山下和美のマンガ『ランド』を連想した。)
おそらく、このような解釈ーーすなわち、「お日さま」は「太陽ではない」という解釈も、可能である。
前述の通り、クララは「お日さま」に超自然的な効能を期待するが、それは私たちの目から見るとあまりに不自然だ。
この不自然さを説明する一つの方法は、この作品において「お日さま≠太陽」であるとみなすことである。
そのように途中までは考えていた。
だが、私は『クララとお日さま』を最後まで読んだ結果、「お日さま=太陽」、すなわち「お日さま」というのは太陽のことではないかと考えるに至った。(もちろん、「お日さま≠太陽」という解釈が完全にできなくなったわけではない)
すなわち、『クララとお日さま』の舞台は、私たちが暮らしているのと変わらないのであって、クララのいう「お日さま」というのも、私たちが普段見ている太陽と変わりないのである。
こう断言するためには原文を読まなければならないが(原文は未読)、日本語訳を読む限り私はそう読み取った。
クララは太陽のことを「お日さま」と呼ぶ。しかし、人間は太陽の事を「太陽」と呼ぶ。太陽を神聖視しているのは、この世界ではAFだけなのだ。
アンドロイドは神を信仰するのか?
では、なぜクララは「お日さま」に超自然的な能力を期待しているのか?
先ほどこの作品のテーマは「AFの認知」であると書いた。これはおそらく、太陽を神聖視するのは「AF独特の認知」の一つなのである。それは、AFが太陽によって動くからというのが最大の理由だろうが、AFが人間とは違う感性を持っているということに集約される。
AFであるクララは、太陽を「神」のような存在だと考えているのである。自分たちの力の源を供給する太陽に、クララは執着する。(しかし、当然ながらこの世界に生きる人間は、別に太陽のことを気にしない。現実世界に生きる私たちのように)
そしてクララは、太陽を親しみを込めて「お日さま」と呼ぶのである。
そのように考えると、『クララとお日さま』は、AF、すなわち人工知能の「神」について描いた作品とも読むことができる。クララは、原始的な太陽信仰を持っていたといえる。
しかし、そのような太陽信仰は私たちにとっては完全な異文化である。そこに私たちは、不思議な感覚を覚える。
だが、このような「違和感」こそが、カズオ・イシグロの描きたかったことーー著者が狙ったことーーなのではないかと、私は思う。
人工知能に対して、私たちは時に恐怖に似た違和感を覚える。しかし、その恐怖の根源は何なのだろうか? そのようなことを考えた時に、この作品の意味があるのかもしれないと思った。
このような解釈は、ちょっと穿った見方をしすぎているのは否めないが。
おわりに
結論としては、『クララとお日さま』は考察のしがいのある小説である。
伏線の回収も巧みで、あっと唸らされることも多い作品である。間違いなく、2021年の小説の傑作だろう。そのような伏線の回収は、今回の記事ではほとんど触れていない。ぜひ、実際に読んでみてほしい。
しかし、少し「謎」が多すぎて、ストレスフリーに読むことはできないのはこの作品の注意点だ。割とカズオ・イシグロ作品に慣れていない人が読むと、ストレスを感じるかもしれない。
『わたしを離さないで』の方がわかりやすい作品なので、もし未読なら、こちらを先に読んだ方がいいかもしれない。
▼『わたしを離さないで』は文庫でも読めるしね
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