「小説にしかできない表現」とはー小説はマンガや映画より「優れている」のか?

小説にしかできない表現

小説とマンガ、あるいは映画の中で、どれが一番優れているのか?

私は、この問いは愚問だと思う。どの媒体にも優れた点はあり、そもそも比較できるものではないからである。

だが、例えば「小説にしかできない表現はない」という意見があるとしたら、私は絶対に反対する。

「小説にしかできない表現」は確かに存在するのであり、そういう表現を楽しむことが読書家のあるべき姿勢だと思うからである。

だから、ここではそういう表現の愉しみ方を、自分なりに書いていきたい。

なお、私は小説が一番優れた表現方法であると思っているわけではない。どの媒体も、その媒体にしかできない面を持っているのであり、今回紹介するのが小説というだけである。決してマンガが劣っているなどと言いたいわけではないことは、この記事でもしっかりと述べるつもりである。

小説は特別な存在ではなくなった

そもそも、「小説にしかできない表現」が存在するという考えは、100年前には当たり前のことだったはずである。

世界的によく知られた児童文学である『ナルニア国物語』の作者C・S・ルイスは、生前『ナルニア国物語』の映画化を許可しなかったことが知られている。

なぜか?

それは、作品の世界観を、映画では表現できないと思っていたからである。

ライオンの姿を持つ英雄・アスランや、氷の女王の魔法etc…

ーーこれらが、100年前の映画で満足に表現できるはずはなかった。

想像の世界に誘うことができるのは、小説の専売特許だったのである。

映画技術の発達

だが、『ナルニア国物語』は、21世紀になって映画化された。

「きっと、C・S・ルイスも、今の映画技術を見たら『ナルニア国物語』の映画化を許可しただろう」

そう考えられて、映画化が実現したのである。

しかしこの事例が象徴するような映像技術の発展は、小説にとっては危機を意味する。

もはや小説だけが描くことのできたファンタジーは、映画などで視聴覚に訴えた方が現代においてはむしろ魅力的になりつつあるのである。

だとしたら、小説にしかできない表現として、何が残っているのだろうか?

そして、そのような表現を楽しむコツはどこにあるのだろうか?

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①「心の動き」の描写を楽しむ

私は、「心の動き」を描くことができるのが、小説の特徴なのではないかと思う。

もちろん、他の媒体であっても心の動きは、表情を描いたりモノローグを挿入したり、暗示的な場面を挿入することで描くことができる。

たとえば私の一番好きな漫画家である、あだち充などは、文字なしの絵で心情を表現する天才だと思う。

だが、それができるからあだち充は天才なのであり、普通「心の動き」を描くことに適しているのは文字媒体である

だから私は、「小説にしかできない表現」の愉しみ方として、第一に「心の動き」の表現を楽しむことを挙げたい。

エッセイを映像化したら面白いか?

ここで、厳密には小説とは異なるが、エッセイを例にとって考えてみたい。

単刀直入に言って、エッセイを映像化しても面白くないと思う。

たとえば、私の好きなエッセイである江國香織さんの『やわらかなレタス』などは、非常に平凡な生活を描いたエッセイである。愛犬との触れ合い、果物や野菜などの普通の買い物など、江國さんの行動自体に面白さがあるというわけではない。

だが、やはり江國さんのエッセイは面白いのである。

それは、ふとした心の動きを巧みにとらえた描写が、くすっと笑えたり、なごんだりできるからである。

与えられた映像がない世界だからこそ、逆にその世界に没入できるのである。

平凡な風景も、エモーショナルに描けるのが小説

だから、エッセイを楽しむのと同じような感覚で、小説の心理描写に着目すると、新たな発見ができるかもしれない。

小説は、「当たり前の風景」も、作者の感性次第では、描写によって印象的な風景に変えてしまうことができるのである。

私は、このような表現は小説にしかできないことではないかと思う。

②「時間」に支配されない描写を楽しむ

次に、「時間」との関係について考えたい。

そもそも、私は小説と映画の一番の違いは「時間」だと思っている。

映画を見ているとき、人は時間に支配される。

2時間の映画だったら、2時間かけて見る。映画を見る時間は、それ以上でも、以下でもない。

だが、本を読むなら、人は自由な時間で本を読むことができる。本を読む人は、時間の支配をうけないのである。

一瞬を永遠に描くことができる

この大前提は、小説や映画の表現方法にも当てはまる。

映画は、基本的に「映画の中の時間」と「映画の外の時間」が一致する。

ーーもちろん、スローモーションや回想シーンの挿入などの表現方法があるので、必ずそうというわけではないが。

だが、小説は、「小説の中の時間」と「小説の外の時間」は一致しない。そんなのは説明するまでもないだろう。

それは例えば、「一瞬を永遠に描くことができる」ことなのではないかと思う。

①では心情表現について述べたが、ここでも心情表現を例にするのがわかりやすいだろう。ある一瞬に覚えた感情を、映像作品や漫画で表現するには制約がある。だが、小説では、基本的に紙幅の制限を受けることがないのである。

もちろん、逆もまた然りである。映像なら描写に時間がかかる出来事でも、小説なら簡潔に表現できることもあるだろう。

小説の映像化が失敗する理由

話は逸れるが、ここまで書いてきた理由②は、基本的に小説の映像化が失敗してしまう理由なのではないかと思う。

逆に、小説の中の自由な時間の流れをうまく型に嵌め込むことができた時に、映像化は成功するのではないか、と思う。

③「文章」そのものを楽しむ

3つ目に、当たり前だが、「文章の面白さ」というものがいかに大事なものであるかを書いておきたい。

漫画で「絵の上手さ」が重要なように、小説でも「文章の上手さ」は重要である。

そして、そもそもの「文章」を楽しむ能力こそ、「小説でしか体験できない楽しみ方」である。

「言葉遊び」を楽しむ

そのわかりやすい例は、例えば「言葉遊び」などであろうか。

『ロリータ』などは、その好例である。「ロリコン」の由来だけに手に取りにくい本に思われるかもしれないが、ぜひ読んでみていただきたい。

例えば、有名な『ロリータ』の原文の書き出しを紹介すると、次のようになる。

Lolita, light of my life, fire in my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: the tip of the tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth. Lo . Lee. Ta.

「L」の音が重ねられた一文目に、「T」の音が重ねられた二文目。韻が非常に緻密に組まれた文章である

この部分は流石に日本語に翻訳するのは難しかったようで、原文そのものの言葉遊びを翻訳で楽しめるとは言えない(ので、ここで紹介した)。

しかし、他の部分の言葉遊びなどは日本語訳でも楽しめるものが多く、是非お薦めしたい。

散りばめられたオマージュ

日本の作家でも、言葉遊びやオマージュを多用する作家と言えば、ライトノベルにはなるが西尾維新ではないだろうか。

この点で、やはり「物語シリーズ」は、ライトノベルとして軽視されるべきではないように思う。

④「他の文字媒体との親和性」を楽しむ

だんだん理由が瑣末なものになっている感が否めないが、形式という点でも小説にしかできないことは多い。

その一つが、「日記」や「手紙」といったツールを、小説が借りることができるという点である。

普通の人が誰かに何かを伝えたい時に使うのは、やはり文字なのである。

手紙やメールーーそういうものと、小説の親和性は非常に高い。そして、小説の中にこのようなツールが組み込まれているものは、優れているものが多い。

「日記」や「手紙」との親和性

その代表例が、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』ではないかと思う。

言わずと知れた名作だが、この小説は、日記風や手紙風の一風変わった小説としての構成をとっている。

それができるのは、小説ならではだと、私は思うのである。

名作と呼ばれる小説にはこのような形式をとるものが案外多く、そもそもが手記の体裁をとっているリルケの『マルテの手記』などという作品もある

「日記」というツールを用いた作品としては、日本の作品なら井伏鱒二の『黒い雨』などが挙げられる。

そういえば、このブログでも過去に紹介したクンデラの『存在の耐えられない軽さ』には、辞典調の章があるし、このような例は枚挙にいとまがない。オーウェルの『一九八四年』や安倍公房の『砂の女』も、後日談を示唆するのは、普通の文章ではない特殊な形式の文書である。

文字と映像は住みわけ可能である

とにかく、私がここで言いたいのは、小説というものは文字で表現できるものをすべて吸収できるというものである。

これは、映画や漫画にはかなり難しい。

一方で、もちろん映画や漫画は、画像で表現できるものをすべて包含することができる(さらに映画なら音楽を包含することもできる)。

たとえば、「主人公の部屋に掛けられている絵画が伏線となる」みたいな演出は、言うまでもなく映画や漫画のほうが優れている。

例えば、藤本タツキ『チェンソーマン』などは、絶対に小説化することができないマンガだと思う。そう断言できるほど、マンガという表現方法の強みを遺憾なく発揮している。

 

つまり、文字と映像は住みわけが可能なのである。

だから、この点で映画や漫画と小説の優劣をつける必要はない。

互いに、たがいにしかできない表現方法があるのである。

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ならば、どんな本がお薦めなのか?

最後に、ならばどんな本がお薦めなのかを一つ紹介しておこう。

私がお薦めしたいのは、ノーベル文学賞作家でもあるカズオ・イシグロの『日の名残り』である。

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日の名残り

少しネタバレになるかもしれないが、私はこの本には小説にしかできない表現が詰まっていると思っている。

まず、①の心理描写が巧みなこと。何よりも巧みなのが、物語当初自分が思っていたことについて、徐々に「自分に対して都合のいいように考えていたのではないか?」と思い始める部分である。

これは、一種の叙述トリックである。この記事では叙述トリックについて触れなかったが、叙述トリックとは「ある事柄をあえて伏せる(曖昧にする)ことで、読者のミスリードを誘う」技法である。これは小説が得意とする技法であり、『日の名残り』ではこれが存分に生かされている。

そして、②の時間の描き方。この作品は時間の描き方が非常に巧みで、いわゆる「意識の流れ」の技法をとっている。この小説では、ある限られた期間の出来事しか描いていないが、人の「意識」や「記憶」にアプローチすることで、その人の過去までの長い時間を描き切っている。このような構成で時間の制限から逃れることができるのは、小説ならではではないかと思う。

③の言葉遊びは、この小説が主に志向しているものではないが、ところどころに笑えるユーモアが散りばめられている。とりわけ、お笑い芸人アンジャッシュが得意とするような「言葉の勘違い」系のネタは、小説媒体でも面白さを発揮するネタであるが、本書中にもそのようなネタが仕組まれている。

④については少しこの小説には当てはまらないのであるが、「手紙」が物語上重要になっている点では当てはまる。

おわりに

長文になったが、「小説にしかできない表現」は確かに存在するのであり、小説にあまり親しみのない人も、ぜひ小説ならではの面白さを知ってほしいと思っている。

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