「面白いストーリー」と「面白い文学」は違う。
ーーということを最も強く実感するのは、中南米の小説を読んでいる時だ。
今回紹介するフアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』という小説は、ノーベル文学賞作家ガルシア・マルケスやバルガス=リョサをはじめとするラテンアメリカの作家たちに大きな影響を与えたといわれるような、ラテンアメリカ文学の記念碑的な名作とされている。
ラテンアメリカの文学というと「マジックリアリズム」「魔術的リアリズム」といわれるような「現実と非現実がまざりあった」世界観や描写が特徴とされるが、この作品も簡単に言えば「死者の街を主人公が訪れ、死者と現実があいまいに入り混じる作品」だ。
このように現実と非現実が混淆した作品であるから、『ペドロ・パラモ』は構成も複雑で、すぐには理解することが難しい。
しかし、もう一度この作品を読み返してみれば、生涯で最も印象深い本にもなりうるだろう。
『ペドロ・パラモ』あらすじ解説
はじめに、少し『ペドロ・パラモ』のあらすじを紹介したい。
語り手のフアン・プレシアドは、母ドロレスの遺言に従い、コマラという街にやってくる。
コマラにやってきたのは、ペドロ・パラモとかいうおれの親父がここに住んでいると聞いたからだ。おふくろがそれを教えてくれた。おふくろが死んだらきっと会いに行くと約束して、そのしるしに両手を握りしめた。おふくろは息をひきとろうとしていた。だから何でも約束してやりたい気持ちだった。
フアン・プレシアドはこの約束を守る気はなかったが、「ついこの頃、夢に胸をふくらませたり、勝手に想像にふけるようになって、急に気が変わった」として、コマラに向かうことになる。
こうして、フアン・プレシアドの父ペドロ・パラモを探す幻想的な旅が始まる。
「ペドロ・パラモを知ってるかい?」
(中略)
「どんな人間だい?
「ありゃ憎しみそのものだ」と男は答えた。
……
「(前略)町のことだ。人が住んでないみたいにひっそりしてるじゃないか。誰もいないみたいだ。」
「みたいだ、じゃなくて、ほんとうにそうなんだ。誰も住んじゃいないんだ。」
「じゃ、ペドロ・パラモをは?」
「ペドロ・パラモはとっくの昔に死んでるのさ」
……
しかし、フアン・プレシアドは、コマラの街に入っていく。
そこでフアンは、「死んでいるのか生きているのかわからない人々」からペドロ・パラモの話を聞くことになる。
物語後半でフアンは舞台から退場し、ペドロ・パラモの過去の話になる。
ペドロ・パラモは、土地の権力者として思うがままにふるまっていた。
ペドロは女性に乱暴したり、殺人などの暴力をふるったりして権力をほしいままにする。
しかし、ペドロにも一つだけ弱点があった。
それはペドロの幼馴染でもあるスサナ・サン・フアンである。
ペドロはスサナを得るために暗躍する。しかしスサナは、ペドロが(強引な方法で)スサナを手に入れて以降ずっと放心状態であり、ペドロはスサナから愛を得ることができない。
そのままスサナはこの世を去る。
「スサナ」そう言って目を閉じた「戻ってくれって頼んだのに……。(中略)スサナ。スサナ・サン・フアン」
目に浮かぶ幻影をはっきりさせようとして、手を上げてみた。だが石のように脚にこびりついて離れない。もう一方の手を上げようとしたが、これも脇に逸れてゆっくりと落ちてゆき、やせ細った肩を支える松葉杖のように地面に突きささった。
「これがおれの死だ」とつぶやいた。
……こうしてペドロ・パラモ、そしてコマラの街は死んでいったのである。
『ペドロ・パラモ』感想
以上が『ペドロ・パラモ』のあらすじである(ただし細かいところや、読む前にネタバレされるとつまらないところなどは、割愛してある)。
二回読んでほしい作品
この作品について補足説明をすると、『ペドロ・パラモ』の語りは時系列順でない。
物語前半はフアン・プレシアドの話が中心なはずなのにペドロ・パラモの話も割って入ってくる(物語前半に断片的に挿入されているのは、幼少期のスサナとペドロの話)。
そのため、『ペドロ・パラモ』は一度だけ読んでも理解することはできない。
だから、『ペドロ・パラモ』は、絶対に二回以上読んでみてほしい。
(逆に言えば、一回で理解しようと思って読まない方がいい作品かもしれない)
一回目読んで「あまり面白くなかった」という感想をたとえ抱いたとしても、ぜひ二回目を読んでみてほしい。『ペドロ・パラモ』は「二回目」でこそ真価を発揮する小説だからだ。
「読書メーター」などで感想を見ると「よくわからなかった」という方が多く、この小説が「よくわからない小説」であることはその通りなのだが、「二回読めば「そういうことか!」と感動できたはずなのに、もったいない」と思ってしまうような感想も多く投稿されている。200ページと短めの小説なので、一回で面白さを感じられなかった人にも強く再読をおすすめしたい。
『ペドロ・パラモ』の複雑さと面白さ
このように『ペドロ・パラモ』は独特の構成を持っていることが特徴の小説なのだが、それだけでは「どこが面白いの?」と思われるかもしれない。
しかし、この「複雑な構成」と「死者と生者の混じりあう語り」が混ざり合っているところが、この小説の唯一無二な点なのではないかと思う。
『ペドロ・パラモ』の語りが複雑なのと、死者たちが登場するのは、おそらく無関係ではない。
死者たちは、現世から離れつつある存在であり、あいまいな存在である。だから死者たちの語りは、理路整然とはしていないのである。
ところでアメリカのノーベル文学賞作家フォークナーに『響きと怒り』という作品があるが、この作品(の第一章と第二章)も『ペドロ・パラモ』同様に、語りの時系列がバラバラな小説である(『響きと怒り』は注釈がないとわからないほど、時系列が入り混じっている)。
なぜなら『響きと怒り』の第一章は、ベンジャミンという知的障碍を持った人物の意識を語り手としており、第二章は重度の抑鬱状態で自殺寸前にあるクエンティンという人物の意識を語り手としているからである。
単に「時系列がバラバラ」なだけでは、ただの読みにくい小説である。
しかし、「なぜ時系列がバラバラなのか」という理由があり、そのことが作品の魅力を相乗的に高めている場合においては、「読みにくさ」は代えがたい魅力となるのである。
おわりに
『ペドロ・パラモ』は、他の小説では味わうことができないような幻想的な体験を私たちにもたらしてくれる作品である。
しかし繰り返すように、麻薬のような幻想的な効果は、二回読まないと発揮されない。
二回読めば、この作品の世界にどっぷりと浸ることができると思う。
もしかすると、二回読んでも「つまらない」と感じる方もいるかもしれないが、その場合には島田雅彦の名言
二回読んで、二回とも眠くなるなら、睡眠薬の代わりにもなる。
を贈ろう。
ラテンアメリカ文学は、読みなれていないと登場人物の名前などが覚えにくく読みにくいかもしれない(これはロシア文学などにも言えるが)。
しかし、中南米の文学の独特な熱情は、ぜひ一度味わってみてほしい。マジックリアリズムの魅力がつまった『ペドロ・パラモ』は、決して読みやすくはないが、ラテンアメリカ文学の入門としてもおすすめである。
ガルシア・マルケスの『百年の孤独』は、ラテンアメリカの文学・マジックリアリズム小説としてもっとも有名な作品。『ペドロ・パラモ』のような構成の複雑さはないが非常に長いので、最初に読むことはおすすめできないが、人生で一回は読んでみてほしい作品。
同じくガルシア・マルケスの『予告された殺人の記録』は、短いが構成が非常に緻密で、意外と読むのに根気がいるが、『ペドロ・パラモ』と並んでおすすめのラテンアメリカ文学。