三国志演義

なぜ『三国志演義』は史上最高の歴史小説なのか《面白い理由》

私は歴史好きではあるのだが、正直なところ歴史小説はあまり読まないほうかもしれない。

なぜ私があまり歴史小説を読まないのかを考えると、一度『三国志演義』を読んでしまったからではないかという気がする。

『三国志演義』は、言わずと知れたコーエーの『三国志』『三国無双』といったゲームや、横山光輝の漫画の原典となった歴史小説である。

この作品を読んでしまうと、すべての歴史小説が見劣りして見えてしまうのだ。ある意味では、禁断の小説といえるだろう。

『三国志演義』の面白さを語るにあたって、劉備、関羽、張飛、呂布、曹操といった登場人物の魅力や、名シーンを挙げようとしたらきりがない。

だが、なぜ『三国志演義』が最高の歴史小説なのかを考えると、そのようなストーリーの面白さは前提として、この作品が歴史小説のあらゆる要素を含んでいるからではないかと思う。『三国志演義』は全120回に分けられているのだが、120回を通して物語の性格も変化していく。だから、この小説はすべての歴史小説の要素を含む、歴史小説の最高到達地点なのである。

この記事では、『三国志演義』という小説の面白さと、物語の性格が具体的にはどのように変化していくのかを書いていきたい。

『三国志演義』の歴史

本題に入る前に、一旦『三国志演義』という作品の成り立ちについて説明をしたい。

この小説は、羅貫中(生没年不詳)という人物によって明代の14世紀後半に執筆されたとされている。羅貫中がたった一人で書き上げたというわけではなく、長い年月をかけて語り部たちによって語り継がれてきた物語を、彼がまとめたということである(一方、羅貫中という人物が本当にいたのか、どのような人物だったのかについては、歴史学界で長年論争になっている)。

『三国志演義』と『正史 三国志』の違い

『三国志演義』は小説だが、題材となったのは史実である。この小説は史実を題材にした歴史小説であり、とくに歴史書『三国志』(『正史 三国志』)に基づいている。

『正史 三国志』とは、西晋の陳寿によって3世紀末に編纂された歴史書であり、中国の歴代王朝によって編纂された「二十四史」のうちの一つである。つまり、王朝のお墨付きを経た歴史書である。

『正史』は紀伝体と呼ばれる、中国の正史の伝統的な形式にのっとった方式で書かれている。つまり、人物ごとに出来事を記すという伝記のような形であり、たとえば「劉備」「関羽」「張飛」の項は分けられて記述されている。そして歴史書という性格上、人物のキャラクターなどを叙述するというよりは、出来事が淡々と記されている。

こういったスタイルの違いはもちろんのこと、『正史』と『演義』は内容も異なる。

『演義』で劉備は仁徳の君主として理想化され、関羽は武勇に優れた将軍から、「義絶」とも評される忠義の化身ともいうべき英雄へと昇華され、諸葛亮に至っては、有能な政治家・軍師から、「智絶」と呼ばれる超人的な知謀を持つ天才へと変貌を遂げている。一方、曹操は「奸絶」と評される悪役に徹する(一方『演義』でも、曹操は関羽と友情を築いたり趙雲を認めたりと、君主としての魅力はよく描かれている)。

また、『正史』では、『演義』で大活躍する趙雲に関する記述がほとんどないことも有名である(これについては民間伝承などや『正史』以外の資料からの影響が大きいとされる)。

つまり『演義』は、『正史』の淡々とした叙述を肉付けして、魅力ある物語を作り出しているのである。

『三国志演義』の「七実三虚」

ところで『三国志演義』は「七実三虚」と評される。これは、物語の七割が史実に基づき(「実」)、三割が虚構である(「虚」)という意味である。

この「歴史小説の黄金比」と呼べるような絶妙なバランスこそが、『三国志演義』を歴史小説の傑作たらしめている要因の一つでもあるだろう。

たとえば、映画『レッド・クリフ』でも題材となったような、「赤壁の戦い」などは、史実として起きた出来事である。しかし、諸葛亮孔明が「10日で10万本」の矢を調達した「草船借箭の計」として知られる計略などは正史では描かれていない。こういった計略の面白さや、そして人間ドラマを脚色することによって、面白さが増している。

「七実三虚」により、史実だけでは味わえない感動と、虚構だけでは得られない重みの両方を読者は楽しむことができ、それこそがこの小説が歴史小説の傑作たるゆえんなのである。

Sponsored Link

『三国志演義』が人類史上最高の歴史小説である理由

前置きが長くなったが、最初に述べたように『三国志演義』は全120回という長大な物語の中で、作品の性格は段階的に変化し、それぞれの時期に異なった魅力がある。

それこそが、『三国志演義』が史上最高の歴史小説である理由なのだが、それではこの作品はどのように変化していくのかを書いていきたい。

「一騎当千」の世界観

『三国志演義』の物語の序盤を象徴する言葉を挙げるとしたら、「一騎当千」がふさわしいだろう(ちなみに、「一騎当千」は、三国志由来の言葉というわけではない)。

物語序盤では、個人の武勇が戦局を左右し、「個の力」が非常に重要になる。

『三国無双』というゲームを実は私はしたことがないのだが(ちなみに余談だが、ゲーム『三国志』はかなりやっている。ターン性でちまちま動かせる『三国志11』が一番好きである)、こういったアクションゲームの世界観に近いのが『三国志演義』の序盤である

「一騎当千」の世界観では、強者が他の雑兵を圧倒し、そして武将同士の一騎打ちで戦況が決する。この単純明快な構造は、フィクションとしてこのうえない面白さを持っている。

また、この時期の象徴的存在が「人中の呂布、馬中の赤兎」と称された呂布である。

しかし呂布の死(第19回)に象徴されるように、人の武勇がものを言う「一騎当千」の時代は次第に終焉に向かっていく。呂布の死後も関羽の千里行(第27回)などは一騎当千の世界観が色濃く残っているが、物語が中盤に入ると、単純な個人の武勇だけでは戦況を決められない複雑な情勢へと変化していく。

知略と外交の「三国」三つ巴の戦い

物語序盤では力自慢の「武将」しかいなかった劉備陣営に、はじめて「智将」徐庶が登場する(第35回)。これは「武」の時代から「智」の時代への移行として象徴的である。

また、この時代には、群雄割拠の時代が終わり、魏・呉・蜀の、本来の意味での「三国時代」になる

魏・蜀・呉の三国は、強大な魏と、魏に劣る国力の呉・蜀というパワーバランスである。このバランスの中で、外交と知略が戦いの行方を左右するようになる。

この時期に見せ場を作るのが、たとえば呉の外交官であり軍人としても活躍する魯粛であり、そして諸葛亮孔明である。

いうなれば、個人で戦う『三国無双』の世界観から、シミュレーションゲーム『三国志』の世界観へと変化していくといえるのかもしれない。

この時期の最大の見せ場は、先ほども言及した「赤壁の戦い」であり、呉と蜀が協力して魏の南進を防ぐという外交の妙、そして諸葛亮の圧巻の知略が読みどころである。

この時期の『三国志演義』は、政治小説の傑作といえるかもしれない。もはや個人のカリスマや武勇だけでは問題を打破できないという状況になり、智謀と外交が重要になっていくのだ。

「知絶」諸葛亮の超人的計略

次に物語の性格が転換するのは、劉備の死去(第85回)だろう。

物語の実質的な主人公だった劉備が死去してからは、その主人公の座を受け継ぐのは蜀の丞相となった諸葛亮である。

正直に言えば、劉備が死んでしまうと(さらにいえば張飛や関羽が死んでしまって以降は)、読者の多くは愛着のあった登場人物の死と暗いムードで、あまり物語を楽しめなくなってしまう人も多いと思う。私自身も、やはり物語の一番面白い時期は劉備が活躍していた時代だと思うし、それは否定できない。

だが、『三国志演義』はそういった読者のテンションを見越してか、ここで物語の性格を少し変えてくる

諸葛亮が主人公に躍り出ると、「知絶」(知謀の極致)と評される彼の超自然的とも思える計略が物語を牽引するようになるのだ。

「南蛮征伐」(孟獲を7回捕らえて7回解放した有名なエピソードなどがある)は、三国のシリアスな戦いから離れてコミカルな雰囲気になる(しかし、ここでは諸葛亮の死を暗示するシーンも出てくる)。

北伐における諸葛亮の活躍は、人知を超えているといってよい。「木流牛馬」(自動の運搬具)や、「石兵八陣」(迷路のように石を組んで敵軍の足止めをする)など、もはや諸葛亮は天才軍師というよりも、魔術師といってしまったほうがよい。

「一騎当千」の世界観ような、一人の智謀が圧倒的な影響力を持つ世界観に一度戻ると評することもできるかもしれない。しかし諸葛亮の五丈原での最期(第105回)により、物語は再びシリアスな政治劇へと移行する。

蜀の亡国と永劫回帰

物語最終盤、諸葛亮亡き後の蜀の衰退と滅亡は、あまり人気はないと思うが、『三国志演義』のもう一つの傑作部分である。

劉備の後を継いだ劉禅の暗愚さ、宦官の専横、将軍たちの対立など、蜀の惨状は見るに堪えないが、人間社会の宿命を示している。

そもそも三国時代の起こりは、漢で黄巾の乱が起きたからであった。(一応晋が中国統一することによって物語は終わるが)物語最初の状況へと戻っているといえるのではないかと思う。

つまり、三国志演義とは、ある国が滅びゆくところから始まって、そしてある国が滅ぶところで終わる。この悲哀まで描いているところが、この小説を単なる英雄譚で終わらない、傑作たるゆえんなのではないかと思う。

おわりに

混沌の時代を打破するために、武力を持った人物が立ち上がる。だが、個人の武力がものをいう武勇の時代から、集団を指揮する智謀がものをいうの時代に移行していく。そして政治と外交の時代へ。そして最後は混沌の時代へ戻っていく……。

『三国志演義』は人間社会の宿命も描いた作品であり、だからこそこの作品は人類史上に残る金字塔なのである。

『三国志演義』翻訳比較

『三国志演義』はいくつか訳が出ているが、個人的には講談社学術文庫から出ている井波律子訳がおすすめ。井波先生の訳は少し独特に思うこともあるが(全然悪い意味でなく、少し擬音がおばあちゃんっぽかったりする)、私は読みやすいと思う。他に読みやすいのは、角川ソフィア文庫の立間祥介訳だが、井波訳より少し硬い印象。なお、井波先生も立間氏も残念ながら故人である。

ほかに比較的簡単に入手できるのは、岩波文庫の小川環樹/金田純一郎訳。小川環樹はご存じの方も多いと思うが、日本で初めてノーベル賞を取った物理学者・湯川秀樹の実弟で漢文の大家。井波訳・立間訳よりも古く明らかに文語調なので、読みやすさを求める方にはおすすめしないが、講談調で読みたいという方にはおすすめ。

基本的に筆者としては井波訳(全4巻)をおすすめしたい。

関連記事

私は漢文がものすごく好きなのだが、世の中には漢文が嫌いな人も多いようで悲しい。この原因は、おそらく句法の暗記などのめんどくささがあるだろう。確かに句法の暗記というものは面倒である。 しかし、そのような「めんどくさい」技能を少し頑張って[…]

IMG
関連記事

漢文が嫌いな人は多いらしい。きっと中学・高校の漢文の授業がつまらなかった、という人が多いのだろう。だが、中国の古典にはものすごく面白いものも多いと私は思っている。その最たる例が、この「聊斎志異」である。今回は、もし読者の方が[…]

聊斎志異
関連記事

海外文学の良いところは、他国の歴史や文化を感じることができるところだ。日本の文学も好きだけれど、それぞれ違った良さがある。海外文学を読んでいるうちに、主要な海外文学を死ぬまでに読んでみたいという気持ちになってきてきた。だが、「海外文[…]

>このHPについて

このHPについて

このブログは管理人が実際に読んだ本や聴いた音楽、見た映像作品について書いています。AI全盛の時代ですが、生身の感想をお届けできればと思っています。管理人プロフィールはこちら