荒木飛呂彦『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』を読んだ。著者はご存知の通り、「ジョジョの奇妙な冒険」の作者である。
この本は、「ホラー映画の入門書」「おすすめのホラー映画の載ったハンドブック」としても面白いし、また、荒木飛呂彦先生がどのような作品からインスピレーションを得ているのかという点でも非常に興味深いものである。
だが、それ以上に私が興味深いと思ったのは、氏がホラー映画は「人を癒す」の述べていることである。特にこの部分に着目して、本書の紹介を行いたい。
「ホラー映画を見ない人」も極端である
正直に言うと、私自身はあまりホラー映画を見ない。
怖いからである。気になる異性といくお化け屋敷ならいざ知らず、お金を払って怖い目に遭いたい人間は多くないだろう。
少なくとも私はそうである。(余談だが、私は戦争映画はよく見る。だが、戦争映画は本書の定義するホラー映画に含まれない。)
しかし、荒木先生は、ホラー映画を「暗くて汚い、気持ちの悪い、そして気が滅入る映画だと、頭から見ない人」もまた極端であるという。
荒木先生から見れば、ホラー映画を見ない人間は、やはり視野が狭いと言わざるを得ないのだろう。
しかし、その論も正しいと、私は以下の文を見て納得した。
かわいいもの、美しいもの、幸せで輝いているものを好むのが人間です。
でも世の中すべてがそういう美しいもので満たされているわけではなく、むしろ美しくないもののほうが多かったりすることを、人は成長しながら学んでいきます。
(中略)まだ少年少女には想像もできないほど過酷な部分が現実の世の中にあって、それを体験しつつ、傷つきながら人は成長していく。
(中略)
(少年少女は)自分の想像が及ばない不幸への不安に、ただ怯えるしかないわけです。
でも世界のそういう見にくく汚い部分をあらかじめ誇張された形で、しかも自分は安全な席に身を置いて見ることができるのがホラー映画だと僕は言いたいのです。
全くもって一理あるとしか言いようがない文章である。
ホラー映画を見る意味は何か
映画を見るという体験は、ジャンルによって様々な意味がある。
ホラー映画を見る目的は、「怖いもの見たさ」が普通だと思うが、場合によっては「猟奇的な趣味を満たす」とか「人が悲惨な目に遭うのを見てスカッとする」というものもあるだろう。
後者2つの理由を持つ人はあまり現実にはいてほしくないが、ホラー映画で願望が充足されるなら問題はないだろう。
そのようなヴァーチャルな体験ができるのが映画なのだから。
ヴァーチャルな体験ができるという映画の利点を生かせるのは、「恐怖の予行演習」という意味でも同じである。
ホラー映画の「怖い世界」を現実世界で体験することは、なかなかないだろう。
だが、それは現実にも起こりうる。
だがら、恐怖に打ち勝つために、コンテンツとして予習しておく必要があるのである。
昨今新型コロナウイルスの影響で「パンデミックもの」が流行っているというが、それも社会のそのような傾向を表しているのではないか。
恐怖の予行演習としてのホラー映画
「100日後に死ぬワニ」との関係
余談だが、Twitter上で最近「100日後に死ぬワニ」というのが流行った。
ワニが「100日後に死ぬ」ことが最初に読者に提示されるものの、ワニは普通に生活を続ける様子を見守る、というTwitter上での一連の投稿である。
私は、この「100日後に死ぬワニ」について、「死の不条理を突き付ける作品」だとしたら面白いと思っていた。
「死の不条理」を表すために、何か突拍子もない理由(それこそ隕石がぶつかるとか)で死ぬのであったら、かなり衝撃的かつ興味深い作品になるのではないかと思っていたのである。
https://twitter.com/moriishi_s/status/1235233240669024256
結末は少し違ったが、ある意味、「100日後に死ぬワニ」で作者がしようとした「死の啓蒙」を極端な形でしているのが、ホラー映画だといえるのである。
なぜホラー映画に「癒される」のか
この記事の題にもしたが、荒木先生はホラー映画は人々を「癒す」としている。
たしかに、絶望への最高の処方箋は絶望である。
2004年にBBC6Musicがした「人生を救った曲」ランキングは、上位の大半がダウナー系の音楽である(稀に明るい曲もあるが)。フランツ・カフカの『絶望名人カフカの人生論』にも同じようなことが書いてあった気がする。
それと同じように、絶望や恐怖への最高の処方箋となるのが「ホラー映画」であり、だからこそ「ホラー映画」は人を癒すのである。
私もホラー映画を見ようという気になってきた。
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