ロシア文学というと、ドストエフスキーやトルストイによる、長大で難解な作品をイメージする方が多いと思う。しかし、ロシア文学はそういった「堅い小説」ばかりではない。
ここで紹介したいのは、ミハイル・ブルガーコフ(1891~1940)の代表作『巨匠とマルガリータ』である。
『巨匠とマルガリータ』という小説がどのような作品なのかを一言で説明するのはほぼ不可能なので、記事できちんと紹介したいと思うが、この小説は「魔力を持った小説」である。
この小説では、(それがすべてではないが)黒魔術を行う悪魔が登場し、猫がしゃべり、登場人物は空を飛ぶ。この作品は文庫で上下巻と長めで、物語の筋も分かりやすいとはいえないかもしれないが、どんどんページをめくりたくなる魅力のある小説である。
またこの作品自体も、数奇な運命をたどった小説である。ソ連はこの小説を恐れ、発禁処分を下した。この小説はブルガーコフの生前刊行されることはなかったが、小説の中の名セリフ「原稿とは燃えないものなのです」をまさに体現するかのように、彼の死後刊行され大きな反響を呼んだ。
奇想天外な小説で、作品自体も運命に振り回された。この小説に興味が湧いてきませんか?
ミハイル・ブルガーコフという作家について
はじめに、ミハイル・ブルガーコフとはどのような小説家なのかについて、少し紹介をしたい。
ブルガーコフは、1891年にウクライナ・キエフ(キーウ)に生まれた。
(ちなみにブルガーコフはウクライナの独立には否定的な立場であったため、ロシアによるウクライナ侵攻後キーウにある「ブルガーコフ博物館」が攻撃される事態にもなった。これ以上ここで詳しくは書かないが、この小説についてはゼレンスキー大統領も過去に言及したこともあり、興味がある方は調べていただけたらと思う)
ブルガーコフは裕福な家庭に生まれ、キエフ大学の医学部を卒業し、軍医などを勤めるが、作家への憧れを断つことができず小説家に転身する。
1920年初頭、戯曲などで大いに注目を集めたブルガーコフだが、体制批判などの要素が多かったために当局に目をつけられ、次第に発表の場を失っていく。
かの独裁者・スターリンもブルガーコフに一目置いており、この時期の発表の場を失っていたブルガーコフとスターリンの間にはこういったエピソードがある。
1930年、ブルガーコフはソヴィエト政府に手紙をしたため、海外へ移住する許可を求めた。……数日後、ブルガーコフのアパートの電話が鳴った。「スターリンに代わります」と電話の声が言った。「あなたは私たちにもううんざりしてしまったのですか?」
(M.ブルガーコフ『犬の心臓・運命の卵』(新潮文庫)訳者あとがきより)
スターリンから直接電話を受けたブルガーコフは、劇場と契約ができるようになった。
そんなブルガーコフが1928年から1940年にかけて書き上げた、まさに彼の集大成と言える作品が『巨匠とマルガリータ』だが、この作品を世に出すことはできなかった。
1939年、ブルガーコフは親しい友人たちに、『巨匠とマルガリータ』の朗読会を開催した。
妻のエレナ・ブルガーコワは後年、「その夜、ようやく読み終えた彼は『それじゃあ、明日、この小説を出版社に持っていくぞ!』と言いましたが、みんな黙ってしまいました」「……誰もが麻痺して座っていました。何もかもが彼らを怖がらせたのです。P.A.マルコフ(モスクワ芸術劇場の文学部門の責任者)は、後で私に、小説を出版しようとしたら恐ろしいことが起こると説明しようとました」(ミハイル・ブルガーコフ 英語版Wikipediaより)
そしてブルガーコフは、この小説が世に出ないまま世を去ったのだった。しかし、未亡人により原稿は守られ、26年後についに発禁処分が解けて刊行されたのである(しかし、その時点でも元の原稿の一部は削られたままで、完全版がソ連で刊行されたのは1974年のことだった)。
『巨匠とマルガリータ』概要・あらすじ
『巨匠とマルガリータ』概要
ブルガーコフの経歴ばかりを紹介してしまったが、ブルガーコフの作家としての魅力は、ここまでも言及しているような「奇想天外さ」と、それと同居する現実への目線だと思う。
あの『百年の孤独』を書いたガルシア・マルケスは、ブルガーコフを20世紀最高の小説家と評価したという。現実と非現実が混じりあったいわゆるマジックリアリズムはガルシア・マルケスら南米の作家のお家芸とされるが、ルーツは違うにしても、ブルガーコフは20世紀前半にその手法を自在に使っていた。
一方、ブルガーコフの作品は単に奇想天外なだけではない。ブルガーコフの作品の多くが発禁処分を受けた理由は、まさに当時の社会構造などを奇想小説の形をとって批判していたからであり、現実の社会に向けられた非常に鋭い目線が、非現実的な小説の形となって表れているのである。
前置きが長くなってしまったが、『巨匠とマルガリータ』という作品は構造としては次のような3つの物語から構成されている。
②「巨匠」と「マルガリータ」による愛の物語
③(作中に入れ子構造として登場する)イエス・キリストの受難とキリストを処刑したポンティウス・ピラトゥスの苦悩の物語
これらの物語が、相互に響き合いながら、一つの結末へと帰着していく。ブルガーコフという作家が命を賭けて書き切ったこの作品の読後感は、圧巻である。
『巨匠とマルガリータ』あらすじ紹介
というわけで、ここでは『巨匠とマルガリータ』のあらすじの紹介をしていきたい(ネタバレが嫌な方は、これを読まずにぜひ買ってください)。
物語冒頭部分は、上記①の「悪魔の物語」からスタートする。
暑い春の日の夕暮れどき、モスクワの池のほとりで2人の男が会話している。
2人の男とは、文学協会の「議長」で雑誌の「編集長」でもあるベルリオーズと、〈宿なし〉というペンネームで詩を書いている「詩人」イワン・ポヌイリョフ。
会話の内容は、救世主イエスがこの世に存在していたのかどうか? というものだった。
そこに、外国人風の「教授」ヴォランドが登場する。
(ヴォランド)「見ず知らずの者がいきなり話しかけたりしまして……それでも、学問的な話題にはとても興味をそそられましたので、つい……」
ヴォランドは、「よく覚えておいてください、イエスは存在していたのです」と言い、キリストの処刑を目撃したと語る(③の「キリストの受難の物語」)。
そしてヴォランドは、ベルリオーズが命を落とすと予言する。
(ヴォランド)「いきなり足を滑らせて路面電車に轢かれてしまうのですからね! これでも、人間は自分自身を思いどおりに支配できたのだなどとおっしゃいますか?」
ヴォランドの話をベルリオーズとイワンは取り合わない。
(イワン)「精神病院に入院されたことがありますね?」
……
(ヴォランド)「私がいかなかった場所なんてどこにありましょう! ただ残念なことに、精神分裂症とは何かを医師に聞きそこねました。ですから、そのことは、ご自分で医師にたずねてください、〈宿なし〉のイワンさん!」
しかし、ベルリオーズはヴォランドの「予言」通り死ぬ。
イワンはヴォランドの正体が悪魔であることに気づき、そのことを人々に真実を伝えようとするが、誰にも信じてもらえず精神病院に収容されることになってしまう(上記の引用の通り、イワンが精神病院に入れられることもヴォランドの予言通りだった)。
そこでイワンは「巨匠」に出会う(②の「巨匠の物語」)。
この小説は全32章からなるが、主人公の「巨匠」は13章にならないと出てこない。私は物語途中まで、いったい巨匠とは誰なんだ…!と不安になったが、安心して読み進めてほしい。
そのあいだにも悪魔ヴォランドとその眷属たちは不可思議な力でモスクワで大騒動を起こしていき、そして「巨匠」は愛するマルガリータとの再会を目指し、そして作中の随所で(巨匠の物語としての形でも)キリストの受難とピラトゥスの苦悩の物語が挿入され、3つの物語が有機的に絡み合って物語は進行していく。
『巨匠とマルガリータ』はなぜ禁書になったのか
『巨匠とマルガリータ』は物語自体に非常に大きな魅力があるので、特に私が感想を書かなくても、上記のあらすじ紹介によって十分に魅力を伝えられたのではないかと思っているが、そのうえでこの小説についての感想などを少し書いていきたい。
禁書の理由
はじめに紹介した通り、この小説をソ連は禁書とした。
第一の理由としては、当時のソ連でキリストを題材にした小説を執筆するのはそもそも不可能だったということが指摘できるだろう。先ほど紹介した物語冒頭のベルリオーズとイワン、ヴォランドの会話の中にも、このようなあからさまな表現がある。
「無神論に驚く者なんて、わが国では一人もいませんよ」とベルリオーズは外交官のような慇懃さで言った。「ずっと以前から、わが国の住民の大多数は神についてのお話を信ずるのを自覚的にやめてしまったのです」
(その一方で、私はクリスチャンでないのでわからないが、この作品におけるキリストの描き方は若干キリスト教徒からするとやや冒涜的なのではないかと思わなくもない)。
また、ここでベルリオーズが「わが国」の状況を述べていることからもわかるように、この作品は奇想的な一面を持つ小説ではあるが、基本的にはソ連時代のモスクワが舞台になっている。
そこで描かれているモスクワの社会は、腐敗した官僚や、拝金的で偽善的な文学者などであり(個人的には、『巨匠とマルガリータ』で描かれていた貴族的なレストランなどの描写に驚いた)、それは当時のソ連社会への批判と受け取られることもあっただろう。
作品の持つ魔力
しかし、当時の検閲官がこの小説にどのような感想を抱いたのかはわからないが、この小説が「禁書」になったのは、やはりこの作品が「魔力」を持っているからだと思えてならない。
物語のラストをここで書くのは控えるが、ブルガーコフが『巨匠とマルガリータ』という作品で描いたのは、現実からの超克を可能にする想像力だったのだと思う。この作品のような想像力は、ソ連で当局が恐れていたものだったのだろう。
マルガリータと巨匠の愛の物語は読んでいて現実を忘れさせてくれる。『巨匠とマルガリータ』という小説は美しくもあり、荘厳でもあり、そしてコミックのように楽しめるところもある。まさに20世紀を代表する文学者が書いた畢生の大作と呼ぶにふさわしい、そんな小説なのである。
おわりに
ここまで『巨匠とマルガリータ』という本について紹介してきたが、この本は日本でも多くの方に読んでほしい小説である。
海外のミュージシャンなどもこの小説はよく読んでいて、デヴィッド・ボウイが『巨匠とマルガリータ』を「人生を変えた100冊」に挙げているのは有名である。アメリカの伝説的な女性ロックシンガーであるパティ・スミスのアルバム「Banga」(バンガ)はこの小説に出て来るピラトゥスの飼い犬にちなんでいるし、イギリスのロックバンドであるフランツ・フェルディナンドもこの作品から着想を得て「Love and destroy」という曲を書いている。
岩波文庫で上下巻と、文庫で入手することができるので、興味を持った方はぜひ読んでみてほしい。
個人的にはこの岩波文庫の装丁もとても好きで、上下巻のカバー図版は「ブルガーコフが住んでいたモスクワ・サドーワヤ大通り10番地のアパート、50号室に到る壁面にあった、『巨匠とマルガリータ』のファンの落書き」だという。当然、上巻を飾るのはネコの落書き。
海外文学の良いところは、他国の歴史や文化を感じることができるところだ。日本の文学も好きだけれど、それぞれ違った良さがある。海外文学を読んでいるうちに、主要な海外文学を死ぬまでに読んでみたいという気持ちになってきてきた。だが、「海外文[…]
2021年に生誕200年を迎えたドストエフスキーの作品は「現代の予言書」と言われる。誰が言い始めたのか厳密にはわからないが、たとえば新潮文庫版『カラマーゾフの兄弟』に寄せられた原卓也の解説には「この作品は今日でもなお、人類の未来に対する予言[…]
ガブリエル・ガルシア・マルケス「百年の孤独」という作品がある。同名の酒の元ネタである(多分)。この作品は、「20世紀の傑作」ランキングなどでたいてい上位にランクインする作品(特にこのランキングでは第一位にランキングしている)であり、[…]