いま私たちは、SNSのアルゴリズムが世論を動かし、選挙がゲームと化した時代を生きている。
「民主主義は最悪の政治形態である、ただしこれまでに試みられてきた他の全ての政治形態を除いては(It has been said that democracy is the worst form of government, except all the others that have been tried.)」とはチャーチルの言葉だが、ビジュアルの戦略や過激な言動で支持を集めた候補者が当選していく結果を見ると、「民主主義は最悪の政治形態である」という感情を抱きそうにもなる。ただ、民主主義以上に良い政治形態は思いつかないのだが。
チャーチルのこの言葉は1947年のものだが、現代でも通用する名言であり続けているように、歴史に学ぶべきことは多い。たとえ科学技術が進歩しようとも、本質的に人類というものは進歩していないからである。だからこそ、古典を読むべきだと私は主張したい。
現代のポピュリストの台頭に見られるような“民主主義の暴走”を鋭く批判した古典としては、『大衆の反逆』という本がある。『大衆の反逆』では、民主主義の暴走を「超デモクラシーの勝利」と表現する。
今日私たちが立ち会っているのは、
超デモクラシーの勝利という事態である。 そこでは、大衆が法に対する情熱のないまま直接行動に訴え、
物理的圧力をもって自分たちの望みや好みをごり押ししている。……ところが、いまや大衆は、 自分たちがカフェーで話題にしたことを他に押しつけ、 それに法としての力を付与する権利があると信じているのだ。 オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(岩波文庫、佐々木孝訳)73p
『大衆の反逆』は、スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットが1929年に書き、1930年に刊行した本である。この本は、大衆が政治の主役に躍り出た20世紀初頭の混乱を鋭く分析し、その後のファシズムの台頭を予見したとして名高い。
ほぼ100年前の本だが、この本で指摘されている現象は、驚くほど現代にも当てはまるものが多い(もちろん、すべて当てはまるわけでもなく、この本には現代的な問題点もあると思うので、この記事ではその部分についても書いていきたい)。今回は、この本の紹介をしていきたいと思う。
『大衆の反逆』が書かれた時代背景
まず初めに、この本が書かれた時代背景について簡単な説明をしておきたい。
著者のホセ・オルテガ・イ・ガセット(1883-1955)は、スペインの哲学者であり、政治家やジャーナリストの家庭に生まれた哲学者であり知識人だった。
『大衆の反逆』は1930年にスペイン語で出版されたが、この時期のヨーロッパは第一次世界大戦の傷跡が癒えぬまま、不穏な空気が流れている時代だった。
1922年にはイタリアでファシスト党のムッソリーニが首相に就任する。スペインでも、ムッソリーニのファシスト党をモデルにした「愛国同盟」という政党をプリモ・デ・リベラがつくっていた(リベラは1930年に失脚する)。
1929年には世界恐慌が起き、各国でファシズムがますます台頭していく。第一次世界大戦に敗れ、多額の賠償金を背負っていたドイツではナチスが勢力を伸ばし、世界恐慌も追い風に1933年にはヒトラー内閣が成立することになる。
なおスペインではプリモ・デ・リベラの失脚後に第二共和政の時代となるが、1936年にフランコ将軍が反乱を起こし、スペイン内戦が起きる。ちなみにオルテガはスペイン内戦が勃発するとアルゼンチンに亡命したが、1942年にヨーロッパに戻った。
いま『大衆の反逆』を読むべき理由
オルテガが凄いのは、『大衆の反逆』は、書かれた当時は、その時の社会情勢を記したというよりは、将来を予見する本だったということである。
本書の中で予告されていることの大部分は、ほどなく現在のものとなり、そして今(1937年)ではすでに過去のものとなってしまった。
オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(岩波文庫、佐々木孝訳)9p
そうオルテガはフランス語版へのまえがきで書いているが、私にはこの本が「すでに過去のものとなってしまった」とは思えない。あるいは、時代が巡り巡ったことによって、『大衆の反逆』が現代性を取り戻してしまったのかもしれないが。
「大衆」とは何なのか
いよいよ本題に入っていこうと思うが、オルテガは「大衆」をどのように定義しているのか。
オルテガは本書で、明確に定義をしているわけではないが、たとえば次のような文章がある。
良きにつけ悪しきにつけ、大衆とはおのれ自身を特別な理由によって評価せず、「みんなと同じ」であると感じても、そのことに苦しまず、他の人たちと自分は同じなのだと、むしろ満足している人たちのことを言う。
オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(岩波文庫、佐々木孝訳)69p
「みんなと同じ」で何が悪いんだ、というツッコミもあろうが、ここでオルテガが言いたいのは、
・自分に対して要求水準が高く、自分に満足せず、不断の努力をする人
は「大衆」には当てはまらない。ということだという。
一方で「大衆」とは、自分の現状に満足してしまう。そして自分の置かれた境遇が恵まれていることを忘れ、自己主張が膨張していく。
現代の大衆化した人間の心理分析表に最初の二つの特徴を書きとめることとなる。すなわち彼らの生的欲求の、つまり自分自身の無制限な膨張と、彼らの存在の安楽さを可能にしてきたすべてのものに対する徹底的な忘恩と、この二つである。これらは二つとも、甘やかされた子供の心理として知られている特徴だ。
オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(岩波文庫、佐々木孝訳)130p
オルテガはこのような大衆を「甘やかされた子供」と表現している。
大衆の社会への「忘恩」
オルテガの「大衆」の定義はなかなかに辛辣である。
「膨張」と「忘恩」について、もう少し詳しく解説すると、オルテガは次のように書いている。
19世紀が生のいくつかの領域に与えた組織化は完璧そのものであったので、恩恵を受けた大来の方では、組織を組織と認識せず、それを自然とみなしている。そう考えれば、この大衆が露呈する愚かな精神状態の説明がつき、また定義できるのである。つまり彼らは自分たちの安楽のことしか気にせず、それでいてその安楽の原因については連帯責任を持たないのだ。彼らは文明のもたらす種々の便益が、実は大変な努力と細心の注意によって辛うじて維持される素晴らしい創意工夫と構築であることを見ようとはしない。
オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(岩波文庫、佐々木孝訳)132p
たとえば、現代日本に住む私たちは、ある程度の都市部であれば、夜も舗装された道を明りに照らされながら歩くことができる。
これは「文明のもたらす数々の便益」の一つであるといえるだろうが、実際のところ私たちは、夜道をなんの苦もなく歩くことができることを「自然とみなしている」ふしは大いにあるだろう。
私も給与明細を見るたびに税金の多さに不平不満を言いたくはなるが、しかしこういった「実は大変な努力と細心の注意によって辛うじて維持される素晴らしい創意工夫と構築」によって文明生活を送ることができているのであり、いうまでもなくこれらの便益は税金によって成り立っている。
一人一人が社会を支えているという意識が「大衆」にはないのではないかーーこれは現代社会の「大衆」を分析する上でも重要な視角
ではないかと思う。
「超デモクラシー」の時代
それでいて大衆は、自分の要求は通そうとする。
冒頭でも引用した箇所だが、オルテガが「超デモクラシー」について語った箇所の全体を引用すると、以下のようになっている。
今日私たちが立ち会っているのは、超デモクラシーの勝利という事態である。
そこでは、大衆が法に対する情熱のないまま直接行動に訴え、物理的圧力をもって自分たちの望みや好みをごり押ししている。これらの新しい状況を、あたかも大衆が政治にうんざりして、専門家にその実践をまかせ切ってしまったのだと考えるのは間違いである。事実はまったくその反対だ。確かに、昔は専門家に任せ、自由主義的デモクラシーはそのようなものとしてあったかも知れない。大衆はつまるところ、政治家という少数者が、たとえ久点や傷はあろうとも、自分たちよりいくぶんかは政治問題を理解していると考えていた。ところが、いまや大衆は、自分たちがカフェーで話題にしたことを他に押しつけ、それに法としての力を付与する権利があるとじているのだ。私には、多勢の者が直接支配するようになった今のような時代が、歴史の上で他にもあったとは思えない。だからこそ私は、超デモクラシーだと言っているのだ。オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(岩波文庫、佐々木孝訳)73p
政治を専門家に任せるだけでよいとは言えないだろうが、かといって、大衆が「法に対する情熱」なしに「自分たちの望みや好みをごり押ししている」のは問題であるというオルテガの意見には賛同できる。
人権意識が希薄なポピュリストの台頭も、「法に対する情熱」の欠如の結果といえるのではないかと思う。
大衆と排外主義
現代のポピュリストは大抵の場合、排外主義がつきものであるが、オルテガは排外主義にも言及している。
まさか敵と共生するとは!反対勢力と共に統治するだとは!そのような優しさはすでに理解不可能なものになりつつあるのではないか。反対勢力が存在するような国が次第に極わずかな数になってきたという事実以上に、現代の相貌を露わにしているものはないだろう。ほとんどすべての国々において同質の大衆が社会的権力の上に重くのしかかり、すべての反対集団を踏みにじり、無きものにしている。大衆はその密度とおびただしい数を見れば誰の目にも明らかだが、自分と違う者との共存は願っていない。自分でないものを死ぬほど憎んでいるのだ。
オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(岩波文庫、佐々木孝訳)156p
大衆は「みんなと同じ」人たちであった。そういった人たちは、「自分でないものを死ぬほど憎んでいる」のだ。
自分たちと違う人たちと共生するということを、大衆は願わない。その対極こそが「自由主義」である。
だがオルテガは言う。「(自由主義は)あまりにも難しく込み入った試みなので、地上に根を下ろすことは無理なのだ」
悲しいことだが、他者を考慮する自由主義よりも、異質なものを排除する方が、支持を得やすい。その結果「大衆の反逆」が起きるのである。
ここまで『大衆の反逆』の文章の紹介もしてきたが、多くの方が、この本が現代においても全く色褪せてないと感じられたのではないだろうか。
『大衆の反逆』の問題点
一方でこの本には問題点もないわけではない。私が『大衆の反逆』を読んで感じた違和感としては、以下のようなものが挙げられる。
まず初めに、『大衆の反逆』は、結局のところヨーロッパの知的エリートが書いた本であるということである。
オルテガはヨーロッパで「大衆」が生まれた理由として、ヨーロッパの没落を理由の一つに挙げている。要するに、植民地がだんだんと独立していき、従来の支配体系が成り立たなくなっているからだと述べている。
ところで大衆民族は、ヨーロッパ文明というあの規範体系を期限切れのものとすることに決めたようだが、しかし自身では別のものを作れないので、どうしていいか分からず、それで時間つぶしに夢中でただ飛び跳ねているのだ。
以上が、世界の中で誰も支配者がいなくなったときに起こった最初の結果である。オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(岩波文庫、佐々木孝訳)237p
また、この記事を読んでいただいた方には、私がかなり上から目線の傲慢な人間に思えたかもしれない。言い訳がましいかもしれないが、その理由は、そもそも本書におけるオルテガの「大衆」への目線が、かなり上から目線であるといえるからだと思う。岩波文庫版の解説では宇野重規が本書を「新鮮な自己批判の書」と書いているように、たしかに多分に自己批判は含まれているのだが、。
さらに書いておきたいのは、『大衆の反逆』を現代の諸問題への解決法を提示した本と期待して読むと、期待外れに終わるという点である。『大衆の反逆』は、本来は予言の書であり、現在の状況への解決策を提示できていないのは仕方のないことだと思うが、「ではどうすればいいのか?」という部分についてはあまり書かれていない。
一方で、それでも『大衆の反逆』という本は非常に示唆に富んだ現代でも読む価値のある本である。またオルテガが警鐘を鳴らしたポピュリストの台頭が、最終的にどのような歴史的な帰結を辿ったのかを私たちは知っている。そういった歴史も振り返りながら『大衆の反逆』を読む
おわりに
やはり『大衆の反逆』が現代においても重要な意義を持つのは、オルテガの分析が現代社会の諸問題をも予見していたからである。SNSに支配された民主主義、ポピュリズムの台頭、専門知識への不信、同調圧力と排外主義──これらはすべて、オルテガが約100年前に警告し剔抉した「大衆の反逆」の一例ともいえるものだろう。
私たちはどんな時代を生きているのか。オルテガが『大衆の反逆』を書いてから、1930年代の世界はどうなったのか。歴史に学びながら、よい社会を願いたいと思う。
▼本記事は岩波文庫版に基づいた
▼岩波文庫版が2020年に出る前は、ちくま学芸文庫版が一般的だった