手塚治虫の作品の中でも、最も悪名高い(?)問題作の一つは、『奇子』(あやこ)だろう。
悪名高い、問題作という言葉について誤解のないように書いておくと、この作品は、手塚治虫作品の中で劣っているなどということではない。最高傑作とは言えないとしても、手塚治虫が描いた成人向け漫画の中で屈指の名作の部類であるのは間違いない。
ここで私が言いたいのは、『奇子』という作品は、読者が生理的な嫌悪感を催すような不道徳や、人間の業の深さを描いた作品であるということである。
そういう意味で、このマンガは悪名高い作品なのだ。でも、その分読んでいてゾクゾクする作品でもあるし、私はこの作品は手塚治虫が漫画という形で世界文学に肩を並べようとした作品に思えるのである。
『奇子』登場人物・あらすじ
はじめに『奇子』という作品について、ネタバレになって読む楽しみが損なわれない程度に簡潔に触れていきたい。
ただ、筋立てだけを書いても分かりにくいので、まずは主人公たちが属する東北地方の大地主「天外家」の家族を紹介してから作品の概要に入りたい。
『奇子』登場人物
この話は天外家以外の登場人物も(特に序盤に関しては)いるのだが、天外家の人々だけ紹介する。
天外家の人々
父:天外作右衛門
……大地主を率いる傲慢な家長。長男に家督を譲ることを条件に、その妻・すえを犯す。
母:天外ゐば
……夫と同じくらい古風な妻。夫に服従しているように見えるが……?長男:天外市朗
……天外家の跡継ぎだが、作右衛門のような統率力がない。「娘」の奇子には複雑な感情を抱く。
市朗の妻:すえ
……若くして市朗に嫁いだ若く美しい妻。夫により義父・作右衛門に差し出され、奇子を産む。
すえの娘:奇子(あやこ)
……主人公。上述のように数奇な出生を持つ女児。のちに、出生の秘密よりも数奇な運命を送る。次男:天外仁朗
……本作前半の主人公。隻眼の坊主頭の壮年男性。軍人として出征中、フィリピンで捕虜となっているあいだに仲間を裏切ってGHQのスパイとなる。長女:天外志子(なおこ)
……天外家の人物の中で一番まとも。三男:天外伺朗(しろう)
……天外家の男性の中で一番まともだったが、自らを呪われた一族の一員だと自覚し……。下女:お涼
……知的障害を持つ女性。彼女にも秘密が……。
『奇子』あらすじ
『奇子』のあらすじは、上の登場人物紹介だけでもなんとなくイメージがつくのではないかと思う。
物語冒頭の主人公は天外仁朗で、彼がGHQのスパイとして活動する話が進む。だが、仁朗がスパイ活動をする過程で、ある秘密を幼い奇子が知ることになってしまう。
そして奇子は、蔵に閉じ込められたまま美しく成長していくのである……。
『奇子』の世界文学性
『奇子』は以上のような作品である。問題のある人間ばかりの一族の中で、一族のために幽閉され姦され続けてきた奇子の物語は、この記事で最初に述べたように人間の業の深さを描き出している。
私はこの作品は、世界文学の名作と同じような魅力を持っていると思う。
ノーベル文学賞作品との類似
手塚治虫はこの作品について、
最初はドストエフスキイの「カラマゾフの兄弟」のような、一家系のさまざまな人間関係を戦後史の中でかきたかったのです。
(手塚治虫オフィシャルHPより)
と述べたという。確かに『奇子』の、好色で強欲な父と三兄弟という構図は、まさにカラマーゾフの兄弟と一致する。
しかし、私はどちらかというと、『奇子』にはアメリカ南部を描いたノーベル文学賞作家・フォークナーの作品に共通したものがあると思う。
このブログでも過去に紹介したことがあるが、フォークナーの作品に『響きと怒り』というものがある。
読んでいて、あまりに理解が追い付かなくて笑ってしまった小説がある。 「こんなのわからねーよ!」と、読んでいながらツッコんでしまうのである。 その作品こそ、ノーベル文学賞作家ウィリアム・フォークナーの代表作『響きと怒り』である。だが、もち[…]
『響きと怒り』は南北戦争後のアメリカ南部を描いた作品で、知的障害を持った登場人物、近親相姦、そして何より南部という「敗戦国」の、戦争によって奴隷を失った名家を描いたという点で共通している。
日本に黒人奴隷はいなかったが、東北では事実上の人身売買が行われていたし、小作農たちは奴隷的な扱いをされていたといってよい。その小作農たちが、GHQの農地改革によって解放されたのである。一方、地主たちは広大な土地を失った。
ちなみに、『カラマーゾフの兄弟』も農奴解放後のロシア社会を描いているので、「奴隷を失った」という点では共通する。
私は、相当『奇子』と『響きと怒り』は後半で奇子が主人公になって以降のモチーフという点でも共通するところがあると思うのだが、その辺の分析は手塚治虫研究者に任せたい。
このように『奇子』は、世界文学の名作と似ているところがあると思うのである。
ここで私が言いたいのは、敗戦直後の日本という、文学として描くに値する主題に対して、手塚治虫はノーベル文学賞作家やドストエフスキーのような文豪が挑戦してきたのと同じような形で挑んだということである。そして、ある意味ではそういった激動の時代で家を守らないといけないというような極限状態で現れる人間の業の深さと(逆説的ではあるが)力強さ、また運命に翻弄される人物の悲劇とその運命に立ち向かうたくましさを、描き切ったのである。
それぞれ業の深さを抱える複雑な一族を描き切ったこの作品は(全3巻と短いので、序盤の主人公である仁朗の掘り下げなどが少し物足りない部分こそあるが)、手塚治虫作品の中でも間違いなく良作と言えるだろう。「呪われた血族」のドロドロしきった人間関係を巧みに描写している。
マンガで描くということ
私は『奇子』は、その主題やモチーフは文学作品としても興味深いと思うのだが、この作品はマンガなのでマンガとしての魅力も紹介したい。
奇子は幼女として登場するが、作中の時間経過とともに、蔵の中で美しい身体に成長していく。奇子の身体は、手塚治虫がエロティックに描いている。だが、物語の背景が背景ということもあり、なぜかエロティックというかグロテスクに感じるのである。正直、なぜだか相当奇子の姿には嫌悪感を感じるなのだ。
私はこのブログで何度か「近親相姦」という言葉を使用している通り、嫌悪感の背景にはそうした理由もある。
『奇子』という作品は、人によっては無上のエロさを感じるかもしれないが、私にとっては「エロシーンが、絵としてはグロテスクに描いているわけではないのにとてつもなくグロテスク」という、ある意味では相反する気持ちを読むものに起こさせるマンガだと思う。そういったことは作家によっては小説でも可能なのかもしれないが、「絵」と「ストーリー」の力によって、絵そのものから受ける印象とは全く違ったい意味合いを絵に付与することができるという、マンガという芸術の強みを最大限に生かしたところなのではないかと思う。
おわりに
そのようなわけで、『奇子』という作品は万人に薦められるわけではないのだが、ぜひ興味を持った方は読んでみてほしい。
『奇子』は手塚プロダクション版だと全3巻で、奇子の成長は表紙を見ればわかる通り。