読んでいて、あまりに理解が追い付かなくて笑ってしまった小説がある。
「こんなのわからねーよ!」と、読んでいながらツッコんでしまうのである。
その作品こそ、ノーベル文学賞作家ウィリアム・フォークナーの代表作『響きと怒り』である。だが、もちろん本当に「意味不明」な作品ではない。最初に「意味不明」だと思っていた話も、読み進めていくうちに全容がわかってくる。それこそ読書の醍醐味である。
あえて「難解な小説」を読みたいと思っている方がいれば、ぜひ、この『響きと怒り』という文学界に大きな衝撃を与えた作品にチャレンジしてみることを薦めたい。
『響きと怒り』概要・あらすじ
『響きと怒り』という作品の概要とあらすじについて解説していきたい。
物語の舞台はアメリカ南部であり、コンプソン家という一家が描かれている。
このコンプソン家について、軽く紹介しよう。
『響きと怒り』登場人物
主要なコンプソン家の人々を紹介すると、次のようになる。
父:ジェイソン(3世)
1912年に死去。
母:キャロライン
病気がち。
長男:クエンティン
ハーバード大学に入学するが、鬱で1910年に自殺。
長女:キャディ(キャンダス)
18歳にして処女を喪失、妊娠してしまう。1910年に19歳で結婚するがすぐに離婚。
次男:ジェイソン(4世)
クエンティン死後、一家を支える。
三男:ベンジー(ベンジャミン)
知的障害を持つ。
孫:クエンティン(キャディの娘)
キャディの生んだ娘。彼女が生まれる前に自殺した、母の兄の名前を付けられる。
ジェイソンに虐げられながらコンプソン家で暮らす。
召使:ディルシー、ラスター、ティーピー
物語の構成
物語は、4章構成をとる。
この4章は、それぞれ語り手も時期も異なり、物語をややこしくしている。
第1章「1928年4月7日」
この章の語り手は、ベンジーである。
上で紹介したように、ベンジーは知的障碍を持っている。
周囲の人から見ると、ベンジーはわめいているようにしか見えない。しかし、ベンジーの内面には意識の流れがある。フォークナーは、ベンジーの意識に注目してこの章を書いた。
ベンジーの語りの特徴は、回想の場面が目まぐるしく変わることである。
現在について語っていたかと思いきや、ふとした拍子に過去の出来事――例えば、おばあちゃんの葬式――を連想し、その場面の回想が始まる。
私が読んだ岩波文庫版には、「場面転換表」というのが巻末についているのだが、初見ではこれを見ないと何を語っているのか全く分からないのである。
だが、何度も読むと少しずつわかってくる。
ノーベル文学賞作家フォークナーによる、斬新な語りの手法を体感してみたいという方には、第1部が一番興味深く読めるだろう。
第2章「1910年6月2日」
しかし、内容面については、一番興味深いのは第2章である。
この章の語り手は、長男クエンティンである。
時間は第1章の18年前に巻き戻る。
クエンティンは、ハーバード大学の学生である。
では、理路整然とした回想を行うのか? と言われたら、全く異なる。
クエンティンは重度の抑うつ状態にあり、この回想の後すぐに自殺してしまう。
そのような精神状態のクエンティンによる回想なので、この章の語りも非常に難解である。
もちろんベンジーの語りよりはわかりやすいが、第2章は内容面での考察も深まる部分であるゆえに、非常に難しい。内容面で一番興味深いのは、この第2章なのではないかと思う。
クエンティンの頭の中を回り続けているのは、妹のキャディのことである。
キャディは、性的な放縦に陥り、妊娠してしまう。
キャディを愛するクエンティンは、そのことに悩む。
――そして、クエンティンはキャディの罪を背負うために、父に「自分は近親相姦をした」という告白をする。
そして回想と現実が入り乱れながら、この章は語られる。
第3章「1928年4月6日」
この章の語り手はジェイソンである。
第3章、第4章は「語り」という点では特に変わった点はない。
時間は第1章と同じ1928年になり、長男クエンティンはすでにこの世になく、キャディの残した娘クエンティンがコンプソン家で暮らしている(キャディ自身はコンプソン家から追い出されている)。
そんなクエンティンのこと(さらにはキャディや、ハーヴァードに行かせてもらいながら自殺した兄クエンティン)をよく思わないジェイソンによる語りが繰り広げられる。
第4章「1928年4月8日」
この章の語り手は、召使のディルシーである。
話の内容は、第1章と第3章(特に第3章)と連続的であり、一番最後に起こったことが記されている。
虐げられていたクエンティンはどうしたのか――ということが語られる章である。
『響きと怒り』の中毒性
物語の構成と軽いあらすじは以上の通りである。
上に紹介しただけでは話の筋が見えてこないと思うが、お許しいただきたい。
この作品は、最初に読み進めていても本当にわけがわからないのである。
しかし、読後に「やっぱり意味不明だったな」となるのかと言うと、そうではない。
バラバラだった時間軸が、最後にはなんとなくわかるようになるのである。
そこに、作品を読み終わった時の恍惚感がある。
叙述の面白さ
『響きと怒り』は、物語のテーマとしては「兄妹の絆」「家族の在り方」のようなものになるのだろうが(もちろん、それに加えて「アメリカ南部社会」というものがテーマになるが)、作品のテーマ以上に叙述法というものが面白い小説である。
「小説にしかできない表現」というものはたくさんあるが、間違いなくフォークナーは『響きと怒り』で、小説に新たな地平を拓いた。
決して、分かりやすくはない。
この作品が万人受けするとは絶対に思わない。しかし、やっぱり、面白い人にはものすごく面白い小説なのではないかと思うのである。
森見登美彦とフォークナー
ところで森見登美彦は、フォークナーを大学時代に読んだが、わからなかったと言っている。
フォークナーなども読みましたが、ほとんど意味が分かりませんでした。特に『アブサロム、アブサロム!』はまったく訳が分からず、無理矢理最後まで読みました。それでも「凄い」という感じだけはした。
(作家の読書道)
(ちなみに付言すると『アブサロム、アブサロム!』は森見登美彦の大学時代以降に岩波文庫で新訳が出たので、今では「特にまったく訳が分から」ない作品ではないと思う。)
しかし、森見登美彦は結局『アブサロム、アブサロム!』を、「森見登美彦をつくった100冊」に選んでいる。
読んでいる時には意味が分からないかもしれない。
しかし、読んだら一生忘れることができないのが、フォークナーの作品なのではないかと思うのである。小説や文学というものに興味がある人には、是非読んでもらいたい作品である。
フォークナーの中毒性
ちなみに、ここで述べた『アブサロム、アブサロム!』という作品は当然フォークナーの代表作だが、この作品にはハーヴァードに通うクエンティン・コンプソンが登場する。
フォークナーは生涯、アメリカ南部の「ヨクナパトーファ郡」という架空の地域を描いたのだが、それゆえにフォークナー作品の間には連環がある。
だから、フォークナーの作品に一度ハマってしまうと、脱け出せなくなるのである。
おわりに
作品の話自体の考察をあまりしなかったが、それほどフォークナーの『響きと怒り』は、叙述の方法に唯一無二の特徴がある、とんでもない小説なのである。
この作品を読む多くの人がそうであるように、私もこの小説の形式の斬新さに衝撃をうけざるを得なかった。
このような語り口だからこそ、小説の内容も意味を持ってくる。
アメリカ南部に住む破滅に向かう家族の分裂の物語を描くのに、ここまで相応しい手法は取りえただろうか? と、思えてくる。
分裂的な語りの手法は、家族の分裂というテーマをさらに引き立てている。
一度読んだら絶対に忘れられない、不思議な中毒性を持った小説である。
なお、『響きと怒り』の翻訳は岩波文庫と講談社文芸文庫から出ているが、岩波文庫版の方が新しく、附録や注釈が丁寧な印象を受けたので、こちらをお薦めしたい。
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