トルーマン・カポーティの『冷血』を読んだらめちゃくちゃ面白かったので、カポーティの代表作『ティファニーで朝食を』を読み返してみた。
(『冷血』についてはこちらの記事で書いた)
『ティファニーで朝食を』は、映画だとどのような評価になるのかはわからないが、原作は個人的には読んでいてめちゃくちゃ虚しくなる小説である。
あまりこのように読む人は見かけない気がするが、今回は『ティファニーで朝食を』について、その虚しさを中心に紹介していきたい。
『ティファニーで朝食を』あらすじ
ほんとうに軽くだが、『ティファニーで朝食を』のあらすじを紹介しよう。
主人公は、旧知のジョー・ベルから、「アフリカにホリー・ゴライトリーがいるらしい」という情報を得る(最初にこの情報をもたらすのが、日本人あるいは日系アメリカ人のユニオシである)。
そして、ホリーとの思い出を思い出す。
1943年の秋、主人公は、とあるアパートに越してくる。
そこで、階下の住人であるホリー・ゴライトリーと知り合う。
ホリーは人目を引く美人だが、奔放で、毎日のように朝帰りをする。
そして「鍵を失くした」と言って、主人公の部屋のベルを鳴らすのである。そんなことが続くうちに、主人公はホリーとだんだん親密になり、ホリーのことをよく知るようになる。
ホリーは裕福な男性に囲まれて、彼らからの貢ぎ物で生活をしている。
また、刑務所にいるマフィアに面会して報酬をもらうなど、怪しい仕事もしている。
主人公は、そんなホリーに惹かれていく……
『ティファニーで朝食を』の虚しさ
さて、このようなあらすじの『ティファニーで朝食を』であるが、(冒頭の回想シーンからも明らかだが)ネタバレをすると主人公とホリーは結ばれない。
(これを結ばれるように改変したのが映画版である)
この「結ばれない」というのが一つそうであるように、『ティファニーで朝食を』のテーマは「虚しさ」ではないかと思うのだ。
上で紹介しなかったあらすじも含めて、『ティファニーで朝食を』の虚しさについて書いていきたい。
主人公とフレッド
『ティファニーで朝食を』の主人公(語り手)の名前は作中明かされることはないのだが、ホリーは主人公の事を「フレッド」と呼ぶ。
フレッドというのは、ホリーが唯一心の底から愛したかもしれない人間である、弟の名前である。
この時点で主人公とホリーは脈なしである。
弟に対してと同じような感情を抱いている相手に、恋愛感情を抱くだろうか? 答えは否である。
だから虚しい。
絶対に手に入らないヒロイン
要は、主人公はホリーに男としてはまるで相手にされていないのである。
「なんだ、主人公が惨めなだけじゃないか」と思われるかもしれないが、私はホリーも可哀想だと思う。
主人公のようにホリーに近くにいてほし人がいることを、ホリー自身はあまり気づいていない。
あたしがいなくなったって、だれもなんとも思やしないわよ。
などと言ってしまうのである。
ホリーは、自己肯定感が高いとともに、ある面では自己肯定感が低い人間なのではないかと思う。
ホリーを本当に(その美貌ゆえではなく、内面を含めて)必要としている人がいるのにもかかわらず、そのことを信じることができないのである。
ホリーは自由奔放と言えば聞こえはいいが、安定した人間関係を構築する能力に欠けている。
これは、友人というものを持つことができなかった幼少期が関係しているのかもしれない。
そして、主人公自身も、ホリーのその弱さを救うことができないという虚しさがある。
ホリーの過去
ホリーは、実はとても暗い過去を持つ女性である。
ホリーはもともとルラミー・バーンズという名で生まれたが、両親を亡くし、14歳の時に獣医のゴライトリーの妻となったのである。
ホリー(ルラミー)が、弟のフレッドと共に飢えて死にそうになった時にゴライトリーの家に盗みに入り、そこで2人は捕まったのである。
しかし、ホリーは成長してゴライトリーの家から抜け出す。
野生の動物なんかかわいがっちゃだめよ
だが、ホリーはフレッドのことを片時も忘れたことがなかった。
フレッドの戦死
しかし、弟フレッドは戦死する。
主人公がホリーと会うのは、第二次世界大戦のまっさなかである。フレッドも徴兵され、作中で戦死が明らかになる。
ホリーは、フレッドの死に悲嘆し、暴れ、そして大人しくなる。
そして、主人公のことをフレッドと呼ばなくなる。
そんな暗さが『ティファニーで朝食を』にはある。
フレッドの喪失をホリーは埋め合わせようとするが、そうすることはできていない。
――そして、ホリーは南米へと旅立つ。
ホリー・ゴライトリーの「わからなさ」
ホリー・ゴライトリ―というのは、「旅行中」と名刺の住所に書くように、奔放な女性・天真爛漫な女性の象徴とみなされることも多い。
しかし、私はその奔放さはホリーの弱さゆえなのではないかと思えてならない。
「自分自身を失いたくない」という生き方は強そうに見えるが、不安と弱さの裏返しのようにも見えてくる。
ともかくホリーにもどこか安住の地があってほしいもんだ
そういって物語は終わるが、これはホリーの弱さをわかったうえでの主人公の台詞だろう。
ホリー・ゴライトリーは、ほんとうは誰かを必要としているのに、ほんとうに必要な人を拒んでしまうような人に思えるのである。
その矛盾は、ホリー・ゴライトリーという女性を「わからない」「理解できない」ものにしているのではないかと思う。
そして、その矛盾を解消できない主人公の無力感も作品には漂う。
おわりに
「ある女性のために力になりたかったのに、なれなかった」
――そんな虚しさが残るのが、『ティファニーで朝食を』という作品だと思う。
だが、決して手に入らないからこそホリー・ゴライトリーなのである。
私は正直に言うとホリー・ゴライトリーという女性像にあこがれは感じないけれども、彼女の感じた実存への不安や暗い過去に起因する対人関係の不安定さには、少なからず共感できるところがある。
――そして、主人公のある意味の失恋譚にも共感できる部分は多い。
『ティファニーで朝食を』を甘美なメロドラマかと思って食わず嫌いしている人がいたら、ぜひ読んでみてほしい。もし『ティファニーで朝食を』にラブストーリーを期待して、期待外れに終わってつまらないと思ったならば、全く別の視点から読んでみてほしい。
▲私は旧版の龍口直太郎訳で読んだが、少し訳に古さを感じた。現在出ている村上春樹訳がおすすめ。
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カポーティの『冷血』は、ノンフィクション・ノベルというジャンルを創出したと評される作品。実際の殺人事件を綿密に取材して作り上げた大作。
『ティファニーで朝食を』が気に入った人も気に入らなかった人も、ノンフィクションに興味があるなら読んでみてほしい。
映画と原作で全然違う話と言えば、バーナード・ショーの 『ピグマリオン』と、それをもとに映画化された『マイ・フェア・レディ』が挙げられる(こちらもオードリー・ヘプバーン主演)。
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