カート・ヴォネガット『猫のゆりかご』あらすじ・感想ー描く世界に「真実はいっさいない」のか?

NO IMAGE

カート・ヴォネガット「猫のゆりかご」について感想を記す。

この「猫のゆりかご」を一読した当初は、正直なところあまりよくわからなかったと記憶している。だが、先日「タイタンの妖女」の感想を記したのをきっかけに再読し、この作品についてもだんだん理解が及んできたような気がしてきたので、ここに記事を書くことにする。

猫のゆりかご (ハヤカワ文庫 SF 353)

「猫のゆりかご」あらすじ

物語は、主人公であるジョンの語りから始まる。彼は、ジャーナリストとして『世界が終末を迎えた日』と呼ばれる本を書こうとしていた。ー「世界が終末を迎えた日」というのは、広島に原子爆弾が落とされた日のことを指していた。

すなわち、1945年8月6日の世界はどのようであったのか? というのを彼は調査していたのである。だが、彼の試みは、何かしらのアクシデントによって、未完に終わったことが示唆される。

ここから物語は回想に入る。

 

主人公は、原子爆弾を開発したフェリックス・ハニカー(故人)が原爆投下の日、何をしていたのかを遺族に聞き取りに回る。

ハニカーは、実は「アイス・ナイン」という世紀の発明を死の直前に創り出していた。

この「アイス・ナイン」というのは、氷とは違う新しい形の「水」の固形体であり、それに触れた水は「アイス・ナイン」になってしまうという性質を持っていた。

 

フェリックス・ハニカーの子供たちはそれゆえ事件に巻き込まれ、主人公ジョンも騒動に飲み込まれる。

主人公たちは、第二子フランク・ハニカーの結婚式が行われるサン・ロレンツォ共和国に向かう。

「猫のゆりかご」主要登場人物

ジョン…主人公。通称でヨナと呼ばれている。ハニカー家について聞いて回るうちに、事件に巻き込まれることに。

ハニカー家

フェリックスの子供たちが、その血筋(=アイス・ナインの所持)ゆえに事件に巻き込まれる、というポイントを予測しておくとストーリーがわかりやすい。

フェリックス・ハニカー…原子爆弾製造に貢献した科学者だが、人間に興味を示さない。死の間際にアイス・ナインを残し、三人の子供たちはそれぞれアイス・ナインを持つことになる。

アンジェラ・ハニカー…長女。夭逝した母の代わりに、二人の弟の母親代わりとなる。女性的魅力に乏しい大女が、ハンサムな男性と結婚することに…?

フランク・ハニカー…三人きょうだいの真ん中。サン・ロレンツォで地位を得る。

ニュート・ハニカー…三人きょうだいの末っ子。非常に身長が低い(小人症?)が、同じく身長が低い女性と恋に落ちるが…?

サン・ロレンツォ関連人物

“パパ”モンツァーノ…島の独裁者。養女モナがいる。

ジュリアン・キャッスル…サン・ロレンツォに慈善病院を開く。

エドワード・マッケイブ…ボコノンと共にサン・ロレンツォに流れ着く。

 

 

ボコノン教

ボコノン…ボコノン教の教祖。マッケイブと共にサン・ロレンツォを改革し住民の生活水準を上げようとするが…

「ボコノン教」についての用語は、あまり真面目に覚えなくても物語は楽しめると思います(笑)。

「猫のゆりかご」のテーマ

この物語は、大きく言えば二つの風刺的要素・テーマが存在しているのではないかと思う。テーマを理解する上では、この作品が書かれたのは1960年代の冷戦下であることを意識するとわかりやすい。

科学者フェリックス・ハニカーという人物

この物語の最重要人物は、間違いなくフェリックス・ハニカーである。

彼は、人間に対して全く興味を示さない科学者の典型とされている。

 

彼は、自分が作った原爆が広島に落とされた日。自分のかかわった兵器が多くの人々を殺めた日にも、何も気にしない。

ちょうどその日彼が関心を払っていたものは「猫のゆりかご」(Cat’s Cradle、日本でいう「あやとり」)なのだ。原爆と、ちっぽけな「猫のゆりかご」の対比が、この本の一つのテーマである。

 

さらに、フェリックス・ハニカーに残されている次のような逸話は、彼の性格を端的に表す。

「たとえば、最初の原爆実験がアラゴモードで行われた日の話をご存知ですか? 実験が済んで、アメリカがたった一個で都市を消滅させる爆弾を保有したことがはっきりすると、一人の科学者が父のほうをふりかえって言いました、”今や科学は罪を知った”父がどういう返事をしたかわかりますか? こう言ったのです、”罪とは何だ?”」(32頁)

そして、このような彼が生み出した「アイス・ナイン」が、この世界を運命づけていくのである…

「ボコノン教」とは何か

サン・ロレンツォでは、ボコノン教は「禁教」である。見つかれば残酷な磔刑に処せられる

ーということに公的にはなっている。

だが、実際には、サン・ロレンツォでは全国民がボコノン教徒なのである。

 

サン・ロレンツォは不毛の地であり、住民の生活は豊かにならない。そこで支配者側がボコノンと癒着して、宗教によって住民の生活を精神的に豊かにしようとしているのである。

マルクスが「ヘーゲル法哲学批判序説」で「宗教は阿片である」と言ったのは有名であるが、同じようなものかもしれない。

 

ボコノン教は、「アヘン」として創始されたのだ。それゆえボコノン教は本来インチキ宗教なのであるが、瓢箪から駒のようなところがあって地域全体に浸透した。

 

英米文学における宗教の叙述は、やや私のような非キリスト教徒には分りかねる部分が多い。

これは物質的貧しさを、支配者側が精神的豊かさを口実に誤魔化すという風刺なのだろうか、と個人的には思う。

「猫とゆりかご」感想

しかし、「猫とゆりかご」は、実際には荒唐無稽な小説である。

何より、最初に

本書に真実はいっさいない。

と書かれている小説なのである。

 

ちなみに、同じくカート・ヴォネガットの「タイタンの妖女」の冒頭には

本書の中の人物、場所および事件は、すべて実在する。ただし、一部の談話および思考は、やむをえず著者の解釈で構成した。(後略)

とある。全くもって対照的である。

 

「猫のゆりかご」も「タイタンの妖女」も同じSF作品なのに、最初に記されていることが正反対であることの理由を探るのは、難しい。

 

これは私の推測だが、一つには「猫のゆりかご」が、「終末論」のバッドエンドを笑い飛ばすような作品だからなのかもしれない。

「タイタンの妖女」のような狐につまされるような読後感は「猫のゆりかご」にはない。だが、滑稽な小説でありながら、じわじわと描かれた風刺の深さを感じるようになる「猫のゆりかご」は、似たように見えて全く違うタイプの傑作なのだろう。

猫のゆりかご

猫のゆりかご

 

 

▼関連記事