カート・ヴォネガット『猫のゆりかご』あらすじ・感想|描く世界に「真実はいっさいない」のか?

カート・ヴォネガット『猫のゆりかご』あらすじ・感想|描く世界に「真実はいっさいない」のか?
この記事は 6597 文字です。

カート・ヴォネガットの『猫のゆりかご』を初めて読んだとき、正直なところ、私はこの小説がよくわからなかったように思う。そもそもヴォネガットという作家自体、ジャンルが不明な作家だ。『猫のゆりかご』に並ぶヴォネガットの代表作としては『タイタンの妖女』や『スローターハウス5』があるが、これらの3作は「SF」に分類されることも多いものの、ただ「サイエンス」としての厳密さに欠けているという意見は否定できない。

しばしば言われるのは、ヴォネガットはSFと純文学の中間の作風ということである。『猫のゆりかご』という作品も、原爆や「世界を凍らせる発明」を描いたSFであり、アポカリプティック・フィクション(いわゆる終末もの)の一例といえる。一方で、後述するようにこの小説は“人類学の修士論文”として受理されたというエピソードもあり、この作品が人間とは何かを描いた純文学でもあることを表しているように思う。

では、ヴォネガットは一体『猫のゆりかご』という小説を通じて、何を描いているのか。ところで、この小説のタイトルの「猫のゆりかご」とは日本でいう「あやとり」である。なぜヴォネガットは、この小説に、子どもの遊びの名前を冠したのか。

この記事では作品の概要を紹介しつつ、最終的にはこの『猫のゆりかご』というタイトルが何を意味するのかを考えていきたい。

『猫のゆりかご』あらすじ・登場人物整理

『猫のゆりかご』あらすじ

はじめに、この作品の概要とあらすじ、そして登場人物について紹介したい。

改めて『猫のゆりかご』という作品について概要を説明すると、1963年に発表されたヴォネガットの4作目の長編である。冷戦下、核戦争による滅亡が現実味を帯びていた時代に書かれており、終末SFというテーマに影響を与えている。

物語は主人公ジョン(通称ヨナ)の語りから始まる。彼はジャーナリストとして「世界が終末を迎えた日」、すなわち広島に原子爆弾が落とされた一日を扱う本を書こうとしていた。その取材の過程で、原爆開発に貢献したという科学者フェリックス・ハニカー(故人)の遺族に話を聞いて回ることになる。

ハニカーは死の間際に「アイス・ナイン」という発明を残していた。これは常温でも溶けない新しい「水」の固体であり、触れた水を次々とアイス・ナインに変えてしまう性質を持つ。彼の3人の子供たちは、それぞれこの危険な遺産を分け合っていた。

やがてジョンは、ハニカーの息子フランクが地位を得たカリブの島国サン・ロレンツォへと向かう。そこには独裁者“パパ”モンツァーノと、禁じられた宗教「ボコノン教」が待っていた。

主要登場人物

あらすじと重なる部分もあるが、主な登場人物を整理しておきたい。フェリックスの子供たちが、その血筋ゆえに、つまりアイス・ナインを相続してしまったがゆえに騒動へ巻き込まれていく、という点を頭に入れておくと物語を追いやすい。

◇主人公とハニカー家
ジョン……本作の語り手。通称ヨナ。ハニカー家について調べ歩くうちに、自分自身も騒動に巻き込まれていく。
フェリックス・ハニカー……原爆開発に貢献した科学者だが、人間にはまるで関心がない。死の間際にアイス・ナインを遺し、三人の子供たちがそれを分け合うことになる。
アンジェラ・ハニカー……長女。夭逝した母に代わって二人の弟を育てた。器量に恵まれたとは言いがたい彼女が、ハンサムな男性と結婚することになるが……?
フランク・ハニカー……三人きょうだいの真ん中。サン・ロレンツォで高い地位を得る。
ニュート・ハニカー……末っ子。非常に背が低く、同じく背の低い女性と恋に落ちるが……?

サン・ロレンツォの人々
“パパ”モンツァーノ……物語当時のサン・ロレンツォを治める独裁者。養女にモナがいる。
ジュリアン・キャッスル……サン・ロレンツォで慈善病院を営む人物。

ボコノン教の建国者
ボコノン……ボコノン教の教祖。マッケイブとともにサン・ロレンツォの改革を試み、住民の暮らしを引き上げようとするが……。
エドワード・マッケイブ……ボコノンとともにサン・ロレンツォに流れ着いた男。本題で述べるとおり、のちにボコノンと示し合わせて暴君の役を引き受ける。

なお、ボコノン教には独特の用語が数多く登場するが、生真面目に覚えずとも物語は十分に楽しめる。

『猫のゆりかご』というタイトルが意味するもの

いきなり本題になるが、ここで『猫のゆりかご』というタイトルが意味するものについて考えながら、作品全体の考察をしていきたい。

「猫もいなければ、ゆりかごもない」

タイトルの「猫のゆりかご」は、作中のある場面と結びついている。

広島に原爆が落とされたまさにその日、フェリックス・ハニカーは何をしていたか。彼は糸を指にかけ、幼い息子ニュートと「猫のゆりかご」(=あやとり)を作って遊んでいたのだ。

人々の平穏を奪った原爆と、息子とのあやとりという日常の対比。それだけでも残酷なテーマだが、作中でニュートが後に語る言葉は、もう少し奥までこの作品のテーマに踏み込んでいる。

ニュートは、あやとりには「猫もいなければ、ゆりかごもない」と述べる。

あやとりは、ただの糸のかたちにすぎない。どれだけ複雑な形を作っても、もちろんそこに本物の猫はいないし、ゆりかごもない。だが私たちはそこに、ありもしない猫を探してじっと見入る。

何もないところに意味を見ようとする。この人間の性こそ、本書全体を貫く主題なのだと私は思う。原爆も、アイス・ナインも、そしてこれから述べるボコノン教も、すべてはこの「猫のゆりかご」という一点に結びついていく。

罪を知らない科学者、フェリックス・ハニカー

この物語の中心にいるのは、間違いなくフェリックス・ハニカーである。すでに故人でありながら、物語のすべてはこの男を起点としている。

先ほどフェリックス・ハニカーのあやとりのシーンに触れたが、これは必ずしも父の愛情を表すような和やかなシーンではない(むしろ原爆への無関心を示すシーンになる)。登場人物紹介でも書いたように、フェリックスは人間というものにまるで関心のない、純粋な科学者の典型として描かれる

フェリックスの次の逸話は、彼の人となりを端的に示している。

「たとえば、最初の原爆実験がアラモゴードで行われた日の話をご存知ですか? 実験が済んで、アメリカがたった一個で都市を消滅させる爆弾を保有したことがはっきりすると、一人の科学者が父のほうをふりかえって言いました、“今や科学は罪を知った”父がどういう返事をしたかわかりますか? こう言ったのです、“罪とは何だ?”」

『猫のゆりかご』32ページ

ハニカーにとっては、科学的真理を掘り当てることだけが関心事であり、その結果として何に使われるかは眼中にない。

そんな彼が、原爆に続いてもう一つの終末装置を生み出してしまう。それがアイス・ナインである。もとは、ぬかるみに足を取られる海兵隊のために、泥を固める物質を作ってほしいと頼まれたのがきっかけだった。ハニカーはこうしてアイス・ナインを生み出すが、それは世界全体を凍りつかせる危険を持った制御できない物質だった。

余談だが、このフェリックス・ハニカーには実在のモデルがいる。ヴォネガットがかつて広報担当として勤めていたゼネラル・エレクトリック社の科学者で、ノーベル化学賞を受賞したアーヴィング・ラングミュアだという。ヴォネガットは後年インタビューで、ラングミュアは科学的探究以外に無関心だったと述べている。そしてアイス・ナインの着想そのものも、ラングミュアがかつてSF作家H・G・ウェルズに披露したアイデアが下敷きになっているという。

フェリックス・ハニカーは、かなり単純化された人物ではある。だが、ヴォネガットは必ずしも科学者や人間をステレオタイプに描いているのではなく、“ハニカーという一つの寓話”を提示しているのだと思う。

ボコノン教、あるいは「嘘」が人を救うとき

後半の舞台サン・ロレンツォには、もう一つの「猫のゆりかご」がある。それが、ボコノン教という宗教である。ヴォネガットは物語前半では「科学」を、物語後半では「宗教」を対比しているのだ。

サン・ロレンツォでは、ボコノン教は禁教とされている。信仰が見つかれば残酷な刑に処される、ということに公的にはなっている。ところが実際には、独裁者“パパ”モンツァーノを含め、島の全国民がひそかにボコノン教徒なのである

なぜこんな倒錯した事態が生まれたのか。サン・ロレンツォは資源もなく土地も痩せた貧しい島で、住民の暮らしは少しも豊かにならない。そこに流れ着いた二人の男、のちに教祖となるボコノンと、のちに独裁者となるマッケイブが、住民に生きる希望を与えようととある一計を案じたことから始まる。

それが、宗教を創ることと、その宗教を禁じることを同時に行うことだった

ボコノンは追われる聖者を、マッケイブは弾圧する暴君を演じる。善玉と悪玉が対立し続けることで、貧しい島の暮らしに緊張が生まれる。住民は、迫害される信仰にこそ意味を見出すことができるのである。

この構図は、マルクスの「宗教は阿片である」という言葉のようなものかもしれない。しかし、マルクスが無意識に酔わされている民衆を批判したのだとしたら、ボコノン教はある意味では民衆も含めて「嘘を自覚的に信じている」ことが物語が進むと明らかになっていく。嘘の上に築かれた宗教が有用でありうると理解できない者にはこの本も理解できない、それもまた一種の「猫のゆりかご」なのである。

キリスト教を背景に持たない私のような読者には、英米文学における宗教の描き方はわかりかねる部分も多い。それでもこの「ボコノン教」の描き方には、物質的な貧しさを精神的な豊かさで覆い隠すという風刺であると同時に、その「覆い隠す嘘」を私たちはどこまで否定できるのか、という問いがここには差し出されているように思う。

「本書に真実はいっさいない」のか

ちなみに『猫のゆりかご』には、以下のような書き出しから始まる

本書に真実はいっさいない。

これは、ありもしない猫を糸の中に見ようとする「猫のゆりかご」とそのまま重なる

この書き出しは、『猫のゆりかご』を通したテーマであり、非常にヴォネガットらしいものかもしれない。しかし彼の著書をいくつか読むと、あることに気づく。実は、ヴォネガットの代表作『タイタンの妖女』は、こう始まるのだ。

本書の中の人物、場所および事件は、すべて実在する。ただし、一部の談話および思考は、やむをえず著者の解釈で構成した。(後略)

よく似た体裁の二作で、最初に掲げられる宣言が正反対なのだ。

「猫のゆりかご」も「タイタンの妖女」も同じSF的な作品なのに、最初に記されていることが正反対であることの理由を探るのは、難しい。これは私の推測だが、一つには「猫のゆりかご」が、「終末論」のバッドエンドを笑い飛ばすような作品だからなのかもしれない。

「タイタンの妖女」のような狐につまされるような読後感は「猫のゆりかご」にはない。だが、滑稽な小説でありながら、じわじわと描かれた風刺の深さを感じるようになる「猫のゆりかご」は、似たように見えて全く違うタイプの傑作なのだろう。

おわりに

ここで作者ヴォネガットの紹介に戻ると、彼のもう一つの代表作『スローターハウス5』は、彼自身が従軍中にドレスデン爆撃に遭遇し、奇跡的に助かった経験に基づいている(ヴォネガットは当時枢軸国の捕虜となっており、ここで本来“味方”であったはずの連合国側の爆撃を受けたのである)。ヴォネガットの作品に通底する一つの要素として、戦場経験に基づく反戦思想は指摘できる。

ヴォネガットは戦後、シカゴ大学の大学院で人類学を学んでいた。ところが提出した修士論文は受理されず、ヴォネガットは学位を得ないままゼネラル・エレクトリック社に就職する。ここでラングミュアに出会ったわけである。それから20年あまり経ち、ヴォネガットが作家として名を成したのち、シカゴ大学は先述の通り修士論文として『猫のゆりかご』を受理した。

『猫のゆりかご』は確かに荒唐無稽で、よくわからない部分も多い小説である。しかしそこにあるのは、人間や社会への深い眼差しなのである。猫もゆりかごもない「猫のゆりかご」を見つめながら、人は意味を見出していく。ヴォネガットが描いたのは、そのように物語を必要とする人間そのものだったのかもしれない。

そして『猫のゆりかご』の荒唐無稽さとその結末は、ぜひ興味を持った方は読んで確かめてほしい

『猫のゆりかご』の次は、ヴォネガットの代表作『タイタンの妖女』『スローターハウス5』がおすすめ。『猫のゆりかご』により近いのは『タイタンの妖女』で、『スローターハウス5』は前述のドレスデン爆撃を題材にSF的な要素を組み合わせている。

関連記事
image
第二次世界大戦×SFの名作|『スローターハウス5』感想・考察 こういうと語弊を招くかもしれないが、私は戦争文学が好きである。 戦争は絶対に繰り返してはいけないと思っているし、体……
関連記事
image
カート・ヴォネガット『タイタンの妖女』感想・考察|なぜ、人類は「タイタン」へ行ったのか? カート・ヴォネガット「タイタンの妖女」といえば、アメリカのSFの最高傑作のひとつともされる作品である。爆笑問題・太田光の……
関連記事
image
カート・ヴォネガット『タイタンの妖女』あらすじ|人類の究極目的と自由意志とは何か? 『タイタンの妖女』の感想を書いたのだが、あらすじが長くなりすぎたのでここで別の投稿として紹介することにした。 ……
TOP