ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』といえば、「知能を高めることが幸福なのか?」といった「幸福」について問うているSF作品としてや、ラストの場面に感動する心温まる作品として、また文学的には、主人公の「手記」という形をとることで、主人公の知的水準の推移の表現を試みた作品としても知られている。
しかし、私はこの作品を読んだときに「この作品は心温まる作品なのか?」と疑問に思った。この本を読んで心温まる人は、心がきれいな人だと思う。だが、私はこの作品を読んでも心温まらなかった。
ーー逆説的な感想で、ひねくれていると思われるかもしれないが、この作品についての感想を記していきたい。
『アルジャーノンに花束を』あらすじ
『アルジャーノンに花束を』のあらすじを記しておこう。
なお、この作品は先述の通り「手記の形式によって主人公の状態を示す」という技法的な特徴があるため、ぜひ実際に読んでみてほしい。
主人公・チャーリィは、知的障害を持っているパン屋の店員であり、その合間に学習クラスに通っている。
折しも、彼は心優しい性格を見込まれ、脳の機能を比較的に高める手術の被験者となることを打診される。チャーリィは、先に動物実験でこの手術を受けたネズミであるアルジャーノンに「頭脳対決」で敗れ、アルジャーノンに憧れて被験者第一号になることを受け入れる。
しかし、急激な頭脳の成長に、チャーリィの精神年齢はついていくことができない。
チャーリィは元の優しさをだんだんと失い、過去の自分のような知能が劣っている人のことを、見下していくようにもなってしまう。
そして、チャーリィ自身もかつて感じたことがなかったような孤独感を抱くようになっていく。
そんな時、アルジャーノンに異変が起こる。この異変を圧倒的な頭脳により解明したチャーリィは、同時に自分の高まった知能も永続的なものでなく、いずれ元の水準よりも低下してしまうことを突き止める。
天才・チャーリィにもなすすべはなく、チャーリィは知能の低下とともに自分で障害者収容施設に向かう決断をする。
そしてチャーリィは、自分より先に同じ運命をたどり、そして死んだアルジャーノンの墓に花束を手向けるよう、頼むのであった。
ギンピィとチャーリィ
以上が『アルジャーノンに花束を』のあらすじである。
しかし、さきほどのあらすじには書かなかった要素も多くある。
その一つは、チャーリィと一緒にパン屋で働く同僚、特にギンピィについてである。個人的には、チャーリィとギンピィの関係こそが、この作品で最も印象に残る部分であった。
この二人の関係を軸に、この作品のアウトラインを描いてみよう。
実は馬鹿にされていたチャーリィ
物語開始当初、チャーリィには、ロールパンをこねることができなかった。知的水準が低く、作業の手順を覚えることができなかったのである。
だが、チャーリィは知能の上昇とともにロールパンをこねることができるようになった。
しかし、同僚のギンピィは、チャーリィがロールパンをこねることができるようになったことを喜ばない。
ギンピィはチャーリィという「自分より下」の存在によって心の安寧を得ていたから、チャーリィの知的能力が上昇したことを喜ばないのである。
チャーリィは、段々と自分が周囲に見下されていたことを知り始める。
店の金をくすねていたギンピィ
そして、チャーリィはギンピィの秘密を知ってしまう。
ギンピィは、常連客に対して不当に値引きする対価に、客から報酬をもらっていたのである。つまり、ギンピィは店の利益となるものを横領していたのである。
当然、許される行為ではない。チャーリィはギンピィに対し不正をやめさせようとするが、ギンピィは捨て台詞を吐いて去る。
だが、これが原因でギンピィをはじめとする店員との不和が生じたチャーリィは、不和を理由にパン屋を解雇されてしまう。
――これは、「正義」を振りかざしたチャーリィが「悪」なのか?
私は、そう単純な問題だとは思わない。
確かにチャーリィの精神年齢は幼く、正義を振りかざしているだけである。精神年齢と知能の乖離が原因でチャーリィは周囲との軋轢を生んでしまう、というのは物語のテーマの一つである。
だが、このシーンは、急速に知能が上昇したことの弊害を表すものではないと思う。
必ずしも「正義」が通用しない世の中への皮肉ではないだろうか、と私は思うのである。
チャーリィとギンピィの和解
物語の最後に、チャーリィとギンピィは和解する。
――しかし、これはチャーリィの知能が完全に低下した後の話である。
知能が低下した後のチャーリィは、手記にギンピィの台詞を書き残す。
チャーリィもしだれかがおまえを困らせたりだましたりしたらおれかジョウかフランクをよべ
(注:この時チャーリィはすでに知的水準が低下しているので、手記も非常に読みにくい文章になっている)
ここに象徴的な、ギンピィが、知能の低下してしまったチャーリィを再び同僚・友人として受け入れる話は、表面的には心温まる話である。
ーーしかし、この話は全然いい話ではないと思う。
というのも、チャーリィは知的能力が元の水準に戻ったからこそギンピィと和解できたからである。
チャーリィが自分よりも頭がよいままだったら、ギンピィは絶対にこのような台詞を言わないだろう。
あたかもチャーリィは、ギンピィがいいやつのように書いているが、これを文面通りに受け取ってはいけない。
「信頼できない語り手」としてのチャーリィ
物語ラストでチャーリィとギンピィの和解を文字通りに受け取ってはいけないのは、チャーリィが文学上の用語としての「信頼できない語り手」に分類できると思うからである。
アメリカ文学の大家であるフォークナー(1949年のノーベル文学賞)は、『響きと怒り』という作品の第一章で、知的障碍者ベンジャミン(ベンジー)の意識を語り手とした。
読んでいて、あまりに理解が追い付かなくて笑ってしまった小説がある。 「こんなのわからねーよ!」と、読んでいながらツッコんでしまうのである。 その作品こそ、ノーベル文学賞作家ウィリアム・フォークナーの代表作『響きと怒り』である。だが、もち[…]
『響きと怒り』で、ベンジーは嘘はつかない。
しかし、彼の語ること――すなわち彼の感じることは、彼の中では真実であっても他の人にとっての真実とは限らないのである。
『アルジャーノンに花束を』におけるチャーリィも、『響きと怒り』におけるベンジーと似ている部分がある。
知らない方がいいこともあるというテーマ
すなわち、「知的障害を持っているときのチャーリィ」が記していることは、あくまで知的能力の低いチャーリィ自身が感じたことでしかないと読むべきなのである。
ーーだから、チャーリィが感じることのできなかったことは、私たち読者が補完するしかない。
だから、最後にギンピィがいいやつのように見えても、結局ギンピィは「元の水準以下の知能になった」チャーリィを本心では見下していると読者は読まざるを得ないのである。
チャーリィはギンピィとの和解後、手記に次のように書く。
ともだちがいるのわいいものだな……
このセリフは非常に印象的ではある。だが、当然これは純粋な「友達礼賛」と私たちは読むべきではない。
「偽りの友達」でも、友達がいるのは良いことである
ギンピィは知的能力を失ったチャーリィがそう捉えているだけの「偽りの友達」である。
このチャーリィのセリフから真に読み取るべき作品のメッセージは、「偽りの友達」であったとしても「友達」がいるというのは良いものである、友達がいると思い込めることは良いことである、というブラックなものではないかと思ってしまうのは、私だけだろうか。
私は結局ギンピィのことを、彼の生活苦などを斟酌したとしても、非常に小さい人間だとしか思えなかった。その意味で、『アルジャーノンに花束を』は、私にとってけっこう胸糞悪かった作品の一つである。
『アルジャーノンに花束を』のテーマとは
ここまで抱いてきたような感想を機軸にこの作品を読んだ場合、この作品のテーマは何になるのだろうかということを考えたい。
私の考えでは、次のようである。
『アルジャーノンに花束を』は、「知らなくてもいいことは知らない方がいい」「正義は通用しない」「どんなに頭がいい人も、不正がまかり通る世の中に馴化している」ということをテーマに描いた作品だともいえるのではないか。
――そのような世の中だから、「純粋」のまま知能の高さを獲得したチャーリィは、社会に適応できなかったのである。
おわりに
私はこの作品が嫌いなわけではない。しかし、この作品が読書感想文の課題書などとしても使われる作品であり、基本的には「心温まる作品」として扱われていること――これには、少し違和感を覚えるのである。
知能なんていらない、優しさだけあればいい。――そんな感想を抱かせる本でもあることは、否定しない。
だが、チャーリィがアルジャーノンに向ける「優しさ」は本物であったとしても、知能が再び低下した後のチャーリィに向けられる「優しさ」は欺瞞以外の何物でもないのだ。だから私はこの作品を、実際は「心温まる作品ではない」のではないかと思うのである。
しかし、そのような二重の読み方ができる作品だからこそ、『アルジャーノンに花束を』は面白く、広い世代に親しまれている名作なのではないか。
是非、過去にこの作品を読んだことがある方ももう一度読んでみていただけたら幸いである。
なお余談であるが、『アルジャーノンに花束を』には、今回紹介した長編のもととなった中編がある。中編ではどのような描かれ方がされているのかは未だ読めていないので、いずれ読みたいと思う。(この中編は、ダニエル・キイス文庫の『心の鏡』に収録されているという)
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