あだち充の『H2』は本当に名作だと思っているのだが、名作を名作たらしめる所以の一つは、人によってラストの解釈が分かれることにあるのではないかと思う。
ここでは表題通り、あだち充『H2』のラストについて、私なりに考察していきたい。
▼関連記事
エンディングに至るまで
大まかにラストに至るまでのあらすじを説明すると、次のようになる。
結末部のあらすじ
・ひかりは英雄と交際しているが、ひかりの母の死などをきっかけに、自分は比呂に対して恋愛感情を持っているのではないかと思い始める。
・比呂も春華と事実上交際しているが、ひかりに対する感情を捨てきれていない。比呂は、自分の初恋の相手はひかりであったが、それに気づいたときにはすでにひかりは英雄と付き合っていたため勝負できなかったことを告白する。
・このことを知った英雄はひかりに対して、比呂との勝負の後に、ひかりにもう一度選ぶ権利を与えるといい、それが比呂の耳にも入ることとなる。そして勝負の日を迎える。
・勝負には比呂が勝利するが、この勝負は勝者がひかりを手に入れるものではなかった(英雄は比呂に勝つことでひかりを渡すまいとしているが、それは何も理解していない)。
英雄「おれは……何もわかってなかったのか……」
ひかり「わかっていなかったのはわたし。最初からないのよ、選ぶ権利なんか……」
と言い、英雄ーひかりの関係は決定的になる。比呂ー春華の関係もここで確定する。
ひかりの台詞の意味
この「最初からないのよ、選ぶ権利なんか……」というひかりの台詞はエンディングの解釈に大きな役割を果たす言葉である。そのまま読めば、「試合結果に関係なく英雄ーひかりの関係は確定していた」という意味であり、そのような解釈が可能である一方で、異なる解釈も可能だと考える。
私は、ひかりと比呂の関係は、試合結果によって左右されたはずだと考える。
試合前夜
ひかり「とうとう……戦うんだね。」比呂「どっちが勝つとおもいますかね」ひかり「想像できないなァ、負けたヒデちゃんは。」比呂「負けたおれは想像できるのか。」ひかり「昔から何度も見てきてるもの、泣いてる比呂は。去年の夏だって。ここで……」
「去年の夏」との違い
ひかり「相談したいこといっぱいあったのになァ。」
ひかり「口先だけでいいのね。」比呂「そういってるだろ。」ひかり「がんばれ 負けるな。」比呂「OK。」ひかり「がんばれ 負けるな。」比呂(無音)ひかり「がんばれ 負けるな。」比呂「もういいって。」ひかり「がんばれ 負けるな。」
比呂「……ゴメン。」
「さよなら。」(285話)
ひかりと比呂のすれちがい
ひかり「ヒデちゃん」英雄「心配すんな、絶好調だよ。期待していいぞ、明日の試合は。」
エンディングの考察
試合前夜から、試合当日の場面に考察を移す。
第一~第三打席は、比呂が勝利するが、「真っ向勝負」ではなかった。
比呂と英雄の対決は「真っ向勝負」でないと意味がない。だから、比呂らしくないピッチングで英雄をかわした第一~第三打席の結果は問題とならず、第四打席のみが「最初で最後の対決」となる。
試合中で4打席回ってくるにもかかわらず、事実上の1打席勝負を作り出したあだち充のストーリー構成能力は巧みである。
ここで、エンディングのルートは二通りになる。
①比呂が勝利
②英雄が勝利
それぞれのルートで、比呂とひかりはどのような展開を見せることになるのか。
①なら、英雄はひかりに弱さを見せることになる。それによって今まで互いの中に自分の居場所のドアを見つけられなかった英雄ーひかりのカップルは、相互に支えあうような安定した関係となる。そして比呂とひかりの関係は清算される。
ただし、②なら、去年の夏の延長上としてひかりは比呂になびくかもしれない。
ひかりは自分の性格上、必要とされている方(要するに勝負の敗者)を、無視することはできないと感じているのである。ひかりと比呂が付き合うということはないにしても、ひかりと比呂の曖昧な関係は継続されることになるだろう。
比呂とひかりは、二人ともこのルートを意識している。
痛みを伴うものの①の結果で互いの関係を清算したいと思う一方で、同時に内心②の結果による関係の継続も捨てきれていない。
それはひかりと雨宮のおじさんとの間に交わされる曖昧な会話が表しているし、以下の比呂の台詞もそれを端的に表す。
比呂「野田。あまりおれを信用するなよ」
比呂「ちくしょう……どうしてもおれに勝てって……か。」
「あまりおれを信用するな」は、比呂がわざと英雄に打たれようとしているのではないかと疑った野田に返した台詞である。
比呂は、自分が負ければひかりとの関係が継続することを意識しているのである。
しかし、最終的に比呂は英雄を三振に打ち取る。
結局は、比呂とひかりは痛みを伴いながら関係の清算をできたわけである。
試合を終えて、比呂とひかりだけが、勝利の喜びでも敗北の悲しみでもない涙を流す。
最後の球は、スライダーのサインだったものの、実際にはストレートであった。
比呂「あんな球…… 二度と投げられねえよ。」
野田「投げさせられたんだよ。だれかに……な。」
この「だれか」の力で、比呂は英雄に勝利できた。また、打席中には、「だれか」によって風が吹き英雄のホームラン性の当たりがファールになることもあった。
では、「だれか」というのは誰なのか。
あだち充マンガにおける「死者」
議論の余地はあるが、あだち充マンガにおける「死者」がどのような役割を持っているかを考えれば、おのずから「ひかりの母」であると見えてくる。
続くコマでひかりの母の写真が春華によってベンチから外されているのは象徴的だろう。
一つの読み方として、ここではこの解釈に沿って考察をおこなっていきたい。
このエンディングは、ひかりの母が生前最後に比呂と交わした会話が伏線となっている。
ひかり母「負けを認めることでスッキリしようとしてない?」
ひかり母「がんばれよ。ヒデちゃんには内緒だけど、おばさんは比呂ちゃんの応援だからね。」
比呂「英雄にもそういってんだろ。」
ひかり母「もちろん」
ここで、「がんばれよ」は、野球だけでなく恋愛についても言っているとみるのが筋だろう。
そこで、「英雄にもそういってんだろ」「もちろん」返すひかりの母の言葉は、一見すると、ひかりという一人の女性を取り合うものであれば矛盾しているし、比呂もそう捉えている。
しかし、ひかりの母は笑顔でこの言葉を言う。
この比呂と生前最後に交わした台詞に嘘はないとみたい。
実際にこの言葉が矛盾しない場合は、英雄はひかりとの関係を継続させ、比呂は春華との関係を発展させる、というエンディングをひかりの母がすでに見通していればである。
ひかりの母は、比呂を息子同然にかわいがっていたが、それは「ひかりと比呂が一緒になることを望んでいた」と同義はできないだろう。
ひかりの母は、比呂は春華との方が良いのではないかと内心思っていたのではないか。
しかし、比呂が春華との関係を持つには、ひかりとの関係をすっきりと解消しなくてはいけない。その際に、「負けを認めてスッキリするな」、すなわち負けという消極的な形で「初恋」を終わらせるのではなく、積極的な形で次のステップに踏み出せとひかりの母は言ったのである。つまり甲子園で勝つことによって。
ひかりの母の遺志もあって、比呂は英雄に勝利した。
これが、H2のエンディングである。
おわりに
敗北した英雄は自分がひかりを必要としていることを感じ、ひかりもそれにこたえる。互いの心の中に自分の居場所を見つけたのである。
比呂はこれまで春華に多くの内心は明かすことはなかったが、いずれ通じることだろう。
こうして英雄ーひかり、比呂ー春華のカップルが確定し、「正規エンディング」を迎えられたというわけである。
しかし、そこにはやはり切なさがついて回る。比呂とひかりは、関係が終わったことに涙する。この切なさが、H2やあだち充作品の大きな魅力なのではあるが。
- 作者:あだち 充
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2011/03/01
- メディア: 文庫