私は無神論者ではないが、それは死後の世界の存在を信じたいという意味におけるものであって、現世に神が介入することがあるとはないと考えている。そして、私たち人間が神の特別な被造物であるとも考えていない。
私がそう考える理由の一つは、私たち(あるいは私)の身体には欠陥が多すぎるからだ。
もし私がハリウッドスターばりの容貌で生まれたならば、自らを神の被造物と信じ、神の恩寵に感謝することができたかもしれない。しかし残念ながら、そうではなかった。
それに親知らずはあらぬ方向に生えているし、慢性的に腰や頭は痛い。一応大きな病気などはないので健康に生まれたことには心から感謝しているものの、もし全能の神が創造したのだったら、もっと上手く私を創造してくれてもよいものであると思うのも事実だ。だから私という人間は、神が創造したものではないのだろう。
身体面での問題点ばかりをあげつらったが、私たちの「脳」のつくりにも、大いに欠陥がある。
現代の社会が顕著に示しているように、私たちの脳は「スマホ」にいとも簡単に飼いならされてしまっているのである。それは、私たちの脳のつくり方に欠陥があるからに、他ならないのである。
話題の新書であるアンデシュ・ハンセン『スマホ脳』(新潮新書)は、まさにこのことを明らかにした新書である。
私たちの脳は現代社会に適さない
この本の前提となる考え方は、「私たちの脳はどのようにしてできたか」という考え方だ。
私たち人類は、何万年もの長い間をかけて、少しずつ進化してきた。
ホモ・サピエンスは原始的な生活を何万年も続ける中で、現在の特性を獲得してきたのである。
しかし、現代社会の変容ぶりは激しく、私たちの脳や身体は現代社会に適応できていないのである。
なぜフルーツはおいしいのか
ところで、私たちはたいていの場合、甘いフルーツを食べると「嬉しい」という感情をおぼえる。
しかし、なぜ私たちは甘いフルーツを食べると「喜び」を覚えるのだろうか?
答えは、甘いフルーツを食べることは「生き残る」ために重要なことであったからである。
私たち人類が長い間生活してきたような原始的な環境を想像してみてほしい。
甘いフルーツは栄養もカロリーもある食物である。
もし甘いフルーツを食べても喜びを感じない人がいたら、その人は甘いフルーツを食べるべき時に食べることをせず、飢饉を乗り越えることができないかもしれない。
しかし、甘いフルーツを食べることに喜びを感じる人であれば、たくさんの甘いフルーツを食べたことで生き残れたかもしれない。
種の保存にとって有利なのは、甘いフルーツを食べることに喜びを感じるタイプの人間である。よって現生人類は、フルーツ好きの形質を引き継ぎ、甘いフルーツを食べると喜びをおぼえるようになったのである。
しかし、現代は飽食の時代である。「甘いもの好き」は、むしろ太りやすく、生活習慣病などに陥りやすい「悪い性質」になってしまっているかもしれない。
だが、これは仕方がないのである。人類の長い進化の歴史と比べれば、飽食の時代なんて非常に短いものなのだから。
脳を奴隷にするSNS
フルーツの話ばかり書いてしまったが、これと同じことがSNSに言えるのだ。
ところで本書のタイトルは『スマホ脳』だが、どちらかというと『SNS脳』というタイトルの方が適切である。英語版でのタイトルは『Insta-brain』だというから、日本語も直訳すれば『インスタ脳』だろう。
しかし、スマホに依存している人の多くはSNS的なものに依存していると言っても過言ではないだろうから『スマホ脳』という邦題も決して間違いだとは思わない。
フルーツの話と同様、私たちは自分のことを話したり他人に認められたりすると、喜びを感じる。
なぜなら、そうしたことは集団の中で絆を深めることにつながり、生き延びるために有効だったからである。
だから、そうした人々の子孫である現代人の多くは、承認されることに喜びを感じる。つまり、脳から快楽物質が出るのである。
それを現代のテクノロジーを利用して、脳に快楽物質を出させようとしているのがSNSである。
本書は
スマホは私たちの最新のドラッグである
と書くが、そうした報酬物質を脳に出させ、強い依存性を持っているスマホは、たしかにドラッグと言っても差し支えないだろう。
しかし、私たち人類の脳は、SNSにあらがうことができるほど進化してはいないのである。
知性の敗北
たとえば私たちは、何か新しいことを知った際にもドーパミンが出るという。つまり、知的好奇心が刺激されると喜びを感じるのだ。
こうした性質が私たちに備わっているのも、知識を得ることができれば生き延びることができる確率が上がるからである。
しかし、新しいことを勉強や研究で得ることによって得られる快楽よりも、SNSによって得られる快楽の方が圧倒的に大きくなってしまっているのである。
ここから導かれる結果は、知性の衰退である。やはり、SNSに依存してしまうのはよくないと、自らへの戒めも込めて思う。
おわりに
賢明な読者のかたはすでにお察しかも知れないが、この記事自体が、筆者である私の「スマホ脳」の産物である。
私が『スマホ脳』という本を読んだのは、純粋に知的好奇心からだったかもしれない。
だが、なぜ私はこんな記事を書いているのだろうか? 書くと思考が整理されるから、それもある。読書記録を残しておきたいから、それも一つだ。
だが、正直に書けば、私がこの記事を書いている理由のかなりな部分を占めるのは、私が承認欲求に飢えているからだということは否定のしようがない。
私がこの記事を読者に読んでもらえ、あわよくばTwitterやFacebookなどのSNSでシェアしていただけようというものならば、私の脳はドーパミンを放出する。この快楽物質の分泌量は、おそらく私が本書を読んで知的好奇心を刺激されたことによって分泌された量を凌駕することだろう。
しかし、それは私だけの話ではない。人類全体の問題であり、私たちは欠陥を持った脳(「スマホ脳」)どのようにつきあっていくべきなのかを、腰を据えて考えなくてはいけないのである。
スマホについて考えたくなったら、本書を読んでみてほしい。これは本心である。