わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外にはすることのない毎日でした。
「アフリカの外で初めて英語で出版されたアフリカの小説」(Wikipediaより)であるという、ナイジェリアのエイモス・チュツオーラによる小説『やし酒飲み』は、上に掲げたような特徴的な文章から始まる。
内容は神話のような感じで(ヨルバ人の伝承の影響を受けているらしい)、私たちが慣れ親しんだような「小説」とは、明らかに異質のものである。この小説はどう評価すればよいのかはよくわからないのだが、普通の商業小説にはないようなある種の粗っぽさを含めた異質のファンタジーに触れてみたい方は、読んで後悔しない小説ではないかと思う。
『やし酒飲み』あらすじ
最初に簡単に『やし酒飲み』のあらすじを紹介したい。
冒頭で紹介したように、「やし酒飲み」の主人公は、齢十から「やし酒」を飲むことしか能がない、一見するとどうしようもない人間である。
父は裕福であり、
父は、わたしにやし酒をのむことだけしか能がないのに気づいて、わたしのため専属のやし酒つくりの名人を雇ってくれた。彼の仕事は、わたしのため毎日やし酒を造ってくれることであった。
ーーなんとも心の広い父親だが、この小説にはどこかこの父親のような「おおらかさ」がある。
主人公はこうした生活を15年間続けるが、15年目に父が死んでしまい、そして間もなくやし酒つくりの名人が死んでしまう。
主人公は、(父が死んだことは特に悲しまないのだが)やし酒造りの名人が死んでしまい、やし酒を飲めなくなってしまったため途方に暮れる。
やし酒もなく、またわたしにやし酒を造ってくれる人がいないことがわかった時わたしは、「この世で死んだ人はみんなすぐに天国には行かないで、この世のどこかに住んでいるものだ」という、古老たちの言葉を思いだした。
それで、もしそれが本当なら是が非でも、あの死んだやし酒造りの居所をつきとめて見せると誓ったのだった。
こうして主人公は、死んだやし酒造りを探しに、死者の町への旅を始める。
ーーここまでは「ありそうな話」かもしれないが、ここで主人公について読者は新しい事実を知ることになる。
ある晴れた朝、わたしのもって生れたジュジュjujuと、それに父のジュジュまでも、全部身にまとい、わたしは、死んだやし酒造りの居所を探しに、住みなれた父の町を旅立った。
唐突に「ジュジュ」という概念が出てくる。
さらに、主人公が神様に会うシーンで、
神である彼の家に、人間が、わたしのように気軽に入ってはならないのだが、わたし自身も神でありジュジュマンjuju-manだったので、この点は問題がなかった。
という事実も明かされる。
ーーなんと主人公は神だったのだ。それも、“この世のことはなんでもできる神々の〈父〉”、であったのだ!!ちなみに「ジュジュ」というのは、魔法のようなものらしい。
こうして、主人公による「ジュジュを使って『やし酒造りの名人』を探す旅」が始まる……。
『やし酒飲み』感想
簡単に言えば『やし酒飲み』は以上のような、主人公が「死者の町」まで行って帰還して……というストーリーで、物語の大枠自体は「ありそう」な話だが、読んでみると一筋縄ではいかない小説であることがわかる。
「小説の作法」からの逸脱
あらすじ紹介で主人公は“この世のことはなんでもできる神々の〈父〉”であると紹介した。
もし主人公が“この世のことはなんでもできる神々の〈父〉”であるのなら、主人公の旅はたいそう簡単なものになるだろうと読者は思うだろう。
しかし、主人公の旅はそう簡単ではない。
たとえば旅の途中、主人公一行が一文無しになった時のことである
そこでわたしは、自分が、“この世のことはなんでもできる神々の〈父〉”であるということを、思い出した。
主人公は自分が神であることをすっかり忘れていたのである。
この難局は主人公がジュジュを使うことで解決する。
物語が行き詰まると全知全能の神が登場する手法は、デウス・エクス・マキナとして現在でも批判もありながらまれにみられる手法だが、「よく考えたら本人が神だった」という展開はあまりないだろう。
この展開には読んでいてツッコみたくなるのだが、一方で、読んでいると自然に受け入れられる面もある。
読者も、主人公が「なんでもできる神」であることを半分忘れているのだ。だから、ある種「ご都合主義的」な展開になったとしても、別に興ざめにはならない。
それにむしろ、読者は主人公が「ジュジュ」をどのように使うかが楽しみなのだ。
整合性を重視する場合に「やし酒飲み」という小説は必ずしも高い評価を得ることはできないだろうが、だが、口承文芸のような「物語」としては非常に優れていると感じた。
独特の言語
ところで『やし酒飲み』は、英語話者ではなく、高い教育も受けることができなかった作者チュツオーラによって、英語で書かれた小説である。
まだ私は原著を読んでいないので、あまり多くを述べることはできないのだが『やし酒飲み』の英語は特徴的なものであるという。訳書でも『やし酒飲み』という小説の言語センスの独特さは表現されている。
この記事の冒頭でも、『やし酒飲み』の冒頭部である
わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外にはすることのない毎日でした。
を紹介したが、この文章を読んだ日本語話者は、ひとつの違和感を覚えるだろう。
最初の文章は「だった」で終わるのに対し、二つ目の文章は「でした」で終わるのだ。
岩波文庫版では多和田葉子が解説で
読み始めてすぐ快い衝撃を受けた。「だった」と「ですます」が混合した凸凹な文体。日本語が制服を脱ぎ捨てて、走り始める。こんな日本語もあるんだ、という驚き。
原書が英語なのだということに改めて気づき、さらに強い驚きを感じた。つまり、作者が日本語の「だった」と「ですます」を混ぜたわけではなくて、原典の英語の中にすでになにかそれにあたる特色があって、訳者がそれを日本語に置き換えて再演出したということになる。
と書いている。私は多和田葉子ほどには文章というものに気を遣う生活をしていなかったので多和田葉子ほどの驚きは覚えなかったが……『やし酒飲み』はストーリーのみならず、文章でも、不思議な体験をできる小説であることは間違いない。
おわりに
普段小説を読んでいると「小説」というものは普遍的なものに思えるが、『やし酒飲み』を読むと、実は「小説」というものは近代に成立したものであるということを思い知る。
そして、小説の作法に則っていなくても、「物語」というものは十二分に面白いのだ。
そんなことを改めて感じられる読書体験ができるのが、『やし酒飲み』という小説だ。
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