都内の大学の教授が過去に教え子と性的関係を持ち、教え子から告発されたらしい。申し立てが事実なら、大学から追われることになるだろう。
ところで、「大学教授が学生に手を出して懲戒処分になる」ところから始まる小説といえば、ノーベル文学賞作家ジョン・マクスウェル・クッツェーによる『恥辱』である。
もっとも、この小説で「大学教授が懲戒処分になる」というのは導入部分に過ぎない。セクハラやパワハラもこの作品の提起する現代社会に対する問いかけではあるのだが、クッツェーは南アフリカ出身の作家であり、作中では随所で南アフリカ特有の問題が描かれている。この点は『恥辱』の特徴であり、日本の文学作品では味わうことのできない味わいをもたらしてくれるはずである。
この小説は1999年に出版されたが、すでに文学史上に残る傑作であるので、興味を持った方はぜひ読んでみてほしい。
クッツェー『恥辱』あらすじ解説
『恥辱』の舞台は南アフリカ。主人公は、デヴィッド・ラウリーという52歳の大学教授である。彼はイギリスの詩人ワーズワースやバイロンの研究をする文学者である。
五十二歳という歳、まして妻と別れた男にしては、セックスの面はかなりうまく処理してきたつもりだ。
という書き出しから始まるこの小説は、デヴィッドが大学に勤めていたころから始まる。
しかしデヴィッドは、52歳になって自分の性欲の処理に失敗し、その報いを受けることになるのだ。
デヴィッドにはお気に入りの娼婦がいたが、彼女のプライベートに鉢合わせしてしまったことを機に、彼女に避けられることになる。
そこでデヴィッドは性欲をもてあまし、学生であるメラニー・アイザックスに手を出してしまう。
ーーそして訴えられ、デヴィッドは大学を追われる。
大学を追われたデヴィッドは、元妻との間の娘であるルーシーのもとに身を寄せる。
ルーシーは農村部で小さな農場を営み、つつましい生活をしている。デヴィッドは、ルーシーの友人ぺヴ・ショウが運営する「動物病院」の手伝いなどをして、当座の生活を送る。
そんな折、ルーシーとデヴィッドが暮らす家に非白人3人組の強盗が押し入る。デヴィッドは負傷し、ルーシーは暴行される。
(このあたりの描写は、苦手な方にはきついかもしれないので注意)
学生を犯したという「恥辱」から、娘を犯されたという「恥辱」へと構図が変わるのである。
南アフリカでの生活は危険だとして、デヴィッドはルーシーにオランダへの移住を勧める。しかし、ルーシーは南アフリカでの生活が自分の生活だと主張する。
目の前の現実を受け入れるルーシーのことをデヴィッドは理解できないが、デヴィッドはルーシーが自分の道を歩むことを受け入れていく。
クッツェー『恥辱』感想
ごく簡単に言えば『恥辱』は以上のようなストーリーだが、この作品は色々なテーマを孕んでいる。
南アフリカという舞台
この作品を読むうえで留意しなくてはいけないのは、当然ながら、この作品の舞台が南アフリカであることである。
南アフリカといえば、白人と有色人種を厳密に区別し、深刻な人種差別がなされたアパルトヘイトという歴史を背負った国家である。
クッツェーは『マイケル・K』という作品で人種差別を直接的に描かなかったが、同様に『恥辱』でも、人種差別を直接的に描いているわけではない。
しかし、白人と非白人の間には、作中でも見えない壁が存在している。
たとえば、農村の治安の問題もその一つだろう。デヴィッドはルーシーが暴行されたことについて、歴史の因果なのかとも考える。
そしてデヴィッドは、ルーシーの選択には「私たち(=白人)のやり方ではない」と苛立つこともしばしばである。無意識の差別とまではいかなくとも、厳然たる「壁」が存在しているのは間違いない事実である。
じつは『恥辱』は、「人間」と「犬」の関係性もテーマの一つなのだが、「人間」と「犬」というのも、ある階層の人間とそうでない人間とのメタファーが含意されているのかもしれないと感じた。
色々と考えさせる作品であるが、当時の南アフリカを切り口にして色々なことを問いかける作品として、クッツェーの作品には海外文学としての魅力を感じる。
父娘のすれちがい
物語中盤以降、主人公デヴィッドと娘のルーシーの置かれた状況は非常にシビアなものになる(ように読者は思う)。
だがそのようなシビアな内容を抜きにすれば、個人的にこの小説を読んで単純に「面白かった点」を挙げるとすれば、デヴィッドとルーシーの「すれ違い」である。
この小説において、デヴィッドとルーシーは、基本的に分かり合うことはない。
自分の論理で議論をふっかけてルーシーを納得させようとするデヴィッドと、「あなたは何も私のことをわかっていない」と拒絶するルーシー。
ーー私事だが、私の知る「父と娘」がよく繰り広げている構図とよく似ている。
簡単に言えば、デヴィッドは「都会的」「ヨーロッパ的」で、ルーシーは「田舎的」「南アフリカ的」である。
そしてデヴィッドは絶対に自説を曲げようとしない頑固者である一方、ルーシーは柔軟に土地に合わせることができる考えの持ち主であるのである。
ただし私は、デヴィッドの価値観にもルーシーの価値観にも共感できなかったし、それはすべての読者がそうだと思う。
作中でデヴィッドの論理は必ずしも理解できるわけではない(教え子に手を出す教授の気持ちなんて、理解できなくて当然である)。だが、ルーシーの論理も、正直に言って理解できない点が多い。
しかしながら、両者ともに意図するところはなんとなくわかる。
共感できる主人公を求めて本を読む人には『恥辱』はお勧めできないが、それが面白いところである。
それぞれの人間が、どのように現実と向き合って(あるいは理想や新年に向き合って)生きているのかーーそういうことを抉り出しているのは、この作品の特長であると思う。
そして、それぞれの現実の向き合い方が異なるということに直面するのは、読者もそうであるが、主人公デヴィッドも同様である。
『恥辱』の一つのテーマは、デヴィッドという人間の変化であると読むことができると思う。
この作品は、52歳にして、自分の頭で「正しい」と思っていることが絶対というわけではない、ということに気づいた中年男性・デヴィッドの成長譚なのである。
おわりに
『恥辱』は、けっこうストレスのたまる作品かも知れない。
すっと胸に落ちるような展開はないし、前述したように、おそらくほとんどの読者にとって感情移入できる登場人物はいない(もちろん、部分的に感情移入できる場面はあるが)。
だが、読んだ後には、形容しがたい充実感に覆われているはずである。
私の拙い感想を読んでくださった方は、ぜひ本書を読んで、クッツェーが「文学」を通じて描き出そうとしたものを感じ取ってほしい。
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