三島由紀夫『美しい星』あらすじ・考察ー異端のSF、だけど三島ワールド

美しい星

三島由紀夫に『美しい星』という作品がある。

三島作品としては異色なSF的作品であり、「変わった作品」とみられることが多い。

しかし、私は三島作品の中でこの作品が一番好きかもしれない。それはこの小説が、私の初めて読んだ三島作品だからでもあるのだが、三島はこの作品で「SF」という道具を用いて、現代社会に対して非常に多くの示唆をしているのではないかと思うからである。

美しい星 (新潮文庫)

『美しい星』あらすじ

まずは軽く『美しい星』のあらすじを述べておこう。

※ネタバレになってしまっているので注意

埼玉県飯能市に住む大杉家の家族4人は、実は秘密を持っている。

――彼らは実は宇宙人なのである。

父・重一郎は火星人、母・伊余子は木星人、息子・一雄は水星人、娘・暁子は金星人である。

だが彼らは宇宙から飛来してきたというわけではない。

彼らは地球で人間として生を受けたが、「空飛ぶ円盤」を見た時に、それぞれ自分たちが宇宙人であることに気づいたのである。――大杉一家はそれぞれ別の場面で「空飛ぶ円盤」を見ており、心のどこかで「誰かは嘘をついていて本当は地球人なのではないか」という思いも、拭い去れていない。

そして彼らは、宇宙人としての自己に気づいたときから、地球人への啓蒙活動を始める。核戦争で滅亡へと向かう地球を救おうと、父重一郎は宇宙人の「同士」を探し求めたり、講演会などの活動を始める。

暁子は文通で、金沢に住む金星人の青年・竹宮に会いに行く。そして、竹宮と一緒に「空飛ぶ円盤」を観る——「空飛ぶ円盤を誰かと見る」という行為は、他の家族が誰もしていないことである。そして、暁子はこの体験によって処女懐胎する。

そのような大杉家に対し、仙台には羽黒助教授をはじめとしたはくちょう座61番星人の一派がおり、彼らは人類の滅亡を望んでいた。

そんな彼らが、大杉家を訪ねる。 重一郎と羽黒らは、地球の未来について激論を交わし、最後に羽黒らは重一郎を罵倒して立ち去ってゆく。

重一郎は激論を終えた後に倒れ、進行した胃がんであったことが判明した。

折しも他の家族にも、不幸な出来事が重なる。一雄は関わりを持っていた衆議院議員とうまくいかなくなる。また竹宮は結局地球人の一青年であり、暁子は騙されて妊娠したのが真相だったことが判明する。

最後に重一郎は宇宙からの声を聞く。その通信に従い、重一郎は家族に出発の準備を指示し、病院の消灯時間に抜け出た。

一雄の

「でもお父さん」

「われわれが行ってしまったら、あとに残る人間たちはどうなるんでしょう」

という問いに、重一郎は

「何とかやってくさ、人間は」

と答える。

やがて、一家はついに全員で「空飛ぶ円盤を見る」という宿願を、ついに果たして物語は結末を迎える。

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「宇宙人」として人間にどう接するか

この物語のどこに私が惹かれるかを、言語化すると以下のようになるだろう。

それは、この物語が「自分たちは他の人たちとは違う」という思いを持っている人たちが、どのように社会に対して向き合うか? ということを表現している小説ではないかと思うからである。

不適切な発言かもしれないが、「自分は一般社会とは違うんだ」という思いは、誰しも少なからず持っているものではないかと思う。私も正直に言えば、そのように思うことはたまにある。

だが人間はそのように強く思った時に、どうするだろうか? 三島はこれを描いた。

「自分は特別だ」という感情を持っているが、実際には卑俗で人間的な人たちを、三島は「宇宙人」というツールを用いることで小説の世界に現出したのである。この両面性を持つための設定として、「宇宙人」は必要だったのである。

――この小説は、大杉たちを「自分たちを宇宙人だと思い込んだ人」と読んでも、差し支えないと言えば差し支えない。

自分が特別な存在であるときに、どう振舞うかが問題とされているからである。

そして、同じように自分を「宇宙人」であると考えているにもかかわらず、地球の在り方に対して全く違う考え方を持つ大杉重一郎と羽黒の論争は、この小説のクライマックスとなる(この部分は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の章の影響を受けている)。

この部分はこの小説で一番読みにくいところでもあるが、この核心部分は是非実際に小説を手に取って、考えてみていただきたい。

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『美しい星』の結末の考察

私は、以上に挙げたようなこの小説の特徴は、三島の生き方にも深く関わっているのではないかと私は思うのである。

私がそう思う理由を示すために、大杉と羽黒の論争というクライマックスにはあえて触れずに、ラストの場面の考察を行おう。

結末の解釈

『美しい星』は、あらすじで述べたように、円盤を大杉家族が見る場面で終わる。

「来ているわ! お父様、来ているわ!」

と暁子が突然叫んだ。

円丘の叢林に身を隠し、やや斜めに着陸している銀灰色の円盤が、息づくように、緑いろに、又あざやかな橙いろに、かわるがわるその下辺の光りの色を変えているのが眺められた。

この結末の解釈は難しい。 もっとも結末がわかりにくいというのは三島作品に共通する特徴であり、代表作である『金閣寺』

生きようと思った

という終わり方をしたりと、非常にわかりにくい――いや、読者に考えさせる終わり方をする小説が多いのである。

「地球を去る」宇宙人

私は、『美しい星』の結末は、大杉一家が心中したのだと解釈する

もしかすると邪推かもしれないが、重一郎の

「みんな見るがいい。人間の街の見納めだよ」

という台詞などは、末期の胃癌の自分だけでなく家族全員が「人間の街の見納め」としているのであり、大杉一家全員が地球から去ることが示されている。

あらすじで述べたように、大杉一家は、「宇宙人」としての立場から地球人を啓蒙しようとしたが、別の「宇宙人」と対立したり、地球人とは結局うまく関係を構築することができなくて、死んでいく

これに象徴されるのが、あらすじでも紹介した重一郎の核心的な台詞は、結末を端的に表す。

重一郎の頬にはじめて微笑がうかぶのを伊余子は見た。

彼はこう言った。これはいつもの口調に似合わない、放胆な、穏当を欠いた言い廻しであった。

「何とかやってくさ、人間は」

「宇宙人」としての三島

この結末は、三島由紀夫自身の最期とも、似ているのではないかと思う。

三島由紀夫はご存じの通り、「楯の会」を率いて自衛隊市谷駐屯地で東部方面総監を換金し、自衛隊員に決起を促した末に、割腹自殺を遂げた。

――ここでの三島の思想の是非は置いておいて、三島の「人間たちを啓蒙しようとしたが、うまくいかずに死を選ぶ」というシチュエーションは、大杉一家と非常に似ているのではないかと思うのである。

大杉一家は自分たちを宇宙人であると信じていながら、地球そして人類がこれからも存続し続けることを望んでいた善良な宇宙人であった。しかし、結局死ぬことになる。

だがそこには怒りの感情があるわけではなく、「何とかやってくさ」という感情なのである。

地球を「美しい星」だと信じて。

――三島自身も最期に、日本人に向かって「何とかやってくれ」と思っていたのではないか。そんな妄想もできる。

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三島文学の神髄

もしかするとこの作品は、三島ファンにも食わず嫌いしている方が多いかもしれない。

「三島由紀夫作品は好きだけど、SFは求めていない……」という方も、どうか読んでみていただきたい

それは以上で記したテーマの面白さが一つであるし、もう一つには文章の美しさである。

特に竹宮に関連したシーンは、三島文学の極致ではないかとさえ思える美しさがある。

竹宮が能面を付けて能を演じていたときに、金星人として目覚めるシーンは次のように描かれる。

音楽に充満した彼の肉体。彼の足を縛めている清浄な足袋。

たえず体の平衡を保とうとする努力から生まれる心の澄み切った空虚。

彼は正しく美の中にいたのだが、突然、ン凹面の小さな目の穴から除かれる世界は変貌した。

――もっと優れた描写はいくらでもあるのだが、短く表しているのでここを引用した。

やはり三島の美青年に対する書き込みの細かさは、他の追随を許さない。そして能の描写の息をのむような美しさは、現代作家の誰もが比肩しえないのではないかとさえ思える。

他の三島作品同様、文章の美しさは無条件に保証できる作品である。

おわりに

『美しい星』は、非常に多くの示唆に富む作品である。だから読むたびに印象の変わる、違う感想を持つ作品かもしれない。

私も今回再読していて、新しい発見がいくつもあった。

『美しい星』は、他にも家族愛などの人間の高尚な点を描いたり、また人間の俗なところを皮肉っぽく書いている作品でもある。宇宙人という一見変わったSF的な設定を用いて、人間というものを描いた作品の中で、この作品よりすぐれた作品を私は知らない

是非、多くの人に読んでみてもらいたい作品である。

「美しい星」に生きる住人の一人として。

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