アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』という作品がある。
作者アーサー・C・クラークは、映画『2001年宇宙の旅』の原作者としても知られているSFの大家で、代表作である『幼年期の終わり』もSFの古典として知られている。
この作品を初めて読んだのは中学生の時だったが、最近読みなおしたら昔と違う印象を受けたので、感想を書いておこうと思う。
『幼年期の終わり』あらすじ
※新版(邦訳だと光文社古典新訳文庫版)準拠
第一部 地球とオーヴァーロードたち
人類は、いよいよ地球から抜け出して火星探査に向かおうとしていた。
だが、探査機がまさに火星へと向かおうとした途端、人類はあることを察した。
人類はもはや孤独ではない。
ーーそう、未知の宇宙人とのファースト・コンタクトが実現したのである。
宇宙船の代表は、カレラン(Karellen、カレルレン)であると名乗り、その日以来カレランは国連事務総長ストルムグレンを通じて人類を統制する。人類はカレランら宇宙人を「オーバーロード」(Overlord、最高君主、上帝)と呼んだ。
カレランは決して姿を見せないが、50年後に姿を現すと約束する。
第二部 黄金期
宇宙船の登場から50年が経ってカレランは姿を現すが、それはキリスト教の悪魔の姿をしていた。一部のものはカレランらオーヴァーロードの姿に嫌悪感を抱くが、50年間時間をかけて彼らが人類を支配し心理も変えてきたこともあり、すぐに人類はカレランを再び受け入れるようになる。
人類はカレランのもと、平和と発展を享受する。
多くの人間は不満のない生活を送るが、好奇心に満ちた青年ジャン・ロドリクスは、オーバーロードの登場により宇宙を航海する夢が絶たれたことを不満に思っている。
ーーそしてジャンは、オーバーロードが彼らの母星に標本として送り込むクジラの剥製の中に身を隠し、オーバーロードの母星への密航を試みる。
地球では、人類は黄金期を迎えていた。
だが、その黄金期が急速に次のステージへと向かおうとしているーー幼年期が終わろうとしているーーことを知るのは、カレラン以外にはいなかった。
第三部 最後の世代
人類の一部は、人類の精神性を守ろうとしてコロニーを形成していた。
コロニーの住民の誰もがそうだったが(中略)自分たちが進化の先端にいるエリートたちだと考えていた。
オーヴァーロードが達した高みまでーーあるいはそれを超えたところまでーー
実際に、コロニーの子どもたちに異変が起きる。
地球の「幼年期」は終わりつつあった。
オーヴァーロードの母星へと密航したジャンは、光速に近い移動をしたゆえに、自分は年を取っていないが周囲の時間は過ぎてる状態になっている(いわゆる相対性理論のウラシマ効果)。
ジャンが地球に帰還したのは、ジャンが出航してから80年後だった。
カレランは、ジャンにオーヴァーロードが今まで人類にしてきたことの目的を話す。
そしてカレランは、もはや自分が不要となった地球をモニターで見ながら、思いを馳せるのであった。
『幼年期の終わり』感想
はじめに述べたように、中学生の時に『幼年期のおわり』を読んだ時と、成人してから読み返した時とは結構印象が違った。
中学生の時に読んだ時には「宇宙人の姿は悪魔でした」というオチがメインの話に思えたが、改めて読むとそうではなかったのである。
個人的に私がこの作品について思ったことについて、書いていきたい。
物語の普遍性への疑問
とはいえ、「宇宙人の姿が悪魔でした」という展開は、やはり印象的ではある。
だが、成人してから『幼年期の終わり』を読むと、「悪魔というイメージは、人類普遍のものではないだろ」とツッコミも入れたくなる。
私たちに関する記憶とは、過去のものではなく、未来のものだったからだ。
と聞いても、「それはキリスト教だけでは……」となってしまう。
こののシーンに限らず、この作品はキリスト教的価値観に支配された作品である。
この点には、ふつうの日本人が読むと違和感を覚えるだろう。
ラストの場面における
おそらく、古い宗教が伝えようとしたのはこのことなんでしょうね。
などという台詞を聞いても、旧約聖書のとあるシーンを指しているのはわかっても、実際の感覚としてはピンとこない。
「過去の記憶とされていたものは未来の記憶だった」というアイディアには普遍性があるが、その具体例はキリスト教至上主義的だ。
ーーというように、この作品は古典的作品であるとともに、価値観も古いところが多い(現代では原書の人種差別的・白人至上主義的表現が問題視されることもあるようだが、光文社古典新訳文庫版はそのような部分は適宜削除しているらしい)。
この点は断らないといけないと思ったが、この作品が現代のSFの礎を築いたという点は疑いの余地がなく、作品の価値は未だに高いことは申し添えておく。
その理由はどこにあるのか。
「宇宙人」を主人公として読む
それが、私がこの作品を再読して、非常に新鮮に感じた点である。
というのは、この作品の主人公はカレランなのではないかということである。
普通のSF、いや普通の小説であれば、人類が主人公である。
中学生の時の私も、「幼年期」の人類最後の生き残りであるジャンを主人公格として読んでいた。
だが、ジャンは第一章には登場しないし、主人公ではない。
ではこの作品に主人公はいないのか?
違う。主人公はカレランなのである。
カレランを主人公として読んだ時、この作品の隠されたテーマを読み取ることができるのではないかと私は思う。
人類の「幼年期の終わり」
ネタバレはあまり書きたくないが、この作品で人類は、オーバーロードであったカレランを超越した存在に昇華する。
これは人類にとってハッピーエンドなのか? 私は、ハッピーエンドではないと思う。
一方、カレランたちオーバーロードには、人類のように「幼年期が終わる」ことはない。
ーーそう、現実世界の私たち人間のように。
そこで、カレランの生き方が「人間的なもの」として意味を持ってくる、と考察することができる。
物語序盤から終盤に至るまでに徐々に明らかになるカレランの人間味と、カレランの役目ーーこれこそが、逆説的に人間はどうあるべきかを示している。
だが、たとえ隷属の身であったとしても、己の魂を失うことだけは決してない。
ーーこれはカレランのセリフである。だが、これこそが今を生きる私たち人類に向けられたメッセージでもあると思うのである。
『幼年期の終わり』は、はじめ「人類」を主人公にしていたのに、途中で巧妙に「宇宙人」を主人公にすり替えた。
この巧妙さこそが、この作品の面白い点なのではないかと思う。
おわりに
『幼年期の終わり』は「古い作品」であることは確かだが、価値を失ったわけではいない。
それは、一つには上に書いたような理由だと思うが、もう一つは描写の素晴らしさである。「宇宙船の登場」などは多くのSFで描かれるシーンだが、『幼年期の終わり』における登場シーンは非常によくできていて、のちの作品に大きな影響を与えたことを容易に推測できる。
そんなSFの古典を、ぜひ一度読んでみてはいかがだろうか。
▼今回のあらすじ紹介は光文社古典新訳文庫版に準拠したが、光文社古典新訳文庫版は1989年に著者アーサー・C・クラークが改版したものの翻訳である。
個人的にはこの書き換えはあまりよくできていない気がするので、内容面では旧版に基づいたハヤカワ文庫をお薦めしたい。
▼関連記事
カート・ヴォネガットの『タイタンの妖女』は、『幼年期の終わり』が好きな人におすすめ。
『幼年期の終わり』は、かの三島由紀夫も激賞した作品である。そんな三島由紀夫も、SF的な作品『美しい星』を残している。『美しい星』の主人公は「自分のことを宇宙人と自覚した地球人」だが、もしかすると三島由紀夫も『幼年期の終わり』の主人公を地球人と宇宙人双方である、と読んでいたのだろうか……