世の中には三種類の作家がいる。デビュー作が一番読みやすい作家と、デビュー作が一番読みにくい作家と、どちらでもない作家だ。
ーーそんなことは当たり前なのであるが、しかし、色々な作家について、この3種の中のどれであるかを考えるのかは意外と面白いことではないかと思う。
このブログでもこれまで作品を紹介してきたが、カズオ・イシグロは、私が思うに「デビュー作が一番読みにくい作家」だ。
イシグロのデビュー作『遠い山なみの光』は、だいぶわかりにくい作品である。しかし、その「わかりにくさ」がなぜなのかを考えてみると、この作品はより楽しめるのではないかと思う。
この作品はいわゆるミステリーではないが、ある種のミステリーなのだ。
『遠い山なみの光』あらすじ解説
『遠い山なみの光』の主人公は、悦子という日本人女性である。
(原文では当然漢字表記でなくEtsukoだが、ここでは小野寺建の訳に従う)
悦子は日本人の夫・二郎と別れ、イギリス人の夫と再婚する。悦子は、前夫との娘・景子とともにイギリスに渡り、イギリス人の夫との間にはニキという娘をもうける。
しかし、景子はイギリスで自殺してしまう。
ニキが悦子を訪ねて来たところで、悦子は日本にいたころ、すなわち終戦後の長崎で前の夫と暮らしていたころを思い出し、回想が始まる。
話は、長崎で悦子が景子を身ごもっていたころに移る。
夫・二郎と義父の「尾形さん」(お義父さん、ではないのは若干違和感があるが、原文ではOgata-sanらしいので、忠実な翻訳なのだろう)も重要な人物であるが、それ以上に回想で重要な人物となるのは、佐知子という女性である。
これだけ年月がたった今になって、また佐知子のことを思い出したからである。わたしには、ついに佐知子のことがわからなかった。というより、わたしたちのつきあいは、遠い昔になったあの夏の、せいぜい数週間のことにすぎなかったのだ。
佐知子には、万里子という幼い娘と二人で貧しい暮らしをしている。
そんな佐知子は、恋人とされる米兵フランクとアメリカに渡ることを望み、万里子のことはやや疎ましく感じている。
主人公・悦子は、そのような佐知子と交流しながら、物語は進行していく。
『遠い山なみの光』の謎
最初に書いたように『遠い山なみの光』は、謎の多い作品である。
物語冒頭で誰もが疑問に思うであろう、景子の自殺の理由は、結局わからずじまいである。それに悦子が二郎と別れた理由も、イギリスに渡った理由もわからない。
しかし、それらの疑問に対する明確な答えはない。
だが、『遠い山なみの光』における一番大きな問題は、「なぜ悦子が、景子を失ったタイミングで、佐知子との出来事を思い出したのか」という問いであるのではないかと思う。
どうして、悦子は佐知子の話を始めたのか?
之を考える上では、この作品において、明らかに
「悦子」≒「佐知子」
「景子」≒「万里子」
という相似が成り立つことに着目すべきだろう。
結局のところ、日本を離れてイギリスに移住した悦子は、佐知子が望んだような道を辿っているのだ。
しかしそれなのに、悦子は、佐知子のことが理解できなかったと回想する。
「なぜ悦子はこんな話をしているのか」というのが、この作品最大のミステリーである。
イシグロ作品の「自己正当化する登場人物」
思うに、悦子はこの回想によって、自分の行為を正当化しているのではないだろうか。
悦子はイギリスに移住することにしたために、景子は自殺することになってしまった。
景子の自殺の遠因がイギリスへの移住であることには、おそらく疑いの余地はないだろう。
このような事態を受けて物語は語られる。
ということは、悦子は自分の事を「佐知子とは違う」と思いたいのではないだろうか。
悦子は、佐知子がアメリカに行けば万里子にとっては悪い影響を与えかねないこともわかっていた。だから悦子は佐知子が理解できなかった。
だがのちに、悦子自身が日本を離れることになった。そして、かつて悦子が佐知子に対して懸念していたようにーー彼女自身が娘を不幸にしてしまった。
だから、悦子はこのような形で佐知子を回想しているのである。
(ーーと私は考えていたが、もしかするとこの解釈は違うかもしれない。別の解釈があり得るのは事実である)
この作品で確実に言えるのは、悦子も佐知子も、ひたすら自己を正当化する人物であるということである。
知らず知らずのうちに自分の事を正当化してしまう「信頼できない語り手」を用いるという技法の上手さにおいてカズオ・イシグロの右に出る者はいないと思うが、その技法はデビュー作である本作にも用いられている。
悦子が語っていること、そして佐知子が語っていることは、すべてが本心というわけではない。もちろん人間たるもの本心以外の言動は多々取るわけであるが、彼女たちにはそれが特に顕著である。
『遠い山なみの光』の読者は、悦子・佐知子といった登場人物が正当化しようとしていることは何なのかに留意しながら読んでいかなくてはいけないのだ。
おわりに
『遠い山なみの光』は、その題名のように稜線が不明瞭な小説ではある。
「訳者あとがき」にもあるように、物語には始終原爆が暗い影を落とすが、物語自体は必ずしも原爆がテーマというわけではない。(ここでは考えなかったが、もちろん原爆を軸にした考察も行えるだろう)
また、旧態依然とした義父・尾形と、戦後の日本に対応しようとする息子の二郎といったような、価値観の違いもこの作品のテーマである。イシグロ自身は戦後生まれだが、戦争によって価値観が一変したことについては、『日の名残り』でより大きな主題として扱われている。
『遠い山なみの光』は、カズオ・イシグロのデビュー作であるが、すでにイシグロが文学を通して描こうとしているものが示されている作品だと思う。
読み込もうとすると、かなり技巧的な作品で分かりにくさはあるのだが、十分に面白い作品であると思う。
▼原書も比較的読みやすい英語なので、英語に自信がある方は原書もぜひ
▼関連記事