世の中には三種類の作家がいる。デビュー作が一番読みやすい作家と、デビュー作が一番読みにくい作家と、どちらでもない作家だ。
ーーそんなことは当たり前なのであるが、しかし、色々な作家について、この3種の中のどれであるかを考えるのかは意外と面白いことではないかと思う。
このブログでもこれまで作品をいくつか紹介してきたが、カズオ・イシグロは、私が思うにある意味「デビュー作が一番読みにくい作家」だ。
イシグロのデビュー作『遠い山なみの光』は、だいぶわかりにくい作品である。読みにくいわけではないのだが、ところどころでモヤっとするのである。しかし、その「わかりにくさ」(≒モヤっと感)がなぜなのかを考えてみると、この作品はより楽しめるのではないかと思う。
この作品はいわゆるミステリーではないが、ある種のミステリーなのだ。
『遠い山なみの光』あらすじ解説
主人公は日本人女性
『遠い山なみの光』の主人公は、悦子という日本人女性である。
(原文では当然漢字表記でなくEtsukoだが、ここでは小野寺建の訳に従う)
悦子は日本人の夫・二郎と別れ、イギリス人の夫と再婚する。悦子は、前夫との娘・景子とともにイギリスに渡り、イギリス人の夫との間にはニキという娘をもうける。
(ちなみに、物語冒頭は「ニキ」という名前の説明から始まる)
Niki, the name we finally gave my younger daughter, is not an abbreviation; it was a compromise I reached with her father. For paradoxically it was he who wanted to give her a Japanese name, and I — perhaps out of some selfish desire not to be reminded of the past — insisted on an English one. He finally agreed to Niki, thinking it had some vague echo of the East about it.
最終的に次女につけた名前「ニキ」は略称ではなく、父親との妥協の産物である。逆説的だが、娘に日本名をつけようとしたのは父親で、私はーーおそらく過去を思い出したくないという利己的な気持ちからーー英語名にこだわった。彼は最終的にニキという名前に同意した。ニキには東洋の漠然とした響きがあると考えたからだ。
日本人の元夫とイギリス人の夫とのあいだに、2人の娘を持った悦子。
しかし、イギリスで景子は自殺してしまうのだ。
ニキが悦子を訪ねて来たところで、悦子は日本にいたころ、すなわち終戦後の長崎で前の夫と暮らしていたころを思い出し、回想が始まる。
長崎での回想
話は、長崎で悦子が景子を身ごもっていたころに移る。
夫・二郎と義父の「尾形さん」(お義父さん、でないのは若干違和感があるが、原文ではOgata-sanとのこと)も重要な人物であるが、それ以上に回想で重要な人物となるのは、佐知子という女性である。
これだけ年月がたった今になって、また佐知子のことを思い出したからである。わたしには、ついに佐知子のことがわからなかった。というより、わたしたちのつきあいは、遠い昔になったあの夏の、せいぜい数週間のことにすぎなかったのだ。
ここで思い出す佐知子とはどのような人物なのか。
佐知子は、万里子という幼い娘と二人で貧しい暮らしをしている。
そんな佐知子は、恋人とされる米兵フランクと一緒にアメリカに渡ることを望み、万里子のことはやや疎ましく感じている。
主人公・悦子は、そのような佐知子と交流しながら、物語は進行していくのである。
『遠い山なみの光』の謎
最初に書いたように『遠い山なみの光』は、謎の多い作品である。
物語冒頭で誰もが疑問に思うであろう、景子の自殺の理由は、結局わからずじまいである。それに悦子が二郎と別れた理由も、イギリスに渡った理由もわからない。
しかし、それらの疑問に対する明確な答えはない。
謎が明かされない理由
なぜ答えがないのか。それは、作者が用意していなかったというわけではない。カズオ・イシグロは緻密にこの作品を書いており、決して作者の落ち度ではない。
これらの疑問への答えがないのは、語り手の悦子が意図的に語っていないからなのである。悦子には隠したいことがあるのだ。
この物語におけるあらゆる出来事を起こした遠因は、語り手の「悦子」にあるのであるが、悦子はそれを語らないーーだからこの作品はミステリーなのである。
そして、先ほどのあらすじでも紹介した通り「なぜ悦子が、景子を失ったタイミングで、佐知子との出来事を思い出したのか」というのもこの物語の謎の一つである。
どうして、悦子は佐知子の話を始めたのか?
これを考える上では、この作品において、
「悦子」≒「佐知子」
「景子」≒「万里子」
という相似が成り立つことに着目すべきだろう。
日本を離れてイギリスに移住した悦子は、アメリカ移住を望んだ佐知子がそうしたかった道を辿っているのだ。ーーそして、娘・万里子のことを疎ましく感じていた佐知子と、娘・景子が自殺してしまった悦子にも相似形があるのだろう。
しかしそれなのに、悦子は、佐知子のことが理解できなかったと回想する。
悦子とは何者なのか?
思うに、悦子はこの回想によって、自分の行為を正当化しているのではないだろうか。
悦子はイギリスに移住することにしたために、景子は自殺することになってしまったのである。少なくとも遠因であることに、おそらく疑いの余地はないだろう。
このような事態を受けて物語は語られる。
ということは、悦子は自分の事を「佐知子とは違う」と思いたいのではないだろうか。
悦子は、佐知子がアメリカに行けば万里子にとっては悪い影響を与えかねないこともわかっていた。だから悦子は佐知子が理解できなかった。
だが実際には、逆に悦子自身が日本を離れることになった。そして、かつて悦子が佐知子に対して懸念していたような事態を起こしてしまったーー彼女自身が娘を不幸にしてしまった。
だから、悦子はこのような形で佐知子を回想しているのである。
もちろん、違う読み方もできると思うが、私はそうなのではないかと感じた。
カズオ・イシグロ作品の特徴
この作品でひとつ言えるのは、悦子も佐知子も、ひたすら自己を正当化する人物であるということである。
知らず知らずのうちに自分の事を正当化してしまう「信頼できない語り手」を用いるという技法の上手さにおいてカズオ・イシグロの右に出る者はいないと思うが、その技法はデビュー作である本作にも用いられている。(ちなみに、カズオ・イシグロの『日の名残り』という作品は、主人公が自分を正当化していたことにだんだん気づいていくという物語であり、『遠い山なみの光』と似ているがより読みやすい)
悦子が語っていること、そして佐知子が語っていることは、すべてが本心というわけではない。もちろん人間たるもの本心以外の言動は多々取るわけであるが、彼女たちにはそれが特に顕著である。
『遠い山なみの光』の読者は、悦子・佐知子といった登場人物、そして悦子という語り手が自分が正当化しようとしているということに注意する必要がある。そうすると、読んでいて「謎」だと思ったことも、分かるようになっていくと思う。
だから、この小説は「悦子が語らなかったことは何なのか」を推理していくミステリー小説ともいえるのではないかと思うのである。
おわりに
『遠い山なみの光』は、その題名のように稜線が不明瞭な小説ではある。
この記事では触れなかったが、この物語は戦後直後の長崎を回想の舞台にしている。だから物語には始終原爆が暗い影を落とすが、「訳者あとがき」にもあるように、物語自体は必ずしも原爆がテーマというわけではない。もちろん原爆を軸にするとこの小説は別の読み方もできるだろうし、興味がある方はぜひ読んでみてほしい。
また、旧態依然とした義父・尾形と、戦後の日本に対応しようとする息子の二郎といったような、価値観の違いもこの作品のテーマである。
(ちなみに戦争によって価値観が一変したことについては、『日の名残り』でもテーマとして扱われている)
『遠い山なみの光』は、カズオ・イシグロのデビュー作であるが、すでにイシグロが文学を通して描こうとしているものが示されている作品である。
読み込もうとすると、かなり技巧的な作品で分かりにくさはあるのだが、そこが面白い作品であると思う。ぜひ興味のある方は、この本を読んでみてほしい。
▼原書も美しい英語なので、英語に自信がある方は原書もぜひ
▼『遠い山なみの光』を読んだ方、興味がある方にはカズオ・イシグロの『日の名残り』がおすすめ
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