映画『遠い山なみの光』が公開された。公開後すぐに見ていたので見てから時間が経ってしまったが、非常にこの映画はよかったので、この映画の感想と考察を書いていきたいと思う。
結論から言うと、『遠い山なみの光』の映画は、非常によかったと思う。原作小説の持つ「不思議さ」や一種の気味の悪さがうまく表現されていた。広瀬すず、二階堂ふみ、吉田羊の演技は言うまでもなく素晴らしく、三浦友和や松下洸平も画面上で欠かせない役割を果たしていた。
一方、原作小説の極端な読み方をすれば、もっと“後味の悪い映画”にすることもできたように思うが、そうはなっていなかった。私は過去にこのブログでも「遠い山なみの光」の原作小説について書いたことがあるが、ここでは結構意地の悪い読み方というか、“後味の悪い”読み方をしてしまっている。映画を見て、この読み方はやや誤読ともいえるものだったのかもしれないと思ったが、ここで私が感じた違和感こそが映画と原作の違いであるだろう。
この記事では、映画と原作の違いを考察しつつ、もう一つ私がこの映画で特に印象に残った点である“オープニング曲”の持つ意味合いについても書いていきたい。
オープニングでNew orderの「Ceremony」が流れた理由
物語のあらすじについては割愛するが、映画の舞台は戦後すぐの長崎である。
一方、この作品における「現代」は1981年のイギリスであり、そこから長崎を回想するという形をとっている。
映画冒頭、戦後すぐの長崎から1981年のイギリスへと舞台が動く。この時代の経過をダイナミックに演出しているのが、イギリスのバンド・New Order(ニューオーダー)の1981年の楽曲「Ceremony」である。
石川慶監督は、インタビューでNew Orderの楽曲を使用した理由を、こう説明している。
「第一にあったのが、今回若いスタッフの方と話したときに、80年代って彼らにとっては時代劇だって言われて(笑)。そうなると50年代に至っては室町時代みたいな感覚なんだろうなと思ったときに、そのままやるとまずいなと思って。そのときに思いついたのが80年って、ファッションも今に通じているし、ニュー・オーダーの音楽もたまに街中で聴くし、今の人たちに響く音楽だし、女性運動とか環境問題とかもこの時期にかなり大きく広がっていると考えると、娘のニキがキーポイントだなと。そこから広げて、あえて50年代の歴史的な写真にニュー・オーダーを乗せてみようかと思いました」
出典:「なぜニュー・オーダー?「遠い山なみの光」石川慶監督が明かす使用楽曲秘話、戦争の記憶の話を語り継ぐ理由」映画.com
このインタビューでは、1980年代の楽曲を使った意図しか説明していない。
しかし、私のような今年2月に開催された来日公演にも行っているNew Orderのファンからすると、「Ceremony」という曲は、使用されることが必然と言っていいほどマッチしているものだと思う。
「Ceremony」という曲について
ここからは、New Orderのファンにとっては常識だと思うが、「Ceremony」という曲について説明していきたい。
「Ceremony」という曲はNew Orderというバンドのデビューシングルだが、この曲は彼らにとってスタートの曲である一方、彼らが一つの区切りをつけた「終わり」の曲だった。New Orderというバンドは、もともとJoy Divisionというバンドだったが、ボーカルのイアン・カーティスがわずか23歳で自殺。残されたメンバーで再始動したバンドだったのである。
「Ceremony」という曲はイアン・カーティスが作った曲であり、New Orderのデビューシングルであるとともに、Joy Divisionの遺作であった。つまり、この曲は死者が遺した曲なのだ。
「遠い山なみの光」は、主人公・悦子の娘・景子の死(ただし作中で死そのものは描かれない)がきっかけとなり、悦子のもう一人の娘・ニキが悦子の暮らす家に戻り、回想が始まるという物語である。セレモニーとは、言うまでもなく英語で葬式(funeral ceremony)などの儀式を指す。その意味でも、この作品の冒頭にぴったりな曲である。
再スタートの曲として
「遠い山なみの光」は、自死遺族の再スタートの物語でもあり、「Ceremony」はこの作品に相応しいのだ。
この曲の歌詞は抽象的だが、イアン・カーティスが妻との離婚協議中に、妻への贖罪の念を込めたものだといわれている。イアン・カーティスは浮気をしていたが、一方で妻への愛情が完全に消えていたのかというとおそらくそうではなかったようで、三角関係に苦しんでいた。この三角関係と「遠い山なみの光」との共通点はないが、愛する存在を残しながら旅立った人間という意味で、景子はイアン・カーティスに重なるのかもしれない。
This is why events unnerve me
They find it all, a different story
Notice whom for wheels are turning
Turn again and turn towards this timeだから出来事は僕を不安にさせるんだ
人々はすべての中に、別の物語を見つけてしまうから
車輪が回っているのは誰のためか気づいてくれ
車輪はまた回転してこの時に向かっていくNew Order「Ceremony」
『遠い山なみの光』原作と映画の違い
ただし先述したように、景子がなぜ自殺したのかという点について、「遠い山なみの光」という物語は一切触れないのだ。ここにこの物語の不気味さがある。
映画版では、景子の自殺は不可避だったのだ、とニキが悦子を慰めて終わる。しかし、その一種のハッピーエンド的な(とは言えないとしても、残された母娘が結びつきを強めて再スタートを切るという)エンディングは、景子の自殺の責任を放棄したものとも受け取れる。というのも、一度小説の感想で書いたことがあるのだが、景子の自殺の遠因は悦子のイギリス移住だという指摘は避けられないと思うからである。
悦子の離婚理由
ちなみに原作小説では、悦子が二郎と離婚した理由というものは描かれないし、ほぼ示唆されていないと言ってよい(反りが合わなかったということはわかるが)。一方、映画では、離婚の原因が、悦子が被爆体験を隠していたからであることを示唆する描写がある。
そのため、悦子の離婚とイギリス人との再婚は、二郎から別れを切り出したのかもしれないと観客は思うのだが、それは本当だろうかというのは少し疑ってみたい。この作品の原作小説では、語り手の都合の悪いことは語られない。なので性格の悪い読み方をすると、悦子が浮気したのではないかという疑いを読者は持つのである。
恐ろしいことに、映画版でもその疑いは全くないのかというと、そうではない。まるで母娘の業を示唆するかのように、映画ではニキが不倫をしているのだ。原作ではそのような描写はなかったにもかかわらず。ニキの不倫という映画版で足された要素が何を意味するのかーーそれはやはり、悦子の離婚理由の示唆なのではないかと思ってしまうところがある。
悦子と佐知子は同一人物なのか
なお、この映画の重要な論点として、悦子と佐知子は同一人物だったのだというポイントがある。映画版だけを見た観客は、2人は実は同一人物だったのだと理解する人もいるかもしれないが、これについて原作を読んだうえでの私の意見としては、2人は完全に同一人物ではないということである(ただし、記憶上で混同が見られる)。
しかし、原作で2人が完全な同一人物でないと言える理由の一つが、佐知子の従姉(靖子)の存在なのだが、映画では靖子は存在しない。存在しないどころか、幻のような存在として描かれる。この点を考えると、映画だけを見た場合、2人は完全な同一人物という考察もできるのかもしれないがーーここではこれ以上考察は書かないことにする。
おわりに
長くなったが、「遠い山なみの光」は難解で一つの解釈を定めることができない作品である。しかし、映画に向いていない作品というわけでは決してなく、改めて原作を読むと「遠い山なみの光」という小説には映像化を意識したような描写がいくつも見られ、そしてその映像化にこの映画は成功していると思う。だが、重ねて述べると、この作品はいくつもの解釈ができる作品であり、そこが面白い点なのだ。
もしかすると「Ceremony」の歌詞の中にある「They find it all, a different story」という言葉こそ、「遠い山なみの光」という作品を最も象徴する言葉なのかもしれない。
最後に余談だが、映画で柴田理恵の存在感は非常に大きいものだったが、原作小説を読むと柴田理恵が演じたおばさん(藤原さん)のバックグラウンドも知ることができて、より理解が深まる。実は「遠い山なみの光」という作品で、最もできた人物といえるのは、この藤原さんかもしれない。興味のある方は、ぜひ原作の小説も読んでみてほしい。