ライナー・マリア・リルケの『マルテの手記』は、長編小説というよりは詩である。
作家志望だけど売れない青年の、悩みと回想をひたすらに吐露したような作品で、ストーリー性はない。
しかし、ストーリー性がないからといって、その作品が面白くないわけではない。
ともすれば精神を病んでいそうな青年の紡ぐ、美しい言葉の数々に、共感できる人は多いのではないか。
この作品について、私はまだその素晴らしさを十分には咀嚼できていないと思うが、素晴らしい作品であるということはわかる。今回は、少しでもこの作品のよさを紹介出来たら幸いである。
『マルテの手記』のテーマ
『マルテの手記』にあらすじはない。
強いて言うなら、ひとりの詩人を志す青年がパリに滞在した期間に思ったことを記したもの、というのがあらすじになるだろうか。
この作品は、その名前の通り「手記」の体裁をとっている。
日記であったり、書き損じの手紙であったりが、この作品を構成するーーだからそこに一貫したストーリーがあるわけではない。
だが、リフレインされる要素というものはある。それは次のようなものでありーーとにかく、すべてが心に突き刺さるような名言なのである。
主人公マルテという人物
主人公マルテは青年作家であり、詩人を夢見ているが、その夢は未だ果たされていないし、見込みもない。また、彼は家柄は良いのだが金はない。
そして、孤独である。
そんな主人公が、自分の存在というものについて考えるーーそれが、『マルテの手記』という作品である。
マルテの詩作や読書に関する考察は、どこか陰鬱さを持っていながら、われわれの心に刺さる名言ばかりである。
この作品のすばらしさは、名言を抜き出すことでしか紹介できないだろうから、一部を抜粋させていただく。
詩は人の考えるように感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。詩はほんとうは経験なのだ。
一行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣を知らねばならぬ。空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、朝開く小さな草花のうなだれた羞らいを究めねばならぬ。
詩人を志すマルテの思いが伝わってくる名文だと思う。
僕は世間の知人たちと交際するように書物と交際するだろう。
僕は自分が好きなだけの、一定の、楽しいなごやかな時間をそれに充てることができるだろう。むろん、中には特別にどれか一冊の書物と親密になって、ときどきはそのために三十分も一時間も思いがけぬ時間を費やすようなこともありそうな気がした。
なにか、読んでいて物寂しくなる。
古い日記を読み返してみるがよい。
まだ浅い日、訪れた新しい春の美しさが、きっと自分に対する一つの非難のように胸を刺すときがあったのを思い出すだろう。
「死」の恐怖
そして、マルテが自分の存在について考える際に不可避なことは、私たちの人生にとってもそうであるように、「死」である。
マルテは、母を失くしている。母の死や、祖父の死は、克明に描かれる。
そして、マルテは自身の死生観を少しづつ形にしていくと同時に、人々や自分自身の抱えている死への恐怖にも向き合っていくことになる。
ママンが死ぬのが祖母の気に食わなかったのだ。
絶対に口にするのも許されぬことが、今おおっぴらに行われているのだ。いつのことかわからぬにしても、もういつか死なねばならぬと覚悟を決めている年寄りの自分よりも、嫁のママンが遠慮会釈もなしに先に死んでいくのだ。
「死」への恐怖というのは、「得体の知れないもの」への恐怖でもある。
僕は生れて初めて、幽霊が怖いという恐れを覚えた。
今はっきり僕の目に映っている大人たちが、さっきまでなんの屈託もなく話したり笑ったりしていたのに、身をかがめて部屋じゅうを歩きまわり、何か目に見えぬものを捜している。
みんなが誰にも見えぬ何かを予感している。それが僕の心にはっきり刻まれた。何かわからぬものが大勢の大人たちよりも強いのだということが、僕には非常に恐ろしかった。
アベローネという女性の存在
さらに、自身の存在について考える際に、死と対照的ではあるが不可避なのは、「愛」ではないか。
マルテにとっても例外ではない。
マルテの初恋の相手はアベローネと言っていいのかもしれない。アベローネは、母の妹である。
アベローネ、僕はおまえのことを書きたくない。
それは僕たちが、お互いに偽っていたから書かぬというのではない。おまえは一生忘れえないただ一人のひとを、その時から愛していた。おまえは愛せらる女ではなく、「愛する女」なのだ。だのに、僕は女という女のすべてをおまえの中で愛していたのだった。
愛されることは、ただ燃え尽きることだ。
愛することは、長い夜にともされた美しいランプの光だ。
愛されることは消えること。そして愛することは、長い持続だ
「Comfortably Numb」の歌詞
ところで余談だが、Pink Floydの名曲「Comfortably Numb」(コンフォタブリー・ナム)には「子どものとき、熱を出して、両手がまるで二つの風船のように感じられたが、今またそれを感じる」という一節がある。
このエピソードは作詞したロジャー・ウォーターズの実体験によるものだといわれているが、『マルテの手記』には同様の記述がみられる。
その次にやってきたのは、例の病気の一つだった。
(中略)
熱は僕の体をえぐり、深いどこかわからぬ奥底から、僕の知りもせぬいろいろな経験や幻影や事実を引っぱりだして来た。
(中略)
しかし、僕の手の下から、それらはぐんぐん大きくふくれあがって、無理に抗ってきたりするのだ。
果たしてウォーターズがリルケの影響を受けていたのかはわからない。
だが、この本の世界観はピンク・フロイドの歌詞に通じるところもあると私は思う。その意味では、洋楽ファンにも薦めたい一冊である。
おわりに
この本は、詩人の書いた文章であり、普通の長編小説を読むつもりでいると面食らうと思う。
そして、ストーリーを求めた読者には、とてつもなくつまらない作品に思えるかもしれない。
だが、このような本を読む目的は、どれか一つでも自分の琴線に触れる文章を見つけることができるかどうか、というものではないのだろうか。
きっと、あなたが探していた名文に出会える。そんな本である。
特に人生に絶望している若者は、多くの文章に共感を見出すことができるのではないだろうか。この本がその救いとなれば、これ以上に嬉しいことはない。
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私が読んだのは新潮文庫版だが、おそらく光文社古典新訳文庫の訳は一番読みやすいと思われる。
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