ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』あらすじ・感想ー子どものままでいることの罪

ブリキの太鼓

ドイツのノーベル文学賞受賞作家、ギュンター・グラス(1927~2015)の代表作に『ブリキの太鼓』という作品がある。

映画化されているものも有名だが、この記事では原作の小説のみ取り扱う)

一行で解説すると、この小説は「主人公が生まれながらの超能力者で、三歳で自分の成長を止め、幼児の姿で激動の時代を生きる歴史小説」である。

この説明を聞いて面白そうだと思う方は多いと思う。私も、こうした概要を聞いてこの小説を読んでみようと思った。

しかし、読んでみるとかなり読みにくく変な小説である。海外文学を読みなれていない方には絶対におすすめできない小説である。私も読んでいる途中で何度も投げ出そうと思ったほどだ。

だが、読み終わってみると、不思議とまた読み返したくなる作品であった。摩訶不思議で難解な作品を読み終わる気骨がある方は、ぜひこの作品を読んでみてほしいと思うので、ここで紹介したい。

(海外文学ビギナーにおすすめの小説はこの記事をご参照いただきたい)

ブリキの太鼓 1 (集英社文庫)

『ブリキの太鼓』あらすじ解説

※ネタバレが気になる方は飛ばしてください。

語り手であり主人公のオスカル・マツェラートは、現在は精神病院に収容されている、小児ほどの身長しかない男である。

彼は、自分の看護人のブルーノに対して紙を買ってくるよう頼み、自分のことを小説にして書き記す。

第一部

物語は、オスカルの母方の祖母であるアンナ・ブロンスキーが、オスカルの母アグネスを生むところから始まる。

(アンナ・ブロンスキーというと『アンナ・カレーニナ』を連想する人が多いかもしれないが、あまり関係ないように思う)

祖母アンナは、放火犯人としてお尋ね者になっていたヨーゼフ・コリヤイチェクを、自らのスカートの中に匿う。

こうして、オスカルの母アグネスは生まれる

大人になったアグネスは、料理人のアルフレート・マツェラートと結婚する。

アルフレートは第一次世界大戦後、物語の舞台・ダンツィヒで小さな食料品店を経営する。

ダンツィヒは第一次世界大戦後、国際連盟によって保護された「自由都市」になっていた。

1924年に、この家庭に生まれたのが、主人公のオスカル・マツェラートである。

(ただしアグネスは、従兄弟のヤン・ブロンスキーとの関係も疑われている。作中でアルフレートは「父」であるが、ヤン・ブロンスキーは「推定上の父」と呼ばれる)

オスカルは、生まれながらにして知的に成熟していた。

ぼくは、精神の発達が誕生のときにすでに完成してしまい、ただそれが後で確認されるにちがいないような耳ざとい嬰児の一人なのであった。

オスカルは、この世に生を享けてか初めて両親の言葉を聞く。

「男の子だ」

「この子は後でいつか商売を引き継いでくれるだろう。今やっとおれたちがこんなにあくせく働いている意味がわかった」

「オスカルが三つになったら、ブリキの太鼓を買ってやろう」

これを聞いたオスカルは、ブリキの太鼓を買ってもらえる三歳までは成長するが、食料品店を継ぎたくはないので、それ以上は成長しないことを心に決める

オスカルが生まれてから三歳までのあいだ、マツェラート夫妻は、平穏な日々を過ごす。

オスカルは三歳になり、約束通りブリキの太鼓を買い与えられる。

そしてオスカルは計画通り成長することをやめるが、自分の成長が止まったもっともらしい口実として、わざと階段から落ちて頭部にけがをする

しかしこれは、両親の関係に亀裂を入れる行為でもあった。

成長が止まったことに対する理由とすることができたばかりでなく、おまけに、まったくかんがえもしなかったのだが、あの善良でお人よしのマツェラートを罪人マツェラートにしてしまったのである。

母は、夫マツェラートが扉を開けっ放しにしていたせいでオスカルが怪我をしたと責め立てたのである。さらにオスカルの成長が止まったため、両親の関係は一層不安定になる。

またオスカルは、高音を発してガラスを破壊する能力を身に着け、思うがままにふるまう。

1938年の聖金曜日、オスカルと両親は、馬の死体を使って鰻の漁をしているのを見る。アグネスはこの光景に吐き気を催す。

しかしこの二週間後、妊娠していたアグネスは狂ったように大量の魚を食べ始め(過食症)、中毒で死んでしまう。

間もなく、ナチスドイツによるポーランド侵攻が始まり、自由都市であったダンツィヒもナチスに攻められることになる。

第二部

第二部前半は、郵便局でのナチスとの戦いである。

この戦いでナチスに敗れ、「推定上の父」ヤン・ブロンスキーは、ナチスに処刑されるが、オスカルらは助かる。

父アルフレートの雑貨店に雇われていた女性マリーアは、アルフレートの二番目の妻となるとともに、オスカルの初恋の相手となる。

マリーアは子ども(クルト坊や)を出産する。

父アルフレートは、ナチスのポーランド併合後、ナチ党に入党した。

しかし、ナチスも旗色が悪くなり、ついにダンツィヒの街はソ連軍の手に落ちる。

アルフレートはナチスとの関係を否定するために党員バッジを飲み込もうとするが、失敗して発作をおこし、処刑される

終戦後、オスカルとマリーア、クルトは、ダンツィヒを離れてデュセルドルフに向かう。

オスカルは成長することを決め、高音でガラスを破壊する能力は失うが、90センチほどの身長から120センチほどの身長になる。

第三部

オスカルはマリーアとは離れて暮らすようになる。

オスカルは石を彫ったり、モデルになったり、音楽をしたりして生計を立てる。

幼少よりブリキの太鼓をたたいていたオスカルは、ジャズドラマーとして名声を得ることになる。

だがある時、オスカルは散歩中に「人間の指」を見つけたことで、殺人事件の容疑者として収容される。

しかし精神障害と診断され、精神病棟に収容されるのである(=物語の書き出しの状態)。

しばらくして殺人事件の真犯人が見つかり、オスカルは釈放される見込みが高くなるが、オスカルはむしろ不安に襲われる。

いったいオスカルは、この精神科病院から強制的に追い出されてしまったら、そのあと何をしようというつもりなのか?

そしてオスカルに現実の影が迫る。

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『ブリキの太鼓』感想・考察

以上が『ブリキの太鼓』のあらすじである。長々と書いてしまったが、これでも大部分を割愛している。

この作品は文庫本で全三巻と長いうえに、個別的なエピソードで構成されているので、紹介しきれない話が多いのだ。

ここからは『ブリキの太鼓』の感想・考察に入りたいが、この作品で最も大きな存在感を放っているのは、主人公オスカルの造形だろう。

主人公オスカルという人間

主人公オスカルは、冒頭でもあらすじでも述べたように、生まれながらにして大人と同程度の知力を持っており、常人とは違った超能力も持っている。

つまり、自分の意志で自分の成長を止める能力と、高音でガラスを破壊する能力である。

ところで『ブリキの太鼓』の文学技法的な話をすれば、オスカルは「信頼できない語り手」であり、オスカルの言っていることは真実ではない可能性がある

『ブリキの太鼓』の作中でも、後から真相が明かされることがあるように、オスカルは自分に都合のいいように話を進めている場合があるのである。

作中でも、「僕」という一人称で話すときと「オスカル」という三人称で語ることがあることからもわかるように、オスカルの語りは信頼できない。

このようなわけで、もしかするとオスカルが「自分で成長を止めた」と言っているのは嘘の可能性もある。

しかし、ここではそのようなこと関係なしに、「なぜ作者ギュンター・グラスは、オスカルという主人公を作り出したのか」ということについて考えてみたい。

現実に目を背ける

あらすじでも紹介したように、オスカルは、二人の「父」と母を失っており、また他にもオスカルの周辺人物はどんどん死んでいく。戦争という事情もあるが、この作品では不条理に死んでいく人が多い。

オスカルは、作中で周辺の人物が死んでも、非常に淡々としている。

しかし、物語第三部になって、彼らの死について懺悔することになる。

オスカルが成長し続けていたら、母が命を落とすことはなかったかもしれないし、二人の「父」の死に際しても、オスカルは何も彼らを助けようとしなかった。

このようなことからも、オスカルは現実に目を背ける人間を象徴する人間なのではないかと思う。

ギュンター・グラスは、第二次世界大戦を経験した人間だ。かつて少年時代に自身がナチスに与した過去の懺悔もあるのかもしれないが、『ブリキの太鼓』のオスカルという主人公からは「子どものままでいること」、言い換えれば「常に誰かの庇護を受けようとすること」や「現実から目を背けること」への作者の痛烈な批判を感じた。

しかし、物語終盤で、オスカルは現実に直面しなくてはいけなくなるのである。

『ブリキの太鼓』最終章の考察

物語最終章では「黒い料理女」(「黒い料理人」)という言葉が頻出する。

正直なところ、読んでいた時は意味不明であった。

だが「黒い料理女」というのは、ドイツ文化的には「死神」を表すようである。

しかしオスカルは「死」が怖いのとは違う。

「死」を意識すること、それは現実と向き合って生きていくことである。オスカルは、やはり現実が怖いのだ

オスカルは最後まで現実から目を背けたがるが、私たちは現実に目を向けないといけないのである。

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おわりに

「成長を止める能力」を手に入れられたらどんなによいことか、と思ったことは私にもある。しかし、もう現実に向き合わないといけないのだ。

『ブリキの太鼓』は、決して積極的に「現実に向き合おう」と思わせてくれる小説ではないが、人生の意味について考えさせてくれる小説であることは確かである。

最初に書いたように『ブリキの太鼓』を読むには根気がいる。だが、それでも興味を持ってくださった方は、この奇抜で複雑で、一方で深い内省をもたらす小説を読んでみてほしい。忘れられない小説になることは間違いない。

◆集英社文庫版は全三巻。

◆池澤夏樹の世界文学全集の池内紀訳は単行本だが、訳は新しい。

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