フィリップ・K・ディックの小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、1968年に刊行されたディストピアSFの傑作で、映画『ブレードランナー』の原作(というよりは原案)としても知られている。
だが、この作品は、その題名は非常によく知られている一方で、「名前は知っているけれど、読んだことはない」という人も多いのではないだろうか。
そんな人には、ぜひ『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読んでみてほしいと思う。というのも、この小説は半世紀以上前に書かれたものではあるが、現代にも通じるテーマを扱っているからである。
そのテーマとは、「人間とアンドロイドを分けるものとは何なのか」ということである。
この記事ではこの小説について概要を紹介しつつ、最終的には、この『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という非常に有名なタイトルが何を意味するのかについて考察していきたい。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』登場人物・あらすじ
物語の舞台は、放射能によって荒廃した未来の地球。多くの人々は火星などの他の惑星へ移住し、地球にはわずかな人々と動物、そしてアンドロイドが残されている。アンドロイドは非常に精巧で、「フォークト・カンプフ法」というテストによってしか区別することができない(これについては後述する)。
またこの世界では「本物の動物」は非常に貴重で、本物の動物を所有しているということは、ステータスになっている。主人公のリックも、「本物の羊」のオーナーになることを夢見て、危険な任務に挑んでいるのである。
この小説のあらすじを紹介するにあたって、あらすじ紹介も兼ねて登場人物について整理したい。
またこの記事には『アンドロイドを電気羊の夢を見るか?』のネタバレが含まれるので、ネタバレが嫌な方はあまりネタバレをしていないこちらの記事か、あるいは原書を読んでいただきたいと思う。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』登場人物
ここで主な登場人物を整理したい。
リック・デッカード……主人公。サンフランシスコ警察署の職員で、逃亡したアンドロイドを「狩る」賞金稼ぎ。既婚者だが、妻のイーランとはうまくいっていない。
物語は、8人のアンドロイドが火星を脱走して地球に侵入したことから始まる。2人のアンドロイドは始末されたが、残りの6人の処理をリックが担当させられることになる。リックは任務の手始めに、逃走した「ネクサス6型」アンドロイドの製造元である「ローゼン協会」を訪問する。
エルドン・ローゼン……ローゼン協会の重役で、レイチェルの叔父。ローゼン協会はアンドロイドを製造している会社なので、逃亡したアンドロイドを破壊する賞金稼ぎについては、複雑な思いを抱えている。
レイチェル・ローゼン……アンドロイドを製造しているローゼン協会の職員。18歳。彼女を「フォークト・カンプフ法」にかけると、アンドロイドという結果が出る。
ウィルバー・マーサー……作中世界の宗教「マーサー教」の教祖。マーサーに感情移入し“共感”することがこの宗教のテーマとなる。
ジョン・イジドア……J・R・イジドアとも。荒廃したビルにたった一人で住んでいる。特殊者(スペシャル=放射能による遺伝子異常などで、検査にパスできなかった者。人権が大きく制限される)で、トラックの運転手として生計を立てている。
物語の構造としては、リックを軸にするストーリーと、イジドアを軸にするストーリーの2つがあり、それが交差するという形をとっている。イジドアのストーリーについてはこの記事では割愛する。
やはり物語として重要なのは、リックとレイチェルの関係である。
この記事でも、この2人の関係を軸に『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という小説について考察をしていく。
フォークト・カンプフ法とは
この小説には「マーサー教」など、特殊な用語がいくつかあり、独特な世界観こそが作品の一番の醍醐味になっている。前置きが長くなるが、ここでは「フォークト・カンプフ法」という用語について、どのようなものか紹介したい。
先述の通り、「フォークト・カンプフ法」というのは、アンドロイドと人間を見分けるためのテストである。
いったいこのテストとはどのようなものなのか。作中の、リックがレイチェルに「フォークト・カンプフ法」について説明するシーンを紹介する。
「見学させてほしいわ」レイチェルが椅子にすわりながらいった。「感情移入度検査なんて、実地に見たことがないから。そこにあなたが持っているのはなんの検査器具?」
「これでーー」リックはリード線のついた小さな接着用円盤を上にかざして、「ーー顔面毛細血管の拡張度を測定する。自律神経の一次反応といわれるもののひとつで、平たくいえば、道徳的にショッキングな刺数に対する、”恥ずかしさ”とか”赤面”の反射運動だ。これは、皮膚の伝導性や、呼吸や、脈搏とおなじように、随意に制御できない」もうひとつの器具であるペンシル・ビームの光源を見せて、「こっちは、眼筋の緊張の変動を記録する。たいていの場合、赤面現象と同時に、眼筋にもわずかだが探知できるだけの変化がーー」
「そして、アンドロイドにはそれがないわけね」とレイチェル。
「刺激質問では生じてこないね、たしかに。ただし、生物学的には存在する。潜在的には」
レイチェルはいった。「わたしをテストして」
「なぜ?」リックはめんくらってききかえした。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』61ページ
より具体的にこのテストの内容を説明すると、このテストは被験者に「非倫理的な質問」(たとえば、「きみは誕生日の贈り物に子牛革の札入れをもらった」というような、動物を殺めることを想起させるような質問)を浴びせる。
人間であれば不随意的に嫌悪感を示す生理反応が出るが、アンドロイドの場合、「感情移入能力」が欠落しているまたは不完全なので、嫌悪感を示す反応が自然に出ないことがあるのだ。
この世界のアンドロイドは非常に精巧に作られているので、見た目では人間かアンドロイドかを判別することはできないのだ。さらに、精巧に作られたアンドロイドの中には、自分が人間だと思っている者すらいる。
だからリックは、レイチェルがアンドロイドだとは思っていなかった。しかし、レイチェルに「フォークト・カンプフ法」のテストを行うと、アンドロイドという結果が出るーーレイチェルはアンドロイドだったのだ。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』あらすじ
ここまで書いた内容で、リックがローゼン協会を訪問するまでのあらすじの紹介ができた。
リックはレイチェルと出会ったことで、人間とアンドロイドの境界は何なのかを考えるようになりながら、逃亡したアンドロイドを処理するという任務をこなしていく。
アンドロイドのマックス・ポロコフ、そしてとあるオペラ歌手との出会いーーリックは次第に、自らの記憶や使命についても、疑問を抱いていきようになる。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』のテーマとは
では、フィリップ・K・ディックがこの小説を通して描きたかったものとは何なのか。そして、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」というタイトルの意味とは何なのか。
人間とアンドロイドの違いは何なのか
リックがアンドロイドと人間の境界について考えるようになるきっかけとなったのは、アンドロイドだけではない。
先ほどの登場人物紹介では取り上げなかったが、フィル・レッシュという賞金稼ぎの存在は、リックにその境界を考えさせることになる。
フィル・レッシュは、アンドロイドを躊躇なく殺す。そこに、リックは自分との違いを感じる。
きみは殺すのがたのしくてたまらないんだ。それには口実さえあればいい。
リックは、フィルがアンドロイドであることを願うが、検査の結果人間であることが分かる。
ちなみにフィル・レッシュはリスを飼っており、ここで「本当の動物が稀少」という設定が、物語的にも意味を帯びてくる。本当の動物を飼うと言うことは、ブランド品的な価値はもちろん、その飼い主が「共感能力を持つ」ことの証明でもあるからステータスとして意味を持つことになるのだ。
しかし、リックが出会った高性能アンドロイドの方が、ある種フィルよりも「人間的」であったのだ。
そもそも、アンドロイドたちが逃亡する理由な何なのか。それは、自由や夢を求めて逃亡するのである。アンドロイドたちには夢があるのだ。
彼らは人間と同じように感じ、考えることができるにもかかわらず、人権はない。
リックは、人間もアンドロイドに対して共感するべきなのではないかと考え始める。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』ラストの考察
ここで唐突に飛んでしまうが、物語の結末部分について考えてみたい。
物語のラスト、リックはレイチェルを殺すことができず、賞金稼ぎに向かう。そこでは、レイチェルそっくりのアンドロイドも処分するーー。
リックが家に戻ると、レイチェルがリックが買ったヤギを殺していたのだ。
取り乱すイーランを慰めるように、リックはこう言う。
「無益じゃないさ。なにか、あの女なりの理由があったんだろう」アンドロイドなりの理由がーーと彼は思った。
と。
この山羊の殺害は何を意味するのか。
ではこのシーンは、レイチェルが、たとえば(作中に出てくる)クモを殺すアンドロイドのように、共感する能力に欠けた徹底的に人間と分かり合えないアンドロイドだった、ということを表すのだろうか?
それも解釈の一つだろう。だが、私はそうだとは思わない。
レイチェルがこう自嘲するように、彼女が山羊を殺害した一つの理由は嫉妬だろう。
「あなたはわたしよりもその山羊を愛してるのね。たぶん、奥さんより以上に。一が山羊、二が奥さんで、その次がーー」
このような感情は、人間も持っているものだろう。また、ある意味においてリックの感情を理解していないと「ヤギを殺す」という発想は出てこないだろうから、レイチェルは「共感能力」を持っているといえるのではないか。
そしてもう一つは、リックの「アンドロイド殺し」への抗議、復讐なのではないかということである。
リックは、山羊を大切に思うことができるが、結果的にアンドロイドにその慈愛の心を向けることはない。リックはアンドロイドに共感するべきだと思い始めてはいるが、やはりアンドロイドを殺すのだ。
リックはレイチェルとの別れの際、レイチェルの「アンドロイド性」を強調する。これは、アンドロイドと人間のわかりえなさを強調しているシーンだとも読めるだろうが、私は違う読み方ができると思う。リックは、自分がレイチェルのようなアンドロイドとは違うと、自分に言い聞かせているのではないだろうか。
(なお、作中で人間がアンドロイドに共感することは許されないのは、アンドロイドが人間を支配するようになることを恐れてという事情もある)
つまりリックは、「アンドロイドは人間とは違う」理由を見つけようとしているのだ。でも、アンドロイドと人間のどこが違うのか? アンドロイドは、羊よりも価値のない存在なのだろうか? レイチェルは、羊の命の方がアンドロイドの命よりも圧倒的に重視される世界への抗議を投げかけたのではないだろうか。
ただ、レイチェルは、羊という生き物に対する共感能力がなかったのかというと、そうではないのではないかと思う。羊の命を奪うことへの良心の呵責はあっただろう(ただ、「実際の羊」と、アンドロイドと同じ境遇である「電気羊」とであったら、電気羊の方により共感を覚えていたという可能性はあるのではないかと思う)。
一方、アンドロイドを殺す人間に良心の呵責はあったのかーー? レイチェルが投げかけるのは、その非対称性への抗議でもあるだろう。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』タイトルの意味
これまでの内容をまとめると、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」というタイトルの意味は、こう説明することができると私は思う。
人間は羊の夢を見る。そして、羊という命あるものに共感することができる。なぜなら、同じ生命を持つもの同士だからだ。
翻って、アンドロイドに置き換えて考えると、どうなるのか。もちろんそうでないアンドロイドもいるが、
アンドロイドも夢を見ることができる。アンドロイドの中には、同じ電気生物である電気羊に共感できる個体もいる。
だから、「アンドロイドは電気羊の夢を見る」のだ。
そして、人間はアンドロイドに共感するべきなのだろうか。また、アンドロイドと人間を分けるものが共感能力だとしたときに、共感能力のない人間と共感能力を覚えたアンドロイドはどう区別されるのか。共感能力のあるアンドロイドを、アンドロイドだからという理由だけで殺さなくてはならないのかーー。
つまり「電気羊の夢を見るアンドロイド」を殺すことは正当なのか?
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」ーーその質問の答えが「Yes」だった時に、われわれはどう考えればよいのか。この作品は、そうした問いを投げかけているのである。
おわりに
ここまで考察を書いておいて言うことではないかもしれないが、これは解釈の一つであり、異論はもちろんあるだろう。
またそもそも、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という小説は、世界観が非常に優れている小説である一方、読者に一意の解釈を求める小説ではない(特に、レイチェルの自意識については、プロットに揺らぎがあると批判されることも多い)。
しかし、だからこそ『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』という小説は面白いのである。
そして何よりも、この小説は「人間とは何か」「アンドロイドは何か」ということを考えさせてくれる。
人間がAIとどうかかわるのかが喫緊の課題になっている現代に、ぜひ多くの人に読んで欲しいと思う。
※なお、もちろんですが、この記事はAIではなく人間が執筆しています。