映画『ドライブ・マイ・カー』を観たので、今更ながら感想を書こうと思う。
この映画は、村上春樹の短編集『女のいない男たち』に所収されている短編「ドライブ・マイ・カー」を原作とする、濱口竜介監督による映画である。カンヌ国際映画祭で脚本賞も受賞した。
上映時間が180分近い大作なのだが、まったく飽きることのない映画であった。
今回はこの映画について、原作との違いを交えながら、その魅力を紹介したいと思う。
※大々的なネタバレはありませんが、一切のネタバレが気になる人は読むのをお控えください。
読んでから見るか、見てから読むか
いきなり私事で恐縮だが、私は割と原作がある映画については、「読んでから見る」方である。
私は普段映画よりも読書に時間をかけているので、映像化される前に原作をすでに読んでいることも多いという理由もある。
しかし、原作小説を読んで「映画との違い」を感じるよりも、映画を観て「原作との違い」に思いをはせる方が、個人的には好きな気がする。だから、「この映画を観よう」と思ったときに、原作を読んでから映画館に向かうことも多い。
この『ドライブ・マイ・カー』も、その例にたがわず原作を読んでから観た映画である。村上春樹の長編小説はいくつか読んだことがあったが、短編集である『女のいない男たち』は読んだことがなかったのだ。だから、映画を観る直前にこの短編集を読んだ。
そのようなわけで、私は『女のいない男たち』の鮮烈な印象を残したまま映画館に向かったのであるが、それは失敗だったかもしれないし成功だったかもしれない。
『ドライブ・マイ・カー』の原作との違い
村上春樹の原作「ドライブ・マイ・カー」は短編である。それだけでは、長尺の映画にはなりえない。
だから、映画『ドライブ・マイ・カー』は、原作に色々なものを足している。
映画オリジナルのモチーフも多いが、原作が収録された短編集『女のいない男たち』に収録された他の短編の要素が挿入されていることもある。
映画『ドライブ・マイ・カー』の素晴らしさは、原作「ドライブ・マイ・カー」の人物造形や設定をうまく生かしつつ(もちろん改変されているところは多いが)、この短編小説を長編の映画に増やしているところにある。
この「増やし方」が、ものすごく上手いと感じた。
「チェーホフの銃」
ところで「チェーホフの銃」という言葉がある。
村上春樹の『1Q84』にも次のような台詞があるので、ハルキストの皆さんにはおなじみだろうが、つまりはこういうものである。
「チェーホフがこう言っている。(中略)物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはいけない」
ロシアの劇作家チェーホフが言及したルールであり、物語を書く上で意味ありげに登場したモチーフは、必ず伏線として回収されないといけないというものだ。
具体的な展開のネタバレは避けるが、たとえば岡田将生演じる「高槻」(原作よりも若く設定されている)は、原作とは違い自分のコントロールができない人物であると描かれる。
高槻は物語の前半で、バーで自分の写真を隠し撮りした客に激昂するシーンがある。これは高槻の自制心の幼さを描くシーンでもあるが、物語後半の伏線にもなっている。
このように、映画『ドライブ・マイ・カー』を読んで感嘆させられたのは、一切の無駄な要素がないというところである。
映画を観た後に「あのシーンはいらなかったよね」と思えるシーンが全くと言っていいほどないのだ。それは、この作品が3時間に及ぶにもかかわらず、観ていて飽きなかった理由だろう。
ちなみに映画では、チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』が重要な位置を占める。演出家かつ俳優である主人公が演じるのが、この戯曲なのだ。
作中でチェーホフを大きく取り扱う以上、「チェーホフの銃」は普通の作品よりも一層強く意識されたのかもしれない。いずれにせよ、この作品は無駄がないのだ。
テーマのすり替わり
このように『ドライブ・マイ・カー』は、原作を「非常にうまく増やした」作品である。
しかし実は、映画では原作から「減らしている箇所」もある。
これは、私が映画を観ていてずっと気にかかっていた部分である。
じつは、原作の「ドライブ・マイ・カー」と、映画の『ドライブ・マイ・カー』では、一番重要なテーマが違うのである。
原作も映画も、「良好な関係を築いていたはずの妻(すでに死別している)が、生前自分以外の男と関係を持っていたことに苦悩する男」を描いた作品である。
そこに変わりはない。
原作では、男の「なぜ、このような軽薄な男と妻は関係を持ったのか?」ということに悩むのが究極的なテーマであり問いである。
しかし、映画では違うのである。
原作では、浮気相手の「軽薄さ」が問題なのであるが、映画はそうでない。
むしろ映画では、原作が収録された短編集『女のいない男たち』収録の別の短編のテーマが、一番重要なテーマになっているのである。
私は原作の小説は読んでから映画館に行ったが、映画のネタバレ口コミなどは観ていない。別の短編もモチーフになっていることには映画が始まった瞬間に気が付いたが、まさかテーマがすり替わっているとは夢にも思わなかった。
しかし今考えてみれば、このテーマのすり替わりは、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』の内容と関連しているのだろうと思う。物語的に『ワーニャ伯父さん』が深く絡む以上、このテーマのすり替えは脚本的に妥当に思う。
原作を読んでから観ることの利害
この記事の冒頭で、私はこう述べた。
私は『女のいない男たち』の鮮烈な印象を残したまま映画館に向かったのであるが、それは失敗だったかもしれないし成功だったかもしれない。
私が「失敗だったかもしれない」というのは、原作の主題がすり替わっているとは思わなかったからである。
つまり、私は「最終的にクライマックスはこうなるのだろう」という、先入観を持って映画を観てしまったのである。
そのせいで、私は映画の多くの描写に疑問を持ってしまった。
「なぜ、ここをもっと描かないのか?」というように。
しかし、その思い込みは完全に間違いだったのである。
この思い込みが間違いだったことに気づいた時に、私は「なぜこうしないのだろう?」とこの映画にケチをつけていたことを恥じた。
このように先入観を持ってしまうことがあるのは、原作小説を先に読んで「失敗だった」と思う部分である。
だが、その先入観が思い込みによる感想だったと気づいたときに、今までもやもやしていたものが雲散霧消していく感動は、先入観という「失敗」を打ち消してくれるものだった。
とはいえ、やはり原作を読んでから映画を観る場合には、ぜひ上手に先入観を消してほしい。
そのうえで「どういう結末が待っているのか」を楽しみにしてもらえれば、素晴らしい体験になると思う。
「読んでから見る」派の人には、ぜひそうした心構えで見ることをおすすめしたい。
おわりに
ここでは原作との違いについて力点を置いてしまったので言及しなかったが、もちろん映画『ドライブ・マイ・カー』は映像も非常に美しく、また俳優の演技力も光る作品である。
そしてこの記事にも書いたように、原作の小説と比較すると楽しめる作品でもある。この記事を読んでしまった場合、私のような思い込みをすることはないので、ぜひ、「読んでから見るか、見てから読むか」してほしいと思う。
ちなみに原作が収録された『女のいない男たち』の短編集の中では、私は「イエスタデイ」が一番好きであるが、この掌編は映画『ドライブ・マイ・カー』のモチーフにはなっていない。
▼劇中に登場した劇は、チェーホフの『ワーニャ伯父さん』(光文社古典新訳文庫)と、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』(白水Uブックス)。
『ドライブ・マイ・カー』というタイトルは、もちろんビートルズの『Rubber Soul』の冒頭曲「Drive My Car」に由来する。この次の曲が「ノルウェイの森」。
『ワーニャ伯父さん』の紹介記事。