海外文学はそれなりに読んできたが、カフカはいまいち「わからない」という感想を持っている作家だ。
しかし、むしろ、わからないところがクセになるともいえる。面白さがよくわからなくても、読み終わると「すごいものを読んだ」という気持ちになる。
そのような中で、カフカの『変身』は、すぐに読み終わる短編ということもあり、比較的面白く読むことができる。
今回は、この有名な作品について書いていきたい。
カフカ『変身』あらすじ解説
軽くあらすじを紹介する。
第一章
物語は、次のような有名な書き出しから始まる。
グレゴール・ザムザはある朝、なにやら胸騒ぐ夢がつづいて目覚めると、ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫に代わっていることに気がついた。
主人公・グレゴール・ザムザ(グレーゴル・ザムザ)は、ある朝ゴキブリのような虫に変身してしまったのである!
グレゴールは、商社で布の販売員をしている青年である。この日も電車に乗って出張しなければならなかったが、毒虫に変身してしまったので行くことができない。それに、家族にも自分の姿を見せることができない。
そうこうしているうちに、電車に乗らなかったことを不審に思った支配人(部長)が家まで訪ねてくる。
仕方なくグレゴールは部屋の鍵を開けるが、支配人も家族も驚愕し、支配人は逃げ出してしまう。
第二章
グレゴールがもとの身体に戻ることを家族は願い、妹のグレーテが毒虫・グレゴールの世話をする。
しかし、グレゴールの身体は一向にもとに戻らない。グレゴールは自分の食物の嗜好が人間の好みから、虫の好みへと変化していることに気づく。
また、家族は毒虫のことをグレゴールだとは思っているものの、その姿に強い嫌悪感を抱く。
グレゴールがひとたび姿を見せれば母親は失神してしまい、それを見た父親はグレゴールのことを殺そうとする。
第三章
一家の働き手のグレゴールを失ったザムザ一家は、しばらく労働から離れていた父が銀行での事務員の職を見つけたり、また母と妹も働くようになる。また、部屋も3人の男に間貸しするようになる。
しかし、グレゴールの身体は毒虫のままである。グレゴールの処遇に頭を悩ませたザムザ一家は、ついに決断をする……。
カフカ『変身』感想・考察
以上が、『変身』のあらすじである。
ここからは、『変身』の感想について記していきたい。
グレゴール・ザムザという社畜
『変身』を読んでいて個人的に面白いのは、グレゴールが「毒虫」に変身してしまった後も、仕事をしよううとしているところである。
当然かもしれないが、冒頭でグレゴールは、自分の姿が毒虫になってしまったのは「悪夢」としか思っていないので、この発想は自然かもしれない。
今日の自分の錯覚や幻影にしても、どのみちいつか雲散霧消していくものと、すでにして彼は心待ちにしていた。
物語中、グレゴールが自分の体が「毒虫」に代わってしまったのが「悪夢」ではないことに気づくのがいつなのかは明確には書かれていない。
しかし、身体が本当に「毒虫」になってしまったことに気づいてからも、グレゴールは仕事に行こうとするのは確かである。
すぐに着がえて、食事のサンプルは鞄にしまい、出かけることにいたします。
毒虫の姿となったグレゴールが、「仕事をします」と支配人に主張しているシーンは、シュールでもある。
しかし、これはシュールではあるけれども、笑えなかった。
グレゴールは、嫌々ながら会社にすべてをささげてしまっている。現代風に言えば、グレゴール・ザムザは「社畜」なのだ。
「社畜」の末路
そう考えると、『変身』は「社畜」の末路を描いた作品のように思われてくる。
もちろん『変身』には色々な読み方やメタファーの解釈があるが、私がここで書くのも一つの読み方だろう。
グレゴールが、仕事を嫌々していたことは作中でも頻繁に描かれる(しかし、彼に仕事を辞める気はなかった)。
なんて、ストレスのかさむ仕事を選んじまったんだろう!
グレゴールは、営業マンの仕事をするごとに精神をすり減らしていった。
そこで、ついに「毒虫」になって働けない体になってしまったのだ。
身体が「毒虫」になってしまうのはファンタジー的だが、急に「働けなくなってしまった」と考えれば、それは鬱病などでよくある話である。
『変身』は、急に働けなくなってしまった社畜の話として考えると、なんだか身近な話に思えてくるのではないだろうか。
カフカの『城』も「職業」がテーマの一つの作品であったが、『変身』も「職業と人間」について考えさせられる物語である。
父親との関係
しかし、いくら作中ではグレゴールがゴキブリのような「毒虫」の姿になってしまったとはいえ、「毒虫」になってしまったグレゴールに対する家族(特に父親)の反応は、けっこうひどい。
毒虫となったグレゴールに、父親はリンゴを投げつけて殺そうとする。
現実世界では人間が毒虫になってしまうことはないので単純に置き換えることはできないが、「働くことができなくなって引きこもりになった息子を殺そうとする父親」と考えると、かなりひどい話である。
しかし、読者の皆さまもご存じのように、現代の日本では「引きこもりの子どもを殺そうとする親」は、実際に存在するのだ。
少し話がそれたが、私は『変身』の物語において、グレゴール・ザムザは、父親と良好な関係を築くことに失敗しているという前提があると思う。
それはおそらく、父親にも問題がある。
しかし、もしかすると「社畜」時代のグレゴールが、家族を顧みることができなかったことも理由なのかもしれない。
仕事に追われて体を壊したら、仕事に追われていたせいで家族関係が疎遠になっており、世話をしてもらうことができない。
『変身』は、現代的に読み替えればそんな「悲劇」と読めるかもしれない。
おわりに
いろいろと書いてきたが、私はここに書いた解釈が正しいと主張する気は全くない。ただ、こういう読み方もできるかもしれない、という読書感想文を書き記しただけである。
『変身』は、色々な読み方がある。
もしかするとグレゴール・ザムザは毒虫になっていたのではなく死んでいて、物語はザムザ一家がグレゴールの喪失を受け入れる物語なのかもしれないーーなんて考察もできるかもしれない。(その場合、むしろ父親は「まとも」であり、非常に美しい物語なのかもしれない)
そのように色々な読み方も可能な作品だからこそ『変身』は傑作なのであり、多くの人に読んでもらいたいと思えるような作品なのである。
短くてすぐ読めるので、ぜひ興味を持った方は一度読んでみてほしい。
▼本記事は岩波文庫版に依拠した。
▼なお、古い訳で構わなければ、青空文庫(無料)でも読めるし、グーテンベルク21版はKindle Unlimitedで読める。