ジェーン・エアといえば、古典的・典型的なシンデレラ・ストーリーと思われている人も多いだろう。
それは一面では誤りではないのだろうが、この古典的名作をそのように表層的にしか読まないというのには個人的には反対である。『ジェーン・エア』は、作品が書かれた当初にどのような意義があり、また現代においてはどのように読むべきなのかを主体的に考える価値がある作品だと思うからである。
(なお岩波文庫ではジェイン・エアだが、この記事ではジェーンに統一する)
「ジェーン・エア」あらすじ
長くなったので、別記事に分けました。
『ジェーン・エア』考察
それでは、『ジェーン・エア』の考察に入っていきたい。
「女性の自立」の物語としてー同時代的観点から
ジェーン・エアが現代でも読み継がれている理由は、それが歴史上の「女性の自立」における金字塔的作品だからであろう。
作者シャーロット・ブロンテは女性であるが、当時この『ジェーン・エア』を「カラー・ベル」という筆名(男性とも女性ともとれる)で書いていた。
19世紀のイギリスでは、女性には文学は書けないという偏見が根強かったからである。だが、『ジェーン・エア』は大評判を呼ぶことになり、結果として「女性に長編小説は書けない」という観念が誤りであることを証明したのである。
ほかにも19世紀のイギリスではメアリー・アン・エヴァンズがジョージ・エリオットの名前で創作活動をしているように、女性が男性風の筆名で創作することはイギリスではよくあることであった。
女性がそのような偏見から脱するのには、次の世紀(あるいはその次の世紀)にならなければいけなかったのである。
ジェーン・エアという女性
そのような成立的な意義を持つ『ジェーン・エア』だが、もちろん内容面でも面白く、意義がある。
この作品は、作者シャーロット・ブロンテの人生を大きく投影した作品である。
作者シャーロット・ブロンテが女性には文学は書けないという偏見を打ち破ろうとしたのと同様に、主人公ジェーン・エアも「自立した女性」である。
あらすじにも引用したジェーンの幼少期の台詞を、ここでも紹介したい。
リード夫人は、(中略)夫が死んでからなんの関係もなくなった厄介者を、どうして愛することができるだろう?
自分が愛することのできない見知らぬ子供の親代わりになるという、無理に強いられた約束に縛られていることを感じ、 自分の家族のなかに永久に割り込んできた気の合わないエトランゼを世話せねばらぬとは、何とも煩わしいことであったに違いない。
ジェーンは孤児であり親戚に養育されているのだが、血のつながっていた親戚(リード氏)が亡くなると、養育者のリード夫人は赤の他人になってしまうのである。
ジェーンはその現状について、「たしかに自分は邪魔ものだろう」というように達観した姿勢を見せる。
このような幼少期のジェーンに対しては、思わず読者も「かわいくない」と思ってしまうかもしれない。
しかし、ジェーンはこのように幼少期から精神的に成熟し、芯の強さを持った女性なのである。
成長してからのジェーンは、一層たくましさを増す。ジェーンは学問を修め、それをたのみに職業選択の自由も持つ。
女性の自由恋愛
そして何よりは最終的に、ジェーンは「自由恋愛」によってロチェスターと結ばれることだろう。
ロチェスターがジェーンを選ぶのではない。ジェーンがロチェスターを選ぶのだ。
女性に結婚の自由がないことが当たり前ではないという時代に、このような作品が書かれたということに、『ジェーン・エア』という作品の不朽の価値があるのである。
また、作中でジェーンは、決して美人ではないと書かれる。
容姿や愛嬌によってシンデレラ・ストーリーを駆け上がるのではなく、ジェーンは自分の意志と決断によって、自分なりの幸せをつかむのだ。
これは、この作品が今なお支持を集める理由なのではないか。
「バーサ・メイスンの死」という「暗部」ー現代的観点からー
だが、『ジェーン・エア』が「女性の自立」を描いた現代的な作品であるかというと、さすがに1847年の作品ということもあって必ずしも現代的な価値観に合致する作品とは言えない点も多い。
むしろ、「ジェーン・エア」は、現代の価値観からは批判される点も多いのである。
その最たる部分は、バーサ・メイスンが死ぬことによってジェーンとロチェスターの結婚が可能となるというところであろう(あらすじをご参照のこと)。
バーサは、現代でいうところの統合失調症患者であり、また植民地出身の女性である。
ここに、障害者差別・人種差別的な観念を感じざるを得ず、読後感に引っ掛かりを覚える人は多いだろう。
この部分だけを見れば、私は「政治的に正しい」とはいえない思う。ポリティカル・コレクトネスに反するのである。
「ジェーンの闇の分身」としてのバーサ
この「バーサ問題」は、19世紀中葉以降多くの人々の関心を集めてきた。
『屋根裏の狂女』という評論では、バーサはジェーンの「闇の分身」とされている。すなわち、自立した女性としてのジェーンの対照的立場である、抑圧された旧時代的な女性の象徴が、バーサであるというのである。
さらに関連して、『サルガッソーの広い海』という作品もある。
この作品は、バーサを主人公とした二次創作である。現代的な観点から、バーサを不条理に抑圧された女性として描き出す、非常に面白い視角を持った作品である。
しかし、このような批評がなされているように、『ジェーン・エア』は「女性の自立」だけを描いているのではなく、「女性の抑圧」も描いているのである。
ジェーンの幸福は、バーサの不幸のもとに成り立ったものであった。そのような意味では、『ジェーン・エア』は必ずしもハッピーエンドとは言えない。
作者シャーロット・ブロンテがこのことに自覚的であったかはわからないが、私たちはこのことを考えながら『ジェーン・エア』を読む必要があるのかもしれない。
おわりに
以上のように、『ジェーン・エア』は「女性の自立」を描いた作品でありながら「女性の抑圧」を描いた作品でもある。
もちろん『ジェーン・エア』を、美しく瑞々しいシンデレラ・ストーリー的な恋愛譚として楽しんでも構わないが、現代的な考察を行うことができるのもこの作品の意義なのである。
『ジェーン・エア』は、現代でもなお読む価値を有している作品であることは、間違いない。
▼『嵐が丘』は、シャーロットの妹エミリー・ブロンテの作。『ジェーン・エア』に比べると難解だが、それゆえ文学的評価や熱狂的ファンの多さではことらが勝っているような気がする。
しかしシャーロットもエミリーも、非常に短命であった(シャーロットは比較的長生きした)。神は、ブロンテ姉妹に才能を与えた代わりに寿命は与えなかったのだとつくづく思う。