『燃えよ剣』の土方歳三像の考察【司馬遼太郎の原作小説&原田眞人監督の映画との違い】

燃えよ剣

司馬遼太郎の小説を原田眞人監督が映画化した映画『燃えよ剣』を観た。その後司馬遼太郎の原作『燃えよ剣』も読んだ。

まず、映画を観た感想としては、殺陣が見事である。

主演の岡田准一のアクションへのこだわりと、原田監督の「時代劇という伝統を絶やさない」という矜持を感じる。非常に見ごたえがある映画であった。映画を観終わって、このような日本映画の伝統を汲みつつ現代的なアクションも取り入れられた映画は、これからも映画館で見ることで応援していきたいという感情を強くした。

ただ注意点としては、見ごたえのある殺陣であるがゆえに、流血の描写は多いので、苦手な方は気を付けた方がいいかもしれない。

そして、殺陣以外でも、役者さんたちの演技が素晴らしかった。

岡田准一土方歳三は流石だったし(歩き方などの演技表現も素晴らしい)、

鈴木亮平はまさに近藤勇そのものだったし(もう鈴木亮平以外が演じた近藤勇を見ても、違和感しか感じられなくなってしまうと思う)、

山田涼介は良い意味でなよなよしていて、原作の沖田総司通りの好青年だった。

伊藤英明の演じた芹沢鴨は他を圧倒する存在感だった。

また、お笑い芸人が映画に出演することには賛否が分かれることも多いだろうが、

金田哲(はんにゃ)の演じた藤堂平助は役に溶け込んでいたし、

村本大輔(ウーマンラッシュアワー)の山崎烝は、映画の中で「異質」な存在ではあるが「町人出身の新選組隊士・山崎烝」にぴったりで、シリアスな映画にコミカルな要素を加える存在として欠かせない存在だったと思う。

原田監督の配役の妙には、心から賛辞を贈りたい。また脚本も、「回想」という形をとって物語に観客を引き込んだり、物語後半を短く流して終わらせたりした点は見事だったと思う。

しかし、映画で少し残念だった点を上げれば、主人公の土方歳三という人間の魅力があまり見えてこないことである。

この記事では、司馬遼太郎が『燃えよ剣』で描いた「土方歳三像」について考察することで、映画『燃えよ剣』の土方歳三についても補足することも目標としたい。

燃えよ剣 (文春e-book)

『燃えよ剣』の描く「土方歳三像」

土方歳三の行動原理

先ほど映画『燃えよ剣』では「土方歳三という人物の魅力」が見えにくいと書いたのだが、原作でも土方歳三の魅力はわかりにくいかもしれない。

その理由は、土方歳三の行動原理が、現代人には共感しにくいからである。

歳三は、武州(現在の東京都多摩)の百姓の家に生まれた。ある程度裕福な「お大尽」と呼ばれる家だったとは言え、農民は農民である。

そうであるから、歳三は「侍」になるという強烈な上昇志向を持っている

そして、歳三は京都で「武士」になる。

だが歳三は生まれからの武士ではないから、現実的な「武士像」は持っておらず、自分の理想とする苛烈な「武士像」を周囲に求め、自分も実践するのである。

「私はね、日本中の武士はみな腰抜けだと思っている。武士、武士といっても威張れたもんじゃねえという現場を、この眼で何度もみてきた。家禄の世襲と三百年の泰平がそうさせたのだろう。が、新選組はそうはさせぬ。真の武士に仕立てあげる」

こうして、土方歳三は、新選組を「自分の作品」として精強な組織に仕立て上げることだけを目的として生きるようになる。

土方歳三の思想

土方歳三はこのように新選組を「喧嘩屋」に仕立て上げることには執着するものの、土方歳三には政治的な「思想」はない

当時の浪士たちには、政治的な思想があった。むしろほとんどの人間は自分の思想のために、命をなげうったのである。

「攘夷」、つまり異人・外国人を日本から追放・抹殺して「神州」を守ることを目指した思想。

「尊王」「勤王」、天皇のために働くことを目的とした思想。

こうした思想を、当時の志士たちは持っていた。

一方、『燃えよ剣』の土方歳三は、そうしたことには興味を示さない。

「攘夷」には興味がなく、舶来物の懐中時計を愛用していたり西洋の軍制を参考にしていたりと西洋の文化に理解を示している。

また、天皇を重んじるという思想の持ち主でもない。

では、土方歳三はどのような思想を持っていたのか。

土方の考える「真の武士」とは、一度禄を食んだら、死ぬまで忠誠を尽くすような武士である

一度敵対した相手に投降するなどということは、絶対にありえない。主君を変えるというのはあり得ないのだ。

だから、土方歳三は「幕府側」がどんなに劣勢になっても、一人戦い続けるのである。

こうした土方歳三の生きざまは、共感することは難しいかもしれない。

だが、自分の信念を貫いて死んでいった者のドラマは、胸を打つものがある

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『燃えよ剣』の原作と映画との違い

このように、『燃えよ剣』の土方歳三は苛烈な人物である。

映画『燃えよ剣』では、この苛烈さが少しマイルドになっている部分もあるのだが、マイルドになっているせいで逆に魅力がわかりにくいところはあるのかなという気がした。

ここからは、具体的に『燃えよ剣』の小説と映画の相違点について、一部書いていこうと思う。

なお、『燃えよ剣』は文庫二冊にわたる長編を2時間半の映画にまとめているため、原作との違いは当然ながら多い。そのため、ここで紹介する「原作との違い」は一部である。

「お佐江」と「お雪」

『燃えよ剣』は映画では柴咲コウ演じる「お雪」しか登場しないが、原作の前半では「お佐江」という女性も登場する。

この二人の女性は、歳三の変化を示す役割として重要である。

「お佐江」は身分が高い女性であり、かつて多摩で強い上昇志向を持っていたころの歳三は、こうした自分よりも身分が高い女性しか好まなかった。お佐絵と歳三は京都で再会するが、袂を分かつことになる。

一方、「お雪」は身分の高い女性というわけではない(映画と原作では出自の設定が少し違いそうだが)。

こういう歳三の「好きなタイプの女性の変化」は、歳三がどのように「変わった」のかを示す点で、原作では効果的に使われている。

七里研之助という人物

『燃えよ剣』で土方歳三が歴史の大舞台へと飲み込まれていくようになったのは

人を殺した

からである。

この理由も原作と映画では違う(原作ではお佐絵絡みである。原作の方が歳三がより苛烈に表現されている)。

が、それは置いておいて、この殺人のせいで歳三は七里研之助という人物(司馬遼太郎の創作したキャラクター)に京都でも命を狙われることになる。

この人物の結末については、原作と映画ではかなり違うのだが、映画での方が魅力的に描かれている

全体的に、映画ではサブキャラクターが非常に魅力的に描かれている。お人好しの近藤勇しかり、冒頭に書いた通り沖田総司や山崎烝も非常に魅力的だ。

そのせいで逆に土方歳三の魅力がわかりにくいという面もある気がする。

『燃えよ剣』は男色小説ではない

ところで、「『燃えよ剣』の映画と原作との違い」について検索していたら、『映画.com』編集長の大塚文貴さんがこのような映画批評を書かれているのを見つけた(2021年11月12日閲覧)。

原作の愛読者であれば、新選組内に漂う男色の気配が後に内部崩壊を招いていくさまが余すところなく描かれていることこそ「是」とするかもしれない。

その実、大島渚監督は司馬の短編集「新選組血風録」収録の「前髪の惣三郎」と「三条磧乱刃」を原作に映画化した遺作「御法度」では、男色の視点で艶やかに描いている。だが原田監督は今作ではその要素を極力排除し、土方を介して「剣に生きる」という眼差しを注ぐことで、「生き抜く誠」を表現してみせた。

観る者も、そんなことは些末な問題だということをスクリーン全体から浴びるように感じ取ることになるだろう。

すでに他の方も批判されているが、私としても、この批評は理解しがたい。

大塚さんは司馬遼太郎の『燃えよ剣』を、あたかも「男色小説」のように書き、映画はそれを「極力排除」したと書かれているが、『燃えよ剣』に男色の雰囲気はほとんど感じられない

ものすごく深読みすれば美少年として知られる沖田総司らをめぐって男色の雰囲気を感じられなくもないかもしれないが、それは映画も同じだ。

大塚さんは、おそらく『燃えよ剣』を他の作品と混同されているのではないだろうか……。

もし『燃えよ剣』が男色小説だと期待して読み始めても、その期待は裏切られるはずなのでご注意いただきたい。

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おわりに

このように『燃えよ剣』の土方歳三は、かなり共感しにくい人物なのだが、「自分の考える武士像」を貫いた人間として描かれている。

そこに魅力を感じるかは読者次第だが、汗臭い男の生きざまの生き生きとした描写はさすが司馬遼太郎である。

『燃えよ剣』は、司馬遼太郎の歴史小説としては短いほうであり、おすすめの作品である。

また、映画も「土方歳三像」が少し見えにくいという欠点を書いてしまったものの、冒頭で述べた通り素晴らしい映画である。ぜひおすすめしたい。

▼『燃えよ剣』は文藝春秋と新潮社から出ている。

『燃えよ剣』は『週刊文春』に連載されたが、当時は文春文庫がなかったため文庫は新潮文庫から出された。電子版または新書判でで一冊で収めたいなら文藝春秋版文庫で入手したいなら新潮文庫版(上下巻)がおすすめである