知の巨人・エーコの遺作『ヌメロ・ゼロ』―衰退してゆく国家への視線【あらすじ・感想】

ヌメロゼロ
ベルルスコーニが死んだ。ベルルスコーニといえば、実業家として特にテレビ局などのメディアを掌中に収めた「メディア王」であり、汚職や脱税など数多くの不正疑惑で捜査を受けつつも、合計9年以上イタリアの首相の座にあった人間である。アメリカのトランプもベルルスコーニに重ね合わせられることも多かったが、そういう人間である。こういう人間が権力を握るのは、21世紀の必然だとは思うし民主主義的には「正しい」のだろうが、必ずしもそれが素晴らしいのかというと私は答えを留保したい。
ベルルスコーニというと、小説として思い出すのは、イタリアの知の巨人ウンベルト・エーコの遺作である小説『ヌメロ・ゼロ』である。
この小説には、ベルルスコーニをモデルとする人物が登場する。今回はこの小説について紹介したい。

『ヌメロ・ゼロ』概要・あらすじ

最初にこの小説の概要とあらすじを軽く紹介したい。

この小説の主人公・コロンナは、文才はありながら良い職や機会に恵まれずゴーストライター業などで生活する50歳の男である。

そんな彼は、シメイという男に、資産家ヴィルカメーテが出資する『ドマーニ』(『明日』)という日刊紙の創刊の話を持ちかけられる。

(※ヴィルカメーテのモデル=ベルルスコーニ)

シメイは記者をとりまとめるデスクの役割を与えられる。

『ドマーニ』の編集部に集められた記者は、皆うだつのあがらない、成功を求めているジャーナリストたちだった。

何事にも陰謀を見出す才能を持つロマーノ・ブラッガドーチョ

ゴシップ誌で芸能人の「アツアツ交際」を撮る仕事に嫌気がさして編集部に参加した紅一点のマイア・フレジア

そして、事件・事故取材に長けたカンブリア、クイズ・パズル雑誌で働いてきたパラティーノ。得体の知れない出版社に勤めてきたルチディ。組版の仕事をしてきたコンスタンツァ。

 

お察しの方もいるだろうが、これだけのメンバーでは日刊紙が作れるわけがない。ヴィルカメーテも、実は日刊紙を発行する気はないのだ。

パイロット版であるゼロ号はいつの日付にしてもいいのだから、何か月か前に出ていたとしたら、たとえば爆発事件のあった直後に出ていたとしたらどんな紙面だったかという例でいいのだ。

ヴィルカメーテの思惑はこうだ。成り上がり者の彼は「俺はこんな、権力をゆるがすような日刊紙を作れるんだぞ」と認めさせることで、上流社会の一員になりたいのだ。

 

そして物語は、次第にコロンナが追う陰謀の話へと推移していくーー。

 

なお丹念な小説の読み方をする読者には不要なお節介だと思うが、この小説の各章は1992年のとある日付になっている。最初の章は1992年6月6日土曜日午前8時で、結末部に近い。

物語は1992年のイタリアとリンクしつつ進行していく。

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『ヌメロ・ゼロ』のテーマ

この小説はそういうような筋書きだが、結局この作品は何を言いたいのかーーというところになる。

一つ目は、メディア批判である。

痛烈なメディア批判

この小説はメディアを扱った小説であるから、メディアについて、特に報道による印象操作のあらゆるテクニックが書かれている。

それがコメディ調に書かれているので、読んでいて普通に面白い。

たとえば、イタリアでは渦中の人物について「中華料理店であやしげに箸を使っている」なんて報道することもできる、という笑ってしまうようなものもある。

ーーこの記述はエーコ自身の被害体験も反映されていると、本書解説で知った。詳しくは読んでください。

あとずさりする歴史

だが、この小説は単にメディアを批判した小説というわけではない。

どちらかというとこの小説が抜きんでている点としては、この小説が実際のイタリア社会の出来事とリンクしていることである。

たとえば、1992年5月23日のイタリアでは、マフィア撲滅に努めてきた検事ジョヴァンニ・ファルコーネが、マフィアによって暗殺された。

こういうような出来事が、小説の世界とリンクして進んでいくのである。

(なお、この小説登場する人名は、編集部の人間以外全員実名である)

 

そして、そういうような事件や物語世界の事件を通して描かれているものは何かというと、「歴史の後退」である。世の中は良くならないどころか、後退しているというある種の諦念のようなものがこの作品の中には存在する。

なにせ物語中で、マフィアは検事を殺し、汚職に塗れたメディア王が政界を牛耳るようになるのだから。

ところでエーコの著書に『歴史が後ずさりする時』というものがあるが、『ヌメロ・ゼロ』は、そんな「後ずさりする歴史」を探偵仕立てにしたような小説であると私は思う。

 

作品の中には、今の日本で社会的に問題であるとされているようなことに当てはまるのではないかと思うことも多い。

たとえば、物語最終盤のこういったセリフだ。

イタリアも少しずつ、きみの逃亡したいという夢の国になりつつあるんだよ。……汚職にはお墨付きがあり、マフィアが堂々と議会に入り、脱税者も政府にあって統治する。刑務所に入れられるのはアルバニア人のニワトリ泥棒くらいだ。良識的な人々は悪党に投票し続けるだろう。……そして誰か要人が殺されれば国葬だ。……この国が決定的に第三世界になれば、住みやすいところになるよ

どうだろうか。

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おわりに

エーコが世を去ってから6年が経つが、エーコの著作はいまだに示唆に富んでいる。エーコの言葉がいまなお新しく聞こえるのは、いま歴史が後ずさりしているからかもしれない。

エーコの長編小説の中では『ヌメロ・ゼロ』は例外的に短く、おすすめである。ただ、正直エーコの長編作品やの著作の中で、この『ヌメロ・ゼロ』が最高傑作かというと、それは残念ながらおそらく違う。

『バウドリーノ』などのエーコの小説の読後の充実感は、他の作家ではなかなか味わえないレベルの高さなのだが、残念ながら『ヌメロ・ゼロ』にその充実感は乏しいと言わざるを得ない。ただ、エーコの文章が持っている文章の軽妙さと、物語冒頭に示されるような奇想は面白い。

個人的には、『ヌメロ・ゼロ』よりも、先ほども紹介したエーコのエッセイである『歴史が後ずさりする時』(2000年から2005年にかけて書かれたエッセイだが、古くない。原題は『エビのように歩く』で、イタリアではエビは後ろ向きに歩くというイメージがあるため)の方が、純粋な読み物という意味では含意に富んでいて面白いと思う。

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