不眠の子守唄

書評ブログ。たまに本以外も。読書は海外文学、音楽は洋楽多め。

ショートショートの神様・星新一はワクチン陰謀論も描いている

コロナ禍という不運

新型コロナウイルスの流行に見舞われるなんてつくづく運の悪い人生だと思う。

しかも私の場合、20代前半というバラ色のはずだった(!)時期を、自粛一色に染められるなんて! もしコロナがなければ、新たな出会いもあっただろうし、海外旅行に行ったり豊かな体験をできるはずだったと思う。そう思うと憤懣やるかたないし、そういう不満を抱えている若者が、いつか間違った方向で怒りを発散させてしまうのではないかと考えると、怖い。

先日女性らを刃物で襲った卑劣な事件があった。この事件の背景はまだわかっていないが、コロナで人生が台無しにされたと感じた人が、「恵まれている」ように見える人を襲う、というような構図の事件は今後も起こりうるだろう。

乱世に生きて

このようにコロナ下の人生の不満を書いてしまったが、実をいうと私は新型コロナの流行を体験できて良かったかもしれないと考えている面もある。

それは、私が幸運にもコロナによって経済的なダメージを喰らっていない、そして身近な人をコロナによって失っていないということがあるので、その点は断っておかなくてはならない。

 

しかし、一番コロナを体験できて良かったかもしれないと思えるのは、やはりコロナという事象が戦後最大の「歴史的出来事」であるということだ。

私は、目下明らかになっているような社会の変化はあまり好ましくないように思うが、しかし同時に、社会の変化が明らかになるのを目撃するということは、歴史の一部分というまなざしから現在を見たときに、非常に興味深いことである。

人々の苦痛の大きさを考えれば、現代人の視点からコロナを「よかった」とは絶対に言えない。しかし、歴史という視点から見れば、これほど興味深い探求対象はない。

 

今年逝去した立花隆さんも、同じようなことを言っていた。戦後の成長期を体験した立花さんは、自分が退屈な時代に生まれたと感じていた。

しかし、立花さんは、現代が科学文明が終わりを告げようとしている時代であることに気づいたときに、自分の生きている時代の面白さを「発見」したのだという。

私は、どちらかといえば平穏な時代を生きたかったタイプの人間であるが、「乱世」を目の当たりにしたかったという気持ちもわかる。

 

小説の世界と現在の社会

大河ドラマなどや歴史小説の題材となるのは「乱世」だ。これには色々な理由があるだろう。認知度の高い時代の方がファンがつきやすかったり、乱世の方がストーリーの起伏が作りやすかったりという現実的な理由がまずは考えられる。

これに加えて、世の中が乱れているほど「人間とは何か」というものが見えやすい、という理由があるのではないだろうか。

 

小説やフィクションが何のためにあるのかというと、単なる娯楽というのでも構わないと思うが、小説は「人間とはどういう存在か」ということを追求する手段の一つであるということが挙げられよう。

 

小説は、「人間とは何か」ということを描くための舞台として乱世を描く。

現在のコロナ下の社会は、小説の舞台となるような乱世である。まさに私たちは、小説の世界を生きているのだ。

ーーいや、小説の世界を生きているというのは違うかもしれない。私たちは今、小説が描こうとした「ほんとうの人間性」というものが、果たして本当なのかということが試されているのではないかと思う。

 

小説とコロナ禍、という観点から真っ先に思い出されるのはカミュの『ペスト』だが、あらゆる作品で描かれた事象が現在の社会では現実になっている。

むしろ、現実が小説を超えてしまっていることもあるだろう。

それは、SFなどでもそうである。

星新一の描く「ワクチン陰謀論」

たとえば、ワクチンへの陰謀論を見るにつけて思い出すのが、星新一のショートショート「流行の病気」だ。 

 

「陰謀」を完全に否定するのは悪魔の証明であり不可能だが、インターネットで流布している陰謀論には一次ソースを捻じ曲げたものがあまりにも多い。私もオカルトサイトを読むのは好きだったので陰謀を心の片隅で信じる気持ちを完全に否定するわけではないが、踊らされている人間があまりにも多いのには、オカルト好きであったこともあり非常に複雑な気持ちだ。

 

さて、話を戻そう。

星新一はショートショート「流行の病気」(『ひとにぎりの未来』所収)で、「ワクチン陰謀論」で取り沙汰されているようなことが「本当」である世界を描いている。

この意味で、星新一の「流行の病気」は、「ワクチン陰謀論」を補強する要素かもしれない。

星新一の描いたことは現実になっているのだ、星新一は「陰謀」を見越していたのだと評価できるかもしれない。

 

しかし、星新一はワクチンの「恐ろしい可能性」を啓蒙したかったのではなく、誰かの言われるがままのことに同調してしまう人々のことを風刺したかったようにも読める。

 

そんなことを考えながら、小説とコロナ下の社会ということについて考えてみると、ふと「コロナ禍も、体験として受け入れよう」という気がわいてくることがある。

おわりに

以前、外国で、ホラー映画の愛好家はロックダウン下でもストレスが上昇しにくかったということが明らかになったとニュースになっていた。

ホラー映画の愛好家は、フィクションで「非現実的なこと」を体験していたおかげで、コロナ禍という「フィクション的なこと」が現実の悲劇として起こったときに、心の準備ができていたのだ。

 

このようなことは、ほかのフィクションにも言えるだろう。フィクションというのは、体験したことのない人生を体験することのできるワクチンのようなものなのかもしれない。

本を読む人が多い方が社会はよりよくなる、と信じているのは、読書家の独りよがりな押し付けだろうか。

 

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